宇野常寛

宇野常寛 (評論家/「PLANETS」編集長) 連絡先→ wakusei2ndあっとy…

宇野常寛

宇野常寛 (評論家/「PLANETS」編集長) 連絡先→ wakusei2ndあっとyahoo.co.jp 070-6449-6489 著書に『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』 『母性のディストピア』など。

マガジン

  • u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)

    宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草稿や没原稿、なども載せていく予定。SNSでは書く気にならないことを、実はかなりマメに更新しています。月に数万字は余裕で更新しているので、かなりお得です。

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「個人的なノートブック」を再開します。

突然ですが、個人のノートブック(定期購読マガジン)を再開します。3年ほど前に、実は少しだけやっていたことがあるのだけれど、そのときは手が回らなくて(ウェブマガジン「遅いインターネット」)の立ち上げの時期でした)数ヶ月で閉じちゃいました。でも今回はしっかり続けたいと思っています。 なぜ、このタイミングで再開するのか……というと、書きたくなったからとしか言いようがありません。この4年ほど、僕はどちらかといえば編集者としての仕事ーー「遅いインターネット」「モノノメ」などーーに注力

    • 「自民公明党」「立憲共産党」「国民維新の会」の3択を迫られる時代が来たときに「メディア」はどうあるべきかという話

       さて、今日は先日取り上げた「東京15区問題」の続き、だ。前回は近い将来、僕たちは「る可能性が高く、そしてどれも選べない人たちがカルト保守に騙されていく……というウンザリする展開のシミュレーションとその僕なりの対抗案を考えた。  そして今日は「メディア」の話だ。  僕はこの問題に背後にあるのは、確実に国内言論の、55年体制というか戦後的な構造への「回帰」の問題だと考えている。  おそらくこのままでは日本は90年代の「新保守」的な感性が「改革」の御旗を掲げて、昔ながらの偽善的

      • 平成の「改革」という「物語」が終わったあとに、この国の政治に必要なことは何かを考えた話

        さて、やはり先日の衆議院補選についてはさすがに書いておかないといけない。僕は東京15区で乙武洋匡さんを応援した。さすがに、小池百合子と組むのはないんじゃないかと思ったし、それを本人に下記の動画でぶつけたりもしたけれど、応援した。 理由は二つあって、それは乙武さんの「政治」への生半可ではないこだわりを個人的に知っていたからで、そして良くも悪くも節操のない彼なら、もし小池百合子が日本初の女性総理になるために、危険な「賭け」に出たりした場合は容赦なく裏切ってくれると考えたからだ。

        • 僕が江東区の自民(維新)支持者だったら、(いろいろ文句はあるが結局)乙武さんに入れるしかないのではと考えるその理由

          さて、今週末には衆議院の補選が3つある。与党自民党の「裏金」問題と、選挙区の情勢を掛け算すると、3選挙区とも立憲民主党が勝つ可能性が高い。それは妥当な結果で、長期的にはこの国の民主主義にプラスの効果をもたらすかもしれない。もちろん、島根のあの人が当選するのはむしろ旧自民党の封建的な土着支配を強化するだけじゃないか、とかいろいろな見方はあるのだと思うけれど、そういったことは僕よりも詳しい人がすればいいと思うので、置いておく。 さて、その上で考えてみたいのが東京15区だ。ここに

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        「個人的なノートブック」を再開します。

        • 「自民公明党」「立憲共産党」「国民維新の会」の3択を迫られる時代が来たときに「メディア」はどうあるべきかという話

        • 平成の「改革」という「物語」が終わったあとに、この国の政治に必要なことは何かを考えた話

        • 僕が江東区の自民(維新)支持者だったら、(いろいろ文句はあるが結局)乙武さんに入れるしかないのではと考えるその理由

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          ¥980 / 月

        記事

          「贈与経済」は「怪獣使いと少年」を救えない(むしろ追い詰める)という話

           久しぶりにある本を読み通して、うーん、さすがにこれは……と頭を抱えこんでしまった。その本がダメだというのではなく、この本が出版されてしまう背景のようなものに、もう少しどうにかならないものだろうか、と頭を抱えこんだというのが正確な話だ。この年齢になって、誰かのコンテンポラリーな仕事を批判して自分の株を上げる……みたいな仕草になってしまうと寝覚めが悪いので、絞り込めないように書くとそれは少し前に出版されたブロックチェーンを用いた「贈与経済」の構想について書かれた本だ。内容的には

          「贈与経済」は「怪獣使いと少年」を救えない(むしろ追い詰める)という話

          「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題に対しての僕なりの解答

          三宅香帆さんのベストセラー新書『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』を先日読み終えた。世評通りの力作で、日本の近代史における「労働」と「読書」の関係が手際よく整理されており、とても勉強になった。 この本を通じて、多くの「働いているので、本が読めない」人たちが勇気づけられて欲しいと、僕も思う。もちろん、懸命なる読書家のみなさんは既に100%理解されていると思うが、「読書論」や「教養論」を手に取り、それを読み、SNSに感想を投稿して満足してしまっては、「文化的な自分」という自己

          「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題に対しての僕なりの解答

          「敵」が醜く描かれる世界は果たして「リベラル」であり得るのか(たぶん、難しい)という話

           少し前に映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の映画版(前編)を観てきた。作品そのものは、僕はとても楽しめたし、いろいろ考えることもあるのだが、作品自体のことは後編の公開後に批評するとして、今日は鑑賞中に覚えたちょっとした「引っ掛かり」のことを考えてみたい。後編も観ていないし、原作も未読の状態なのでこれは作品への言及ではないとしっかり断っておかなければならないのだけど、僕が引っかかりを覚えたのは、この『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の世界で

          「敵」が醜く描かれる世界は果たして「リベラル」であり得るのか(たぶん、難しい)という話

          「なぜタイムラインは誰かを常に糾弾し、連合赤軍は仲間をリンチし続けたのか」という話

           さて、ここ一週間は國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再読するシリーズ(その延長で『中動態の世界』『責任の生成』も取り扱った)を書いてきたのだけれど、なぜ突然そんなことをはじめたのかというと、月曜日に久しぶりに彼とゆっくり話す機会があったからだ。それはPLANETSCLUBで、國分さんが講師を引き受けてくれた柄谷行人についての入門的なオンライン講座で、質疑応答では率直に國分さんの柄谷解釈について質問することができた。 そこで、國分さんと僕との間で議論になったのは、「共同体」に

          「なぜタイムラインは誰かを常に糾弾し、連合赤軍は仲間をリンチし続けたのか」という話

          「既に回復された中動態の世界」の問題をいかに「ケア」するか――國分功一郎『中動態の世界』『責任の生成』を再読する

          別にこのnoteは僕の「初期(?)國分功一郎」への愛を叫ぶための場所ではなく、他にも書きたいことはたくさんあるのだが、一度始めてしまったらある程度まで書かないと今日も國分功一郎再読シリーズの続きを書こうと思う。 (前回までの議論はこちら) 今日は前回までの議論を『中動態の世界』と『責任の生成』を新たに参照しながら話を進めていきたい。 『中動態の世界』については下記に転載した『群像』の連載(「庭の話」)でも、まるまる一回分用いて取り上げている。 ざっと要約すると、國分は

          「既に回復された中動態の世界」の問題をいかに「ケア」するか――國分功一郎『中動態の世界』『責任の生成』を再読する

          人間は事物によって不可逆に変化し、「回復」しないときに「制作」に動機づけられる(という仮説)――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再読する

           今日も前回、前々回の國分功一郎『暇と退屈の倫理学』再読シリーズの続きだ。 僕はこの本が、書かれた当初はあまり想定されていなかったであろう(そりゃあ、2011年の本なので……)SNS社会を考える上で、重要な手がかりを与えてくれるように思い、ここしばらくこの本についてよく考えている。考えていることはたぶん、9月頃発売予定の『庭の話』という本に反映されるはずなのだけど、これはその思考メモのようなものだ。  それでは早速、前回の続きから始めたい。 ※  では、人間を変身「さ

          人間は事物によって不可逆に変化し、「回復」しないときに「制作」に動機づけられる(という仮説)――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再読する

          人間はどのような条件下で「制作」に動機づけられるのか、という問題を再考する(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を手がかりに)

          さて、前回に引き続き今日も國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の消費社会批判を情報社会に延長したらどうなるか……という思考実験を続けたい。  前回の議論をざっくりまとめると、『暇と退屈の倫理学』の消費社会批判は人間が事物そのものを「味わって」いない、というものだ。ブランド品の顕示消費がその最たるものだが、事物そのものを用いることではなく、事物についてのコミュニケーションの方に関心を移してしまっている。そして前者の欲望は事物を使用すれば満たされる。着たい服を着ることで、満足する。し

          人間はどのような条件下で「制作」に動機づけられるのか、という問題を再考する(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を手がかりに)

          國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の再読から考えた「退屈」が既に攻略された世界の問題

           さて、今日はこれからPLANETSCLUBで國分功一郎さんの講義があるのだけれど、僕は今日の講義とはまったく関係なく、最近彼についてよく考えている。年長の友人としての彼についてではなく、書き手としての彼の仕事について考えている。それは國分さんの『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』といった、彼の一般向けの著作で展開している議論が、ここ数年僕が考えていることに大きな手がかりを与えてくれるように思うからだ。  たとえば、僕は『暇と退屈の倫理学』をある種のオタク論として読んだ。

          國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の再読から考えた「退屈」が既に攻略された世界の問題

          『オッペンハイマー』と「歴史」の問題

          さて、昨日掲載した『TENET』までのクリストファー・ノーラン論を下敷きに、今日はいよいよ『オッペンハイマー』について考えてみたい。 この映画については、下記の座談会でも取り上げたのだが、結論から述べると僕はこの映画に「世評」ほど高い評価を与えていない。 昨日、僕はこう書いた。 では、その「空回り」とは何か、というところから今日の議論は始めたい。昨日掲載したノーランに対する批評で指摘した通り、彼の映画を特徴づけるのは劇映画という制度を問う姿勢だ。その問いは、『ダンケルク

          『オッペンハイマー』と「歴史」の問題

          クリストファー・ノーランと『オッペンハイマー』を考える上での整理(または『オッペンハイパー』論への下準備)

           先日、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』をようやく観てきた。この映画については、森直人さん、藤えりかさん、張彧暋さんとの座談会を配信したが、ここでの議論を踏まえた上で、改めて書いてみたいと考えてる。 結論から述べると、僕はこの映画にそれほど肯定的ではない。それは広島、長崎の原子爆弾投下による惨状を克明に描写すべきだ……といった表面的なものではなく、ノーランが反復してきた劇映画という表現について内在的な批判(問い)が、本作においては大きく空回りしているように

          クリストファー・ノーランと『オッペンハイマー』を考える上での整理(または『オッペンハイパー』論への下準備)

          続『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題

          さて、昨日に引き続き『不適切にもほどがある!』の話だ。 昨日の記事をざっくりまとめると、ゼロ年代初頭(『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』)のクドカンの批判力は、90年代的な自意識と心理主義とスノビズムに対して、マイルドヤンキー的な「ジモト」の閉じた時空間を対置したところにあった。これが、先鋭化してコミュニティを自己解体し、ばらばらの「個」の連鎖になっててしまったものが『マンハッタンラブストーリー』であり、その反動で浅草という古い街の「大家族」に回帰したのが『

          続『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題

          『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題

          昨晩、成馬零一さん、三宅香帆さんと3人で先日完結したテレビドラマ『不適切にもほどがある!』についての座談会を行った。今日は、そこで考えたことを改めて書こうと思う。 ちなみに僕はこの作品に寄せられたポリティカル・コレクトネス的な批判について、特に付け加えることはなく、これらの批判は概ね正当なものではないか、と考えている。しかし今日僕がここで述べたいのはもう少し別のことで、それはこの宮藤官九郎という作家が体現している「テレビ的なもの」、あるいは80年代ー90年代、つまり「平成」

          『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題