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『アリスとテレスのまぼろし工場』と「近親姦」の問題

週末に『アリスとテレスのまぼろし工場』を観てきた。来月頭に、この作品については座談会の配信を行う予定だ。ちなみに司会はこの作品に「声優」として出演しているニッポン放送の吉田尚記アナウンサーだ。

この座談会配信のシリーズは何年も続けているのだけど、さすがにキャストが出演するというのははじめてだ。なかなか一筋縄ではない座談会になりそうなのだけれど、今回はその前に簡単に雑感をまとめておきたい。

まず結論から述べれば、この作品は脚本だけを考えれば岡田麿里の映画作品でもっとも完成度が高いもので、作家としての円熟を感じさせるものだ(もう少し演出が適切ならば、現代日本を代表する作品なっただろう)。しかしこの作品が重要なのは、岡田という作家が反復してきたある種のーーときに「痛い」と表現されるーー少女性の問題と、その物語に常に添えられてきたある種の「オタク」的な男性性の問題がセットでアップデートされれいること、そしてこの作品が新海誠の『君の名は。』から『すずめの戸締まり』に至る「国民作家」化の中で向き合ってきたようなこの国の「現実」に対しての応答という側面が強いこと、そしてこの二つの問題が関係している(後者の応答として前者の問いがある)ことだろう。

順番に考えていこう。岡田麿里という作家を考える上でまず重要なのは『true tears』のヒロイン(のひとり)乃絵などをルーツとする前述の「痛い」少女性の問題だろう。失恋を通じ、こうした「痛さ」を抱え込んだまま生きることを学ぶという岡田が反復して描く回路が今回も採用されているのだが、この回路は自分よりも弱い(ように、彼らからは見えている)女性に必要とされることで男性的なナルシシズムを維持しようとする前述の村上春樹的な(戦後的な)矮小な父性を抱える男性のオタク層への悪意ある接待としても機能してきた。
つまり、「イタい」少女の失恋が感傷的に描かれ、彼女に求められる男性主人公が設定されることで、岡田は自身の主題を巧妙に男性市場に支持させてきたと言える。(したがって岡田麿里のこうしたほどよく悪意のあるリップ・サービスに乗っかり、その作品を肯定することで、いわゆる「セカイ系」的、村上春樹的な「自分より弱い女子に必要とされる」男性的ナルシシズムを軟着陸させるーーといったタイプのありがちな「批評」をもし見かけたのなら、それは端的にその文章の安直さ軽蔑すればいいと思う。)

こうして男性のオタクたちの多くが痛いところを突きながらも、最後の最後で寸止めしてくれる岡田の「優しさ」に降伏してきたのだが、岡田という作家を考える上で重要なのは、この「悪意ある接待」を単なるマーケティングとしてではなく、グロテスクな美学に消化させているところだ。

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