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未来を見すえた教育のゆくえ

 ティーチング・ディスアビリティ(TD)って、ありそうだナと思った。もちろん、多くの教師は身を粉にして、日夜を問わず教育に当たっているのだが、である。その割に行政のケアが厚いとは聞かない。
 今もそうだろうが、ひと頃LD(ラーニング・ディスアビリティ)と呼ぶ学習障害が話題となった。この先導をある大学研究者が担い、主に米国のデータを列挙して、LDの認知は教育世界の流れだと確信ありげに主張するものだった。マスコミは大いに乗った。話題になるからとは言い過ぎだろうが、現場の先生方や教育関連の企業はもちろん、行政にも一定の影響があっただろう。「できない子」の対処に苦労していたからだ。
 だが、もろ手を上げるようにして、この手の議論に賛成する気持ちにはなれなかった。ぼくはむしろ、学問的力量の貧困さを感じた。確かに、あれだけメディアに持ち上げられ、「専門家」諸氏の賛同を得られれば、研究者、提唱者としては悪い気はするまい。

散歩の途中で(冒頭の写真も同じ)

 先天的に学習上の能力的障害を認めて適切なケアが必要な場合はある。しかし、ちょっと手がかかれば「LD→学習障害」の生徒とレッテル貼りをされて、親子ともども暗たんとした気持ちになる。だからそれ相当の補助や施設の対応が迫られる。だがそれは、子どもの能力や発達を正しく見極めてのこととは言い難い面があった。
 LD(学習障害)の小学生には圧倒的に男子生徒が多いとされた。しかるに中学後半にはその傾向が認められ難くなるらしい。主に米国の統計が示され、日本でも同様とされる。それを「障害」と言うのは拙速に過ぎるのではないか。有名なファーブル、エジソン、アインシュタインらの例を上げたとしても、彼らは特別と言われれば、「あっそうですか」と言わざるを得ないのである。
 LDについてはまぁいいとして、冒頭の話、TD(ティーチング・ディスアビリティ)はどうだろうか。現場は猫の手を借りたいほど忙しく、責任が重いうえに、決して給与が満足ではない状況である。大半の教師は並大抵ではない苦労を強いられるようだ。だから一つのジョークと思って結構なんだけれど、現場ではTDに陥る危険に向き合うことがあると、特に「上部」に座る方々には思ってもらいたい。

わが散歩コース

 昨今はコロナ禍もあり、AI・人工知能の技術発展の利用が急速に普及した。教育も例外ではなく、従来から例えばパソコンを用いた授業がある。家でも学校でも塾でも可能だ。受験だと一般に知られるのは、有名学校や大学への合格者発表だろう。だから、教育産業は成果が上がる教材や教授法やらを研究開発し、競争し、宣伝にこれ務める。いかに効率的に知識、技術が身につくかとか、個人それぞれの習得に応じたプログラムが用意されているとか・・・。ひと頃までのイメージが古色蒼然に見えるのは、それこそ「時代の流れ」というべきところだろう。
 先生方の指導にも大学で教わったことだけではなく、日々の変化に対応するだけの「学習」が必要になるし、講習もある。当然、これでいいということがないのが教育だ。

 思い返せば、アルビン・トフラー(1928~2016)が1980年に公刊した『第三の波』で、世界中にハッキリと提示したのは、社会発展の3段階、「農業革命、産業革命、脱産業(工業)革命」だった。マルクス主義者の言う唯物史観の社会発展論を知る人々には、敬遠され、無視されたかも知れないが、2006年8月、中国の「人民日報」紙は、現代中国を形成した50人の外国人の1人に、彼を取り上げたということである。
 トフラー(夫妻)は、脱産業(工業)社会を情報社会とにらんだのであった。その歴史観を受けてであろう、その後、狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、そして情報社会(Society 4.0)まで行って、今はそこに止まらない。「Society 5.0(ソサエティ5.0)」を考えて、その対応を未来の教育のあり方と結び付けている。種々の経済的・社会的問題の解決をはかる特質を持つといわれるこの社会システム「Society 5.0(ソサエティ5.0)」の問題は、その筋の方々にお任せしても、サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を融合させる高度な技術がそれを保障する、というビジョンは確かに美しい。けれども、肝心の「人間」や「平和」や「倫理」から遠ざかるようであってはいけない。

 「Society 5.0(ソサエティ5.0)」は、「人間中心の社会」ととらえ直した新たな社会なのだという解説もある。それなら、教育の現場を支える「知識」の在り方に目を向けたい。それがなければ、単なる「お題目」になってしまうだろう。また、言うまでもなく、文科省、教育委員会など、教員の待遇を誇りある方向に変える努力をしなければならないだろう。
 特に「知」のあり様を左右する受験に関する取り組みは、民間に任せれば済むというような皮相な判断で済むわけがない。若い力がそがれ、名のある難関大学に入ったにせよ、それが少しも人間の証にはならないことは、世間を少し見ただけでも判ろうというものだ。
 トフラーは、 Rethinking the Future の中で「21世紀の文盲とは、読み書きできない人ではなく、学んだことを忘れ、再学習できない人々を指すようになるだろう」と言ったが、日本では、そもそも学んだこと自体が問題になる、とぼくは思っている。

 和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com です。ご連絡ください。


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