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『バービー』と「採点」の問題

(お知らせ)
こちらではすっかり告知を忘れていましたけれど、このnoteの有料マガジンのうち、3年分の作品評(30本)がまとまって、本になります。題して『2020年代の想像力 文化時評アーカイブス2021-23』。8月22日くらいから本屋さんに並ぶと思います。よろしくお願いします。

さて、今回のお題は話題の映画『バービー』だ。この映画については、来月に石岡良治さん、張彧暋さん、三宅香帆さんと4人で座談会を行うので、こちらで詳しく話したいと思っているのだけれど、今日はその前にざっと僕の立場を明らかにしておきたい。

最初に書いておくがこれは非常に、いやかなり「良くできた」映画だと思う。退屈さを感じることもなく、最後まで楽しく観ることができたし、作品のメッセージというか物語を通して提示される「私たちはいま、このあたりに立っている」という現状認識も、そんな世界にこうアプローチしようという態度表明も妥当なものだと思う。その上で、僕がここで論じてみたいのは、このように「感心」してしまう作品をどうとらえたらいいのか、という問題なのだ。

この作品の位置づけそのものは、それほど難しいものではない。フェミニズム史を総括しつつ、その現在地を(問題点も含め)誠実に、かつ建設的に示しているとひとまずは評価できるだろう。ラストシーンの妊娠、出産についての距離感は議論を呼ぶ(この映画の他の描写に比べれば安易だと考えることもできる)だろうが、良い意味で視聴者に判断を委ねる描き方にとどまってはいるだろう。僕が特に感心したのは、ライアン・ゴズリング演じるケンの描写で、戯画的に描かれるマチズモ(道場、ビール、女性の所有)に惹かれつつも、ケン自身が自分でキツくなっていく描写は素晴らしかったように思う。

と、こうして書いてしまっていることで明らかだろうが、この映画について語るとき、人間はどうしても言葉の最悪な意味で「Twitter的」になってしまう。それが今回、僕が論じてみたいことなのだ。

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