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音喜多駿と福島瑞穂と「それはそれ」「これはこれ」の精神、そしてこれからつくりたい「場」について

僕の「友人」に音喜多駿という男がいる。最近は「日本維新の会」の若手として活躍し、左派からは蛇蝎のように嫌われている。僕も彼が維新の会に入ることを個人的に反対して、ぶっちゃけ止めていたのだが失敗した。こういう経緯があるのだけれど、ときおり僕は彼に自分のメディアの討論会などに来てもらって、率直に意見を交換している。立場が違うからこそ、きちんと意見を交換したい……と書くといい子ぶっているようだけれど、「あの党派に所属したからあいつとはもう対話しない」とか言っていると何もはじまらないと思うのだ。

しかし僕は音喜多と議論しているという時点で一部の左派から攻撃されたことが何度かある。中にはそれを理由に僕の本は読まない、読むべきじゃないとまで言われたことがある(その発言は彼の読者の「左派」に大きく支持された)。僕は彼が維新に入り、右傾化するのを一生懸命止めようとしたのに、なんぜこのような攻撃を受けないといけないのかと心底うんざりしたものだった。このひとは一応「リベラル」な立場から発言していたはずなのだけど、彼にとってリベラルとは、民主主義とは一体何なのだろうといまだに疑問に思う。

似たような経験として、10年くらい前に福島瑞穂さんと何度かイベントをしたことがある。このとき僕は前年に石破茂さんと対談本を出したばかりだったので、「変節」だと批判された。別に僕は石破さんとも、福島さんとも意見が同じだから対話しているのではなく、むしろ違うから対話していたのだが、今思うとこのあたりから僕の考える「対話」の前提のようなものは通用しなくなっていったのだと思う。(この記事のサムネイルは当時の写真だ。10年前の自分が若すぎて、見るのが辛い……。)

僕が今考えているのは、意見はまったく違っていて、むしろ毎回物別れに終わるのだけどその物別れぶりによって問題の本質が見えてくるような、そんな「場」(番組とか、イベントとか)をつくることだ。ここで一人でもギャラリーに自分を賢く見せて得をしようとする人がいるとうまくいかなくなる(「朝ナマ」からニコ論壇、アベプラに継承された不毛さの原因のひとつはここにある)ので、司会や議論の形式にはかなり気を使わないといけない。一番厄介なのは出演者がコメント欄に受けようとする姿勢と、出演者に拾ってほしくてコメントする観客の負の相互作用なので、そこもどう抑制するかを考えないといけない。

その上で、いちばん大事なこと。それは「それはそれ」「これはこれ」と、過去のことを「忘れない」「必要に応じて蒸し返す」が、逆に必要な部分では「今は置いておく」姿勢なのだと思う。これがなかなか難しい。僕自身も、さすがにそういう対応ができる相手とできない相手がいる。それ以上に、いま「政治参加」とは特定の党派に参加して敵を罵倒し、リンチの快楽を得てそれを社会正義だと誇ること(だと思っている悲しい人を動員して金と票に変えること)になってしまっているので、僕の提案はいちばん嫌われるやり方かもしれない。しかし、この政治文化をつくる(復活させる?)以外に有意義な対話はないのではと思うのだ。

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