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『君たちはどう生きるか』と「王様」の問題

先週末の土曜日、つまり公開翌日に宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』を見てきた。今回はその鑑賞直後の雑感をかんたんに(といっても、それなりの分量にはなるだろうが)まとめたい。本作はおそらく宮崎の引退作になる可能性が高く、これまでの作品世界の総括的な内容になっている。したがって、余すところなく批評を試みようとすればそれは「そもそも宮崎駿とは」というところから始めなくてはならず、本一冊分の分量が必要になる。だからこれはあくまで、公開直後の鑑賞の雑感という前提で目を通してもらいたい。

『母性のディストピア』の答え合わせ?

 ここで僕が指摘したいことは大きく分けて2つだ。それは宮崎駿の作家としての自我の肥大が、彼の作品世界をより深く、広くするのではなくむしろ淡白かつ安易にしてしまっているのではないかということ、そして彼の圧倒的な存在感はそのことを誰も指摘できなくしてしまっているのはないかということだ。
  そう、僕は端的に言えばこの作品をそれほど評価していない。この巨匠の引退作を大切に、その表現に込められたものを最大限に好意的に受け止めようというモードに包まれている「世間」を前にとても言いづらいのだが、どちらかと言えばがっかりした、というのが僕の正直な感想だ。そして僕が5年前に書いた『母性のディストピア』の宮崎駿論を修正(アップデート)する必要はほとんど感じなかった。むしろ答えあわせをさせてもらったような気分にすらなってしまった。しかし批評家とは天邪鬼な生き物で、作品の想像力に追い越されて、打ちのめされたとき最高の快感を覚えるマゾヒスティックな性癖を抱えている。だから僕はこの映画が、僕を打ちのめしてくれなかったことに不満を覚えている。

マサー・コンプレックスそのものが問題ではない 

 さて、本題に入ろう。最初に断っておくが宮崎駿が本作で「告白」しているマザー・コンプレックスそのものはそれほど論点になり得ない。宮崎の戦後日本(の男性社会)的な母性信仰とそれにともなうセクシスト的な感性は、僕が『母性のディストピア』で指摘した通りその初期作品から明らかなことだからだ。そして、問題はむしろこの『君たちはどう生きるか』はその以前より明白だった構造に自己解説を与えているだけの、内容の乏しい作品になってしまったことだ。

カオナシにあって、インコたちにないもの

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