見出し画像

いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話(庭の話 #17-2)

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第17回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので3分割しました。これが2回目です。今月の購読すると全部読めます。)

3.「暮らし」からインターネットを変える

 プラットフォームを産んだ今日のインターネット(Web2.0)は、「永遠のβ版」と言われる。旧来の出版や放送に新しい情報メディアが加わる段階(Web1.0)から、サービスの提供側とユーザーの双方向のコミュニケーションを前提とした段階(Web2.0以降)においては、常にサービスはリリース後にユーザーからのフィードバックを受け最適化される。それは、事業者の収益を目的に最適化され、今日のアテンション・エコノミーをもたらしている。しかし同時にこれは私たちが、主体的な運動としてサービスの、この場合はプラットフォームの進化をある方向に促すことができることを意味する。私が提唱してきた「遅いインターネット」という運動もその一つと考えればいい。

 こうした(「作庭」的な)アプローチは一見、プラットフォームの進化と相互補完的な関係を結ぶかのようである。しかし、それだけではない。かつて私たちはそれまで触れたことのなかった承認の交換を日常的に、そして既存の共同体とは切り離された状態で極めて簡易に可能にする場所=SNSのプラットフォームに殺到した。それは私たちが望み、選び取った場所なのだ。だからこそ、私たちはより魅力的な場所を提供することで対抗する他ない。そこで提供されるものは残念ながら、そう簡単には、ほとんどの人々にとっては自己目的化した承認の交換の場所よりも魅力的なものにならないだろう。しかし、忘れてはいけない。人間はどれだけ好きなものでも、「飽きて」しまう生き物なのだ。

 私はかつて関西に暮らしていたころ、多くの定食屋の類のランチで味噌汁代わりに「うどん」が選択できるシステムを採用していることに愕然とし、この土地の住民とはやっぱり分かりあえないのではないかと深く絶望した経験がある。和定食ならまだ分かるのだが、どうしてポークソテーが名物の洋食店で私以外の客が概ね「うどん」を選択していたのかいまだに納得がいかないのだが、このように(おそらくは無自覚に)中毒に陥っていると思われる関西人ですらも、ごくたまには「気分」を変えるために「うどん」ではなく味噌汁やスープを選択していた。
 私たちは、人間間の承認の交換がかつてなく簡易に可能な世界に生きている。もはや、文化産業は表現そのものを愛好する人々の市場よりも、その表現に親しむ私をアピールすることに関心のある人々や、他の人間と同じ表現を支持することで安心を買うことに関心のある人々の形成する、つまりゴミ溜めのような市場に訴求するほうがはるかに「効率的」だ。しかし、人間の貪欲さをここでは信頼できるはずだ。どれほど中毒性の高いものであったとしても、それゆえに人々は「たまには」他の快楽を求めることになる。そして、こうして浮気的にアプローチした別のものに、人間は確率的に夢中になる(この現象がなければそもそも、人類社会の文化は多様化しない)。SNSのプラットフォームは私たちがその快楽原則に基づいて選択した新しい公共の場、だ。だからこそ強固にこの先も君臨し続ける。そして同じ理由で、私たちは別の快楽を提供する場所を作り続けることで、その内破の可能性を探ることができるはずだ。
 たとえば遠からず、私たちの社会は昭和の企業社会的な「飲みニケーション」の陰湿な文化を軽蔑し、捨て去るだろう。自己に優位な環境で若い被雇用者に「忖度」される場所を欲望するオーナーや管理職が、決定的に軽蔑される時代はもう既に訪れている。おそらく、食文化としての飲酒を大切に育てるためにこそ、共同体の維持としての飲酒という習慣とそれについて回る古い慣習は見直されていくはずだ。
 あるいは人類のスピードへの欲望についても同じことが言える。

〈スピードの中で、われらは肉体を超越する。
ガソリンの香煙につつまれてのみ、われらの肉体は天空を駆けりゆくことができるのだ。
骨。血。肉。すべてが一体となって内面化される。〉

 これはおよそ100年前にあるオートバイの愛好家が詠んだ詩だ。19世紀にエンジンの付いた乗り物を手に入れてからしばらく、人類はスピードへの欲望に取り憑かれていた。その結果として多くの人々がその魔物に取り憑かれて命を落とした。そしてこの詩を詠んだ人物もオートバイの事故で亡くなっている。こう言ってはなんだが、やはりこういう世界観に生きていると交通事故とかで死んでしまうのだな……と思わざるを得ない。
 あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
 この文章を書いている私自身、まったく飲酒をしないし、運転免許を取ろうと考えたこともない。それはそもそもその背景をなす欲望をあまり抱かなかったためだ。それはこれらに匹敵する、いや、より強い快楽を与える事物に比較的早い段階で耽溺し別の欲望を抱く身体に「変身」してしまったからに他ならない。

 アルコールやスピードが、相対的に以前ほど欲望されなくなったように、人類はプラットフォームで承認を交換すること自体を欲望のレベルで相対化することができるはずだ。少なくとも、今日のそれを手にしたことによる大はしゃぎからは、離脱できるはずだ。それは歴史が、文化史が証明している。
 そしてインターネットとは、個人の発信の集合でボトムアップに変化し続けるシステムでもある。これまでよりも飛躍的に速く、強くユーザーからのフィードバックが現れるその性質はアテンション・エコノミーの温床になるその一方で、小さく、ローカルに発生した変化の積み重ねを大きく、グローバルに拡大する可能性を秘めている。私たちはインターネットで失ったものを、インターネットで取り戻す必要がある。そのために、私たちはまず暮らしを変えることで、インターネットを変えるべきなのだ。かつて、インターネットが暮らしを変えたように、暮らしを変えることでインターネットを変えるのだ。

4.暮らしと共同体

 たとえば、ついこの間まで続いていたコロナ・ショックのことを考えてみればいい。あの期間に、世界中の人々の多くは「通勤」と「飲みニケーション」から解放された。それは企業の経営者からしてみれば、リモートワークはサボタージュの温床となり組織の掌握力を下げたかもしれない。あるいは、部下を集めて開く「飲み会」で承認欲求を満たすことのできなくなったオーナーや管理職にとって、それはとても「寂しい」ことだったに違いない。しかしこうした組織や団体の、必ずしも中心にいない、立場の弱い人々にとって、あの時期に訪れた「新しい生活様式」は、多くの困難や不便と引き換えにそれまで手にできなかった自由と、解放をもたらすものだったはずだ。

 ここで、初回で紹介した事例を思い出して欲しい。当時情報技術を前提とした「新しい生活様式」を、感染リスクをエッセンシャルワーカーに押し付け、格差を拡大するとして批判していた人々が存在した。これはアメリカでトランプの動員にも用いられた論理だが、少し考えればその矛盾は明らかだ。彼らの主張する通り古い生活様式に戻したとき、単純に考えてより大きくなる感染のリスクにより強く直面するのはやはりエッセンシャルワーカーたちになる。新しい生活様式の導入が結果的に格差を拡大させるとしてもそれに対しては新しい再分配の方式で対応すべきであり、古い生活様式に戻すことはまったく問題を解決しないどころか、社会全体の感染リスクの拡大を考えればより悪化させる。

 この種の事実上無内容な「新しい生活様式」への批判の本質は、三つある。一つはこうした批判が、情報技術が生活を変えることそのものを嫌悪する傾向の強いオールドメディアや人文社会科学の愛好家の、ストレスの発散として選ばれていたという情けない事情であり、二つ目は彼ら彼女らが古い生活様式そのものに愛着を持ち、比喩的に述べれば自らが忖度される「会議」や「飲み会」を欲して止まなかったというさらに情けない事情である。この二つについては、以前取り上げたスマート・シティの「失敗」をもたらした情報技術導入の自己目的化とコインの裏表の関係にあり、軽蔑以上のものを感じるのは難しい。そして三点目はドナルド・トランプのように、この種の言説が政治的、経済的な動員として有効だと判断するプレイヤーの活動の常態化である。

ここから先は

3,330字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。