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『違国日記』と「他者」の問題

(お知らせ)
このnoteの有料マガジンのうち、3年分の作品評(30本)がまとまって、本になりました!。題して『2020年代の想像力 文化時評アーカイブス2021-23』。本日8月22日くらいから本屋さんに並ぶと思います。よろしくお願いします。

先日、ニッポン放送の吉田尚記アナウンサーの司会でヤマシタトモコ『違国日記』についての座談会に参加した。今回はそこで議論したことを踏まえながら、もう少しこの作品について考えてみたい。

正直に述べれば僕はこの作品について、最初の1、2巻は何か、ものすごいものが出てきたのではないかと期待を膨らませていたのだけれど、続くごとに停滞を見せ始め、完結した今となっては思ったほど広がりのない作品になってしまったな、と感じている。ただ同時にこの広がりの「なさ」みたいなものに語るべきことがあるようにも思う。だから今回はそこについて書いてみたい。

この作品には大きく二つ問題があると思う。一つは他者性の問題だ。タイトルの「違国日記」とは、これはまるで違う国に暮らしているような他者との関係性をどう、豊かなものにしていくのか、その手探りの過程がこの物語なのだという意味(を含むもの)なのだと思う。しかし、端的に言ってここが機能していない。これは35歳の小説家の女性(槇生)が両親を事故で失った姪(姉の娘)である少女(朝)を「引き取る」ところからはじまる。この槇生は現代的な人権感覚と内省的な思考を好む人物として描かれ、彼女は迷いながらも朝に対し、いわゆる「母」代わりとはまた異なった距離感と進入角度を試行錯誤していく。これは要するに、親密圏(家族や恋人、親しい友人)との1対1の関係(対幻想)にアイデンティティの基盤を置く人間だからこそ、親密圏の他者とどう対峙するのかという主題に全力で向き合うことが必要になる、という構図なのだがここで問題なのはどう考えてもこの「朝」が「槙生」にとっての「他者」ではあり得ないということなのだ。

少し意地悪な書き方になるが、そもそも自分の説教を涙目になって聞いてくれる素直な若い子は、「他者」足り得るのだろうか。

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