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いつもと同じように

 ちょうど大阪でひとり暮らしをはじめて、一週間目の夜だった。
その日、わが家の泊まりは、当時おつき合いしていた女性だった。

 ぼくが住んでいた文化住宅のお隣りは、二世帯住宅で、年配のご夫婦の息子さんは障害を持っておられた。
 そうしたご縁もあって、越してきた早々からご厚意にあまえさせていただいていた。
 ボランティアさんよりも先に帰宅したときは、部屋の中へあがる手伝いをお願いする日もあったし、ついでに冷蔵庫の麦茶を飲ませていただいたこともあった。

 あの日、手伝っていただいたお礼を伝えた瞬間、電話のベルが鳴りはじめた。
 受話器の向こうが彼女だとわかったので、ハンズフリーの切り替えをお願いして、お隣りさんには帰っていただいた。

 もう電話の内容は憶えていない。ただ、彼女は泊まりに来れなくなってしまった。

 ぼくの部屋の上と隣りには、それぞれ家族連れが暮らしていた。
プー、プー、プー、と電話が切れたあとの音が鳴りはじめると、必死の思いで助けを呼んだ。

 しばらくして、お二階さんが来られて、友人に連絡をとることができた。

 スクランブル発信してもらったのは、施設で生涯過ごすことに最初の疑問を投げかけた正和さんだった。

 親友を介して正和さんと出逢っていなければ、おそらくぼくは不自由を感じないまま、静かに田舎の施設で暮らしていただろう。
毎日、本を読み、友人と話す。
より深く自分自身をみつめる時間を持てた。
 黙々と日課をこなすことで、さまざまなリスクから守られ、それなりの充実感を得られていたのかもしれない。

 けれど、まちの暮らしでそれまでと比べて、圧倒的に多くの人たちと出逢うことができた。

 大阪へ出てきて、いちばん最初に常連になった八百屋のご夫婦は元気にしておられるだろうか。
 買い物へ行くたびに、タイガースと道上さんのラジオの話で大笑いした。
あのころ、タイガースはいつも最下位争いを演じていた。
ぼやく大将と頃合いにあきれ顔の奥さんとのコントラストが愉快だった。

 毎朝、作業所へ通う道で缶コーヒーを飲ませてもらっていたコンビニのTちゃんは、どんなおかあさんになっているのだろうか。
 最初はいきなりレジでお願いされて、どうしていいかわからなかったと言っていた。

 桃谷のコリアタウンの韓国食堂のHさんは、高知へ嫁いで幸せに過ごしているだろうか。週末になると難波から電動車いすを走らせて、夕食の介助をお願いに行った。
 よく家族の話をしてくれて、韓国ではしっかり者の母親と頼りない父親の組み合わせが普通で、わが家もそうなんです、と笑っていた。
 聡明な表情が印象的だった。

 ぼくが生活する町は、こども園~中学校まで市立であれば、障害のない子とある子がいっしょに通う割合が高い。四十年以上前かららしい。
 そのせいか、制服の子どもたちにエレベーターのボタンを押したり、ケータイの操作をお願いしたりすると、親切心のあふれる表情ではなく、仕方なく手伝ってくれることが多かった。

 いつも「障害」のある友だちがそばにいることは、理屈ではない部分で、一人ひとりの内面に影響をあたえているのだろう。

 ラーメン屋で麺をすすっていると、カウンターの向こうからバイトの女の子がぼくの名前を呼んだ。
「小学生のとき、お話を聴きました」
よく憶えてもらっているなぁと、感心してしまった。

 地域の夏祭りで、整骨院を営む青年がぼくの話を憶えていて、名前どころか、その日に流した唄を口ずさんでくれた。
 冗談ではなく、悪いことはできないと思った。

 正和さんの問いかけがあって、その後にいろいろあって、ぼくは施設での暮らしにピリオドを打つことになった。

 自分自身を深く掘り下げる生きかたは、手放してしまったのかもしれない。
 そのかわりに、まちでの生活はたくさんの一人ひとりにリアルなぼくと関わってもらえただろう。
 ぼく自身がこれまで生きてきた中で、「障害」にまつわるプラスマイナスがうまく伝えられているのだろうか。
 ちょっと心配になる。一人ひとりは何かが似ていても、どこかが違う。

 あの夜に、話はもどる。
 
 正和さんがドアをノックしたのは、十一時過ぎだっただろうか。
 スクランブル発進の電話をかけたのが七時前後だったので、四時間あまりぼくはひとりだった。
 けれど、トイレももよおさなかったし、それほど空腹にもならなかった。
 施設を出て一週間とはいえ、ぼくの中ではシュミレーションの範囲だった。
 
 彼は小学校の教師をしていて、仕事を終わらせてからかけつけてくれたのだった。
 ぼくがひとりで過ごしていたことは、電話で説明していた。
 
 部屋に入ってきた正和さんは、軽く片手をあげて「おー」とあいさつした。
 仕草と同じように、さりげなかった。
 それから、「お酒呑む?」とつづけた。

 ぼくは自分が正和さんだったらと思いながら、とてもありがたかったし、理屈抜きでうれしかった。
 きっと、正和さんは部屋に入るなり、ぼくの気持ちを読み取っていたのだろう。

 もし、ぼくと正和さんの立場が逆だったら、どんな展開になっていたのだろう。
 
 ドアを開けるなり、相手と眼を合わせもせずに、まくしたてるかもしれない。
「トイレは大丈夫か?ノドは渇いていないか?お腹は減っていないか?ベッドへ横になりたくはないか?…」
 翌朝早く、わが家の玄関を出るまで、正和さんのさりげなさは変わらなかった。

 六年前、ぼくは入院中のストレスから十二指腸潰瘍になり、夜中に大量下血をしてしまった。上の血圧が五十まで下がり、あたりが黄ばんできたかと思うと、かすみはじめた。
 
 逝ってしまうのかと、朦朧とする意識の合間でとぎれとぎれの覚悟をしていた。
 
 つき添ってくれていたヘルパーさんに、「もしもの時」のために呼んでほしい人の名前をあげた。
 
 深夜、CTで患部の状態を確認の後、病室へ戻ると作業所のスタッフと正和さんが待っていた。
 すこし意識がはっきりしはじめていたぼくと眼が合うと、正和さんはいつものように軽く片手をあげて、「おー」と声をかけてくれた。

 あの場面を思い出すと、声がつまってしまう。

 入院中、長文メールのやりとりをした。
 
 権力について、おたがいに書いていたような気がする。
 書き進めようとして、「民主主義って、多数決だよなぁ…」と、ふと思った。
 
 「ひとり」の思考や好みを細分化していくと、障害とか、宗教とか、人種とか、性別とか…、さまざまなカテゴリーをこえて、すべての個人が少数派に属するだろう。
 ひとつのテーマで多数派であっても、かならずどこかの部分では少数派になることは、当然ではないのだろうか。
 一人ひとりがそれに気づけば、生きやすい世の中になるのではないだろうか。

 ぼくは、他人の眼を気にしながら生きてきた。高い評価を受けたかったり、自己満足に浸りたかったり、そこから抜け出せないまま人生の終盤にさしかかろうとしている。

 正和さんも「似たようなものだ」と、自分を評していた。
 先の一行を読みながら、「さりげなさ」について立ちどまる。

 ぼくには届かない。ずっと前から知っている。
 この煮え切らなさも、めぐりめぐって、誰かの、何かに、役立っているのかもしれない。

 いまでも、正和さんはぼくと顔を会わせると、軽く片手をあげて「おー」とあいさつしてくれる。

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