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なぜテレビ局の弱い立場の人への態度は「ああなって」しまうのか、という話

今日は『セクシー田中さん』の問題について、僕が考えたことを書きたいと思う。と、言っても死亡者を出した事件そのものに言及する気にはまったくなれないので、僕のような少し変わった立場からテレビにかかわってきた人間からの、業界の構造に対する分析と意見を書いてみたいと思う。事件そのものへの分析や意見は書いていないので、そのあたりは誤解しないで欲しい。

さて、まず僕がこの事件の第一報を目にして考えたのは、おそらくテレビ局は「炎上」が長期化しない限り、誤魔化しや責任転嫁に入るだろうな、という残念な予測だった。実際におそらくこうしている今も、テレビ局側の人はかなりの割合で「面倒を起こしてくれた」としか思っていないはずだ。さすがに口にはしないだろうけど、心の中ではそう思っている人が多いと思う。この辺が本当に狂っていると思うのだけれど、僕が知っているテレビという業界は、そういう冷めた感覚を持つことが「大人」だというコンセンサスがある世界だからだ。

たとえば、こんなことがあった。僕が2年ほど出たある番組を(局と揉めて)降板するときに、局側は僕がそれまでのトラブルの経緯を暴露するのを恐れていた。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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