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船出

 Mさんが泣きはじめると、いくらオーディオのボリュームを上げてもなにも聴こえなかった。
その凄まじさで、床頭台から小物が落ちてきたことがあったかもしれなかった。

 彼は五十代半ばを迎えるまで、ずっと自宅を出たことがなかったらしい。
そのあかしに、上下、前、奥、口の中には一本の歯も残っていなかった。
 詳しく在宅時代の話を聞いたことはなかったけれど、ずっと暮らしを支えてきたおかあさんが介護できなくなり、施設での暮らしを選ばざるを得なかった。

 Mさんは話せなかったので、「してほしいこと」のすべてを泣くという手段に頼るしかなかった。
「お茶が飲みたい」、「おまんじゅうが食べたい」、「オムツが濡れた」、「おかあさんに面会に来てほしい」、「散髪がしたい」…、ことあるごとに泣きじゃくった。
 いくら彼の事情は理解できても、同じ部屋で生活する人にとってはたまったものではなかった。
 スタッフがやってきて、思いあたる要望を探すのも時間がかかるときもあった。
訊ねられても間違っていると、よけいに泣き声は大きくなった。

 ぼくがMさんと同じ施設で暮らしはじめて二年ぐらいして、彼と部屋がいっしょになってしまった。
 音楽好きのぼくは、ゆっくり過ごす時間は唄がそばにいてほしかった。
 横になると硬直で自然に頭が動いてしまうから、イヤホンやヘッドホンは役に立たない。
同室の人に気を遣いながら、周りのテレビや話し声に合わせて頃合いのボリューム調整をする毎日だった。

 楽しみのひとつを失ったぼくは苛立つことはあっても、こどものころから施設を渡り歩いて、いろいろな障害の人と暮らしてきたので、Mさんの訴え代わりの泣き声にもすこしづつ慣れていた。

 そんなある日の午後、Mさんはおだやかな顔をして国会中継を観ていた。
こだわりのひとつとして、彼のチャンネルはいつもNHKだった。
 あまりにゆったりとした表情に、ぼくはあることを思いついた。

 Mさんはオムツが濡れると、ほかの用事よりも大きな声で訴えた。
 オシッコが出たことがわかるのなら、その前に伝えられたら不快な思いをしなくてもいいのでは…?
 電動車いすを彼のベッドに横づけにした。
 さっそく、訊ねてみると「わかる」のときに大きくうなずいてくれた。
 ぼくは「シメシメ」と思った。
 つづけて、「オシッコ」と言えるかどうか試すことをお願いしたら、ニコッとして応えてくれた。
「オヒッコ」
Mさんの視線から、ちょっと自慢そうな気持ちが伝わってきた。
メチャクチャ、うれしかった。
 これから汗だくになって泣かなくても、ナースコールを鳴らして呼んだら大丈夫なことを話すと、またまた大きくうなずいてくれた。
 ところが、Mさんのおむつ生活は、終幕を迎えるわけではなかった。
 「オシッコ」は順調にシビンでできるようになっても、「ウンコさん」のほうはうまくいかなかった。
 もちろん、出る前に伝えられたし、オマルを差しこむこともしんどくはないみたいだった。

 ただ、生きるための基本的な行為の中でも、トイレ(排せつ)はかなりデリケートな部分ではないだろうか。
 長年、おむつで済ませていたMさんにとって、このハードルをクリアすることは大変だったようだ。
顔を真っ赤にしてきばっても、出ないものはやっぱり出なかった。
車いす型の便器でチャレンジしても、結果はおなじだった。
 結局、ウンコさんのときだけおむつをするというかたちで落ち着くことになった。

 それから、つぎつぎとMさんの生活に欠かせない単語が言葉に換わっていった。
 お茶が飲みたいときは「おブ(古い京言葉)」、おまんじゅうが食べたいときは「おまん」、おかあさんに面会に来てほしいときは「おかあ」、散髪がしてほしいときは「バーバー」…。
発音しにくい言葉もすこしひねれば、簡単に話せるワードになった。

 ストレスが薄れて、笑顔で過ごす表情を見ていると、ぼくもうれしくなって、よけいなおせっかいをしたくなった。
 Mさんには、お気に入りのスタッフが何人かいた。
 ある日、ぼくはMさんをけしかけてみた。
「なぁ、好きな職員さんいるやろ?」
満面の笑顔だった。
枕から頭を持ちあげて返ってきた「アイ!(はい)」は、明るさだけではなく何かしら意味ありげに聞こえた。

 いちばん好きな人はダレか?話を聞いてもらえるのはダレか?などなど、ぼくが挙げる名前にうなずいたり、首を横に振ったりしながら、つぎつぎにナンバーワンが当てられていくと、Mさんの「アイ!」にも力がこめられていった。急に思い出し笑いがとまらなくなることもあった。
 いろんなジャンルでいちばんが決まると、それに合わせて言いやすいフレーズをいっしょに考えた。
Mさんと同年代の誠実なYさんには「ヤマ、スキ」、おかあさんへの面会の連絡をお願いしていたMさんには感謝の気持ちで「まー、ありがとう」など、タイミングのいい一言で、周りの人たちと楽しいひとときを過ごせるようになった。

 大阪へ出てからも、Mさんに何度か会いに行った。
ぼくが施設を離れてから病気をして、大好きな「おまん」は食べられなくなったようだった。
 十年近く経って、最後に顔を見に行くことになってしまった日も、声をかけるとこちらを向いて「インネーくん」とぼくの名前を呼んでから、口をへの字にして、泣きそうな表情に変わった。ぼくも、たまらなくなった。

 彼がまだ生きていたころ、津久井やまゆり園の痛ましい事件は起こってしまった。
 大阪でひとり暮らしをはじめるまで、ぼくは施設や養護学校でたくさんの言葉では気持ちが伝えられない人と生活してきた。
 こどものころの施設では、同年代のほとんどのひとりひとりがしゃべれなかったし、ずっと寝たきりのままだった。
 養護学校の寄宿舎では、思いが伝わらないと大きな声を出して走りまわったり、周りの友だちをたたいてしまう場面にもぶつかった。

 最初はこわかった。
 でも、長くいっしょに過ごしているうちに、理由があることにみんなが気づきはじめた。
 それはお腹が減っていたり、雨が苦手だったり、一人ひとり原因は違っていた。
 ぼくもなんどかドツカレタけど、本当に支えられた夜もあった。
 進路に悩んでいて、誰もいない学習室でうつむいていると、知らないうちにYくんがそばに腰をおろしていた。顔をのぞきこんで、心配そうにしていた。ぼくの肩をポンポンとたたいてくれた。
 うれしかった。

 やまゆり園の事件の加害者は、生命の基準を名前を呼んで応えられるかどうかに集約させて、犯行に及んでしまった。
 もし、あの現場にMさんやYくんがいたとしたら…。
 ぼくは広い視点で考えることが苦手だけれど、いまもふくめてつながりをもったひとりひとりを重ね合わせると、とても重たい気持ちになっていく。
 
 この事件に関してはさまざまな感情が混沌として、向き合おうとすればするほど、ぼく自身の日常生活とオーバーラップする。
 加害者を特別視していいのだろうか。
 
 ぼくのまわりの人たちの中では、障害者権利条約に謳われている医療モデル(障害を克服する)から社会モデル(障害を個性として、社会が受け容れる)への展開が語られて久しい。
 けれど、障害者が生活や仕事のために活用する福祉制度の支給量やそれにともなう補助金の目安になる支援区分のチェック項目にしても、基本的には「何ができるか」に重きが置かれている。
 「こうありたい」毎日を描こうとしても、制度の壁が立ちはだかってしまう。
 本人や家族が高齢になれば、理想よりも現実を受け入れなければ生きてはいけない。
 こうした社会的な背景を抜きにして、加害者ばかりをクローズアップさせていいのだろうか。
 仕事ととして障害者に関わる一人ひとりが、現実に直面する中で障害者に対して負のイメージをもってしまったり、一人ひとりの毎日をコントロールすることに懸命になったとしても、個人ばかりを責めることができるだろうか。
 
 ぼくが生活していた施設では、深夜帯には二人のスタッフで五十人あまりの介護にあたっていた。
 トイレがしたくても、二十分~三十分待つことは日常だった。
 スタッフの意識が高く、入居者にとって遠慮のない関係がつくられていたから、よけいにナースコールは鳴りやむことがなかった。
 いまも介護を目的とした入所施設では、あのころと変わらない毎日がつづいているようだ。
 こうした枠組みの中で、ひとりひとりが暮らし、ひとりひとりが働いている。
 
 自分の身のまわりでも、生命に関わらなくても障害を社会の役に立たないものとして捉えている人はいないだろうか。
 自己満足をするための手段として、善意や支援を押しつけている場面に出逢っていないだろうか。
 何よりも、ぼく自身の中に思いあたることがいっぱいあって、言葉にならない。

 Sくんは、誰に対しても対等でありたいと思っている。
彼はうちの作業所でスタッフとして働いていて、障害のあるぼくよりもどんな人にも「違い」を感じさせないおつき合いをしている。
 もちろん、一人ひとりは生い立ちもいまの生活環境も、人間性もさまざまだから、関係性はそれぞれに違う。
 
 けれど、障害の有無にかかわる違いを彼から感じたことがない。
本人に訊ねてみると、「ぼくだって上から目線になっちゃうことありますよ」と返ってくる。

 うちの作業所にも、健康面で気がかりになる人がいる。
 とくに、嗜好品の問題は難しい。
 支援について疑問を持つ彼にとって、いまの制度の障害者(利用者)と健常者(指導者or支援者)の区別についても、いろいろと考えるところがあるようだ。

 そんな彼が健康面と嗜好品の関係に直面したとき、どんなふうに考えているのか聴いてみたことがある。支援する側に立っているのではないか?と。
 すると、彼らしい答えが返ってきた。
「ぼく、支援するつもりで気持ちを伝えているわけじゃないんです。ただ、同じ作業所で働くツレが体調が悪いと、心配するのは当たり前じゃないですか。それに、ぼくは想いは伝えるけど、決めるのは最後は本人ですから」
 すごくデリケートな問題だし、障害の内容などによってケースバイケースの部分は大きいと思う。

 障害を持ちながら生きることで、どんなひとりひとりも家族を含めた第三者の力を借りなければ暮らしていけない場面は日常茶飯事と言っていいだろう。
 それだけ他者と接する場面が多くなるので、必然的に相手の意識を察する力が高められる。
すべての障害者に当てはまるとは言えなくても、言葉の裏にある想いには敏感になってしまうだろう。

 話は戻るけれど、ぼくが出逢ってきた知的障害の友人たちも、それぞれに相手に合わせた絶妙な距離感をとりながらおつき合いをしている。

 いつも書くことだけど、ぼくだって仕事となるとスイッチが入る。
だから、健常者にいろいろなことを求めるのは、とてもハードルの高いことだと思う。
 それでも、上から目線になってしまったとき、言葉にしなくても心の中で省みるゆとりを持ってほしいと思う。

 実は、ぼくもなかなか仕事が覚えられなかったり、自分のモノサシで簡単だと思ってしまうことを間違ってしまったりするヘルパーさんをバカにしたりしている瞬間がある。
 どのヘルパーさんに対しても、上から目線になってしまうわけではない。
とても真面目で、支援することに律義に向きあおうとしている人に、感情が波立ってしまう。
 淡々と目の前のお願いの数々に取り組むヘルパーさんや、ときには息子であったり、ときには友だちであったり、もちろん、介護する人といった多面的な関係性が築けていれば、ゆっくり眺めていられることもできるし、笑って通りすぎる場面がほとんどだと思う。

 障害の有無にかかわらず、ひとりの心にはひたむきさや自己満足を抜きにした思いやりがあるだろう。
 同じように、怠惰になろうとする意識が湧いたり、優越感にひたろうとする感情を抑えられないときもある。
 多面的なひとりひとりが、多面的なひとりひとりとおつきあいをする。
 人として生まれた醍醐味ではないだろうか。

 ぼくは、「障害」という一面にフォーカスして向きあおうとする人に対して、上から目線になってしまう。
裏返せば、ぼくも相手を一面的にしか捉えようとしていない。
しかも、仕事に誠実なあまりに、肩に力が入っている場合もある。

 あの夜、ひとりで悩んでいるぼくの肩をポンポンとたたいてくれたYくん。
 なぜ、ぼくは彼の仕草と表情をやさしさとして受けとったのだろうか。
 ほんとうに、彼はぼくを気遣ってくれていたのだろうか。

 けれど、真実であっても、思い違いであっても、どうでもいいことなのかもしれない。
いっしょに過ごすうちに、ときどきの気持ちの動きが伝わって、さまざまなYくんの内面と出逢うことができて、シャイな部分もズルい部分もひっくるめて、自分自身とオーバーラップさせられた経験が「支えられた」につながったのだろう。
 そして、障害の内容は違っても、ぼくたちに対する世の中の視線が想いを強くさせたのかもしれない。

 コロナ禍は長引くだろう。
 さりげなく障害を受け容れる人たちは、確かに増えている。
まちを歩いていてもそう思う。
 一方で、財政の逼迫は少子高齢化が叫ばれてきたこれまで以上に、厳しさを増していくだろう。
「だれも取り残さない社会」と安易に口にするけれど、いまの価値観の「働く」ことに関わりにくい障害者にとって、どんなコンセンサスが得られるのだろうか。
 世の中を語る以前に、障害の有無に対するひとりひとりのつながりの中でのコンセンサスは、お互いにとっての利益にむかって得られていくのだろうか。

 ある日の午後、なにかの拍子にうちの作業所の若いスタッフ(健常者)が、窓ガラスに丸くて低い鼻を押しつけて、変顔をつくっていた。
 しばらくして、Aさん(障害者)が同じ窓ガラスで変顔をまねていた。
みんなの視線をかいくぐっての大阪人らしいイタズラごころだった。
 いつもAさんは、ひとりで取り組む仕事が難しくて、ゆっくりと過ごす時間が長かった。
 大爆笑のあと、働くことについて考えこんでしまった。
うまく仕事に携われなくても、彼女の喜怒哀楽の波長はまわりのひとりひとりへ伝わっていく。
 気持ちをほっこりさせたり、ときには思いやりに気づかせたり、一時的にはマイナスに思える感情もふくめて、まるごとの存在が個人や作業所のエネルギーにつながっているのではないだろうか。

 なぜか、いまはオーディオが控えめなボリュームになっていた。
耳を澄ませてみると、友部さんの「水門」の一節が聞こえてきた。

 いやなものも すてきなものも 
 なにもかもすべてこの船にのせて
 日暮れにむかって船出しよう

 この文章に込めたい想いをすべて語っているみたいだ。

 ぼくは、夕焼けがはじまったばかりの東の空の薄桃色が大好きだ。

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