和久内明

団塊(だんかい)の世代は「ひと固まり」になる世代だとか。しかし、生きた時代がそれぞれ異…

和久内明

団塊(だんかい)の世代は「ひと固まり」になる世代だとか。しかし、生きた時代がそれぞれ異なっても、語るべき話を避ける人々を「ひと固まり」と見るべきだ。固まれば思考放棄できるからね。(日本哲学会、現代知クラブ、POSS主宰)

最近の記事

今、振り返る19世紀からの思想の歩み(12) 今から見れば古くて新しい

 前回、3.11の集いで披露された詩について、この場を借りて一言申し上げた。友人が、「311への思いは各々あることですが、熱心に批判をしてくれるというのは凄いことです。それだけの存在感があり、無視された存在でないことの証ですね。」と返してくれた。加えて「世間の大半は何も反応しない、なかば無視の対応の中で批判すると言うことは、実は大半は共鳴するものの納得できないところがあるという主張でしょうね。」とも言う。  この友人の言ではないが、全く自分から離れた(つまり家族ではないという

    • 3月11日の集いで、起きたこと。詩と音楽。

       まぁ、言い訳になるんですが、色々なことを表わすことにもなりますので、此処に書き記すことにしました。  まず下の詩を読んでください。震災で有名になられ、原発に始めっから反対していたなかなかの方の詩です。         「草茫々」       草茫々       田畑茫々       村一つ荒れ果てて茫々       二年前       玉蜀黍畑を風が渡り       大根の葉先に朝露が鈴生りの       その畑に       ささやかな豊かさに満ちた       そ

      • 今、振り返る19世紀からの思想の歩み(11) 結果の結果、その結果

         今を生きている、というのはなかなか厄介というか、それ自体はいいんだけれど、今しか見えない。しかも見ているものが、人それぞれである。何がどう議論されようとも、必ず反発がある。それで結構と思うこともできるんだけれど、思考放棄のあげくではかなわない。極端な表現だが、なんだってありだ。  そういう場合、欲求不満を解消するやっつけ言葉を見つけて言えばよい。それで溜飲を下げる手合いがいるだろう。ネットなら、偉そうなことを言って、他人の意見をバカにしくさった言葉を投げつけ、自己満足が得ら

        • 今、振り返る19世紀からの思想の歩み(10) 肝心なのは「自由」なのだ

           このところ取り上げざるを得ないのは、要するに「暴力革命」の問題である。今日、この日本で暴力革命を改めて論じる興味も関心もないんだけれども、これが意外にも「自由」の概念というか、その思いと切り離しがたい歴史を持ったもので、そう思うと簡単な話にはならない。  前回、「修正主義」の権化として有名で、ある方面では汚名と言って差し支えない「ベルンシュタイン」の書いたものを「うっかり」引用してしまった。しかも、彼の主張の肝心かなめの部分ではないところだった。それで、その議論をするなら

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           今、振り返る19世紀からの思想の歩み(9)昭和3年の本…もったいなかった

           ぼくの勉強してきたところでは、やはり19世紀後半、そしてロシア革命の思想が、結果として様々な思考錯誤を流産させたと思うのである。その間、帝国主義、資本主義は幾度も危機を生み出し、その度に新たな顔を見せた。そのことを思い、考えてみたい。   「絶体絶命」とか「極限状況」にあった場合、例えば戦場で、どこに連れていかれるか分からない場合を、できる限り想像してみる。身につまされることだが、それでもかなり原体験とは離れるものだ。明日どころか次の瞬間にすべてと別れなければならないと

           今、振り返る19世紀からの思想の歩み(9)昭和3年の本…もったいなかった

           今、振り返る19世紀からの思想の歩み(8) もうこのままではダメだ。

           社会主義や議会主義を論じるとき、欠かせないのは、民主主義あるいは自由の問題であるし、法の支配であるだろう。それゆえ、ディスカッションというか、議論の交換を通じてより高い意識、より広く政治への参加を集めていくことが、意欲的に考えられていなければならない。  しかし、20世紀前半に、世界大戦を2度も経るのである。そして、自由や民主主義が人々をとらえ、大きな政治的力として、万国に行きわたったとはお世辞にも言えない。何故なんだろう?これはそれこそ奥深い問題で、もちろん一朝一夕にまと

           今、振り返る19世紀からの思想の歩み(8) もうこのままではダメだ。

                現代知の挑戦                 Challenging of Knowing for Present Epoch 

          ・文化・教養分野において言論活動をしている和久内明(=長野芳明)は、  25年以上にわたって大人の学習サークル「POSS」(ポス)を続けていま  す。POSSは、詩を軸に日本文学、英詩・英語史、哲学を、平日の午前中、  基本的に定員6人で学んでいます。映像は、定員8人です。 T-POSS  内外の映画とドキュメンタリーを教材に、幅広い世界を知ります!  A・B日程の二つあり、原則として以下の日取りで行います。    ・A日程は、毎月、第2火曜日の午前10時から2時間過ぎ程

                現代知の挑戦                 Challenging of Knowing for Present Epoch 

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(7)  今の今、まっすぐに!

           前回、追記として横田めぐみさんのことに触れたのだが、是非読んでいただきたいと思う。これら今に続く問題の根が、どこにあるのか知るうえでも、逃すわけにいかない話だからである。  さて、100年をⅠ世紀とするが、100年もすれば否応なく世の中も変わると考えれば、100年は社会変化と思想の問題に入り込む一つの区切りと言えるだろう。(徳川時代だって最初から最後までほとんど変わらなかったわけじゃない。)  実は、昨今、ペトロダラー(石油ダラー)やBRICS(ブリックス)、一帯一路など

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          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(6) 知らず知らずに?

           「パンとサーカス」とは、食べ物と娯楽を適当に与えておけば、人はものを考えなくなる、要するに、思考しない人々になるっていうこと、そう理解できる。言うまでもない、支配する人たちの継続支配の原則になる。  しかし、独裁者や独裁政権の中には、自分のところへ来た金銀、財宝を集めて、人々のパンに回さずに済むならそうしようと、権力に胡坐をかく手合いが出てくる。というか、そういう話ばっかり(笑)。ごちゃまんとそうしたことを歴史は教えてくれるもので、それを年齢や経験を経るごとに深め、広めて・

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(6) 知らず知らずに?

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(5) 「パンとサーカス」の果て?

           教育界は社会の縮図、と言われる。そこで、「だから?」と問うてみよう。解説はいずれも、「社会」の一部でその状況を映す、ということに止まりそうだ。しかし実は、そうではない。現代の「社会」は、日本社会に止まらないのだ。だから、国際的な広い歴史的視野を伴ったものでないと話は始まらない。  国力の比較、チカラ関係と前回書いた。教育界もこの伝で行くものかどうか。教育は違いますよ、と誰しも思うだろう。そう思いたいんだが、ぼくたちは、偏差値の比較で、1つ違うだけで優劣の判断をしがちではない

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(5) 「パンとサーカス」の果て?

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(4)

           確かに、東京オリンピック(第18回、1964年10月10日~24日)は、記念に値するオリンピックだった。冷戦という政治社会にうんざりしている世界中の人びとに、日本が平和をうたう戦後復興をアッピールする、最高の機会になった。閉幕式に見せた世界の選手たちの混じり合った行進など、感動の極致と言っても過言ではないだろう。クーベルタンの言葉が繰り返されたし、オリンピックが文化の先端を切り開く花道になったような明るさを投げかけた。(但し、マラソンの円谷選手を決して忘れてはならないだろう

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(4)

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(3)

           あらためて思う。体制が変わっても、根付いた習慣、慣習はなかなか変わらないものだ。肝心の体制変革すら、表向きとは異なり、そう簡単に変わるものではない。戦後も80年近く経って、こんなふうに思うとは、まさに「思いもよらない」ことだ。  前回述べた松川事件だが、下々は黙ってお上に従え、とか、知識人、文化人は、法律の専門家でないから、あらぬ方向に議論を持っていくとか、戦前を引きずっていることが見え見えに思える。「専門家」なる言葉に弱いのは致し方ないところとはいえ、上から目線、権威主義

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(3)

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(2)

           何かに左右される。そこが問題の根だと思われる。ぼくたちは、何かに頼って過ごしているのである。それ自体は、決して責められることではない。むしろ頼るべき人や仲間がいない状況は、極めて不自然で、望ましいことではない。そのことが、人の行動や考え方にも及んでいる。  それだけに、噂レベルの話でも馬鹿にできないものがあって、大いに注意を払う必要があるだろう。特に情報を提供する側になる場合だ。しかし、救いがたいことと思われるのは、提供者側が、注目されることばっかり、言い過ぎならば、注目を

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(2)

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(1)

           大人の生活に「理想」から離れるものがあったとしても、少年・少女時代に自分の望みが持てなくては、教育立国はおぼつかない。だからと言っては何だが、愛国教育に熱心な国々があるし、かつての日本にもその時代があった。  上から注入されるのではなく、自らつかもうとする情熱は誰にも与えられている、と考えることができる。実際にはそう簡単な話ではないところが泣き所だが、よーく考えて見なければならないところである。  大半の人が御存知ない時代になったが、自民・社会の2大政党が対立を極めた時代が

          今、振り返る19世紀からの思想の歩み(1)

          発言を控えない。「戦争と平和」だが、ぼくらの在り方についてだ。

           この1か月間、やられっぱなし。幼児のころはとも角、これで死ぬのかの思いで、ベッドに縛り付けられた。いや、動くに動けないのだ。一気に「最晩年」が襲ってきた。身につまされて人生の最後を思った。  コロナがきっかけとは近所の医者の言。家に来てすぐに救急車だった。合併症を起こし、ひどい肺炎、気管支炎で、唾液が通らない3日3晩、まことに生きた心地がしなかった。それにしても、病室担当者たちの、昼夜を問わずの看護、その支えには驚かざるを得なかった。これほどつらい仕事を、すこしも不快な表情

          発言を控えない。「戦争と平和」だが、ぼくらの在り方についてだ。

          大問題は大手中古車の宣伝(何とかモーター)だけではない。

           世間の耳目をこれでもかと言わんばかりに集めてしまう、マイナーニュース。楽しい話は、スポーツだろうが、例えばプロテニスでの醜聞、勝利至上主義とかナショナリズムとか、いやになることはやはりある。  大々的な宣伝で有名な何とかモーターなど、いま大問題になっているが、実はぼくも無関係ではない。車人間だったが、昨年暮れに高齢者免許を更新したものの、娘やら妻やらに、もうそろそろ運転しなさんな、と言われて、まぁいつかは止めなきゃなんないわけだしと、どういう風の吹き回しか、パッと売るつもり

          大問題は大手中古車の宣伝(何とかモーター)だけではない。