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苦手と嫌い

 その夜、ぼくは慣れない道を電動車いすで歩いていた。
 歩道は広かったけれど、横傾斜の具合や車道との切れ目の段差の様子がつかめていなかった。
 幹線道路でも深夜に近い時刻だったから、走る車はまばらだった。
街灯も間隔が広くて年数が経っているみたいで、足もとは暗がりでしかなかった。

 あのころ、拘束感がイヤでまわりの人たちからは携帯を持つことをすすめられても、ぼくは「ガンとして」受け容れるつもりがなかった。

 転倒したらエライことになる。
 この辺りからだと一時間以上はかかる自宅で、バイトの男の子とは待ち合わせることになっていた。
 こんな背景があって、車道のいちばん歩道よりをぼくは慎重に歩いていた。

 すぐわきの歩道を自転車が追い越していった。
 かと思うと、Uターンしてぼくのそばで止まった。
「おにいちゃん、車道を走ってて危なくないん?」
セーラー服の女子高生らしかった。日焼けしたショートカットだった。
「心配してくれて、ありがとう。それがなぁ、歩道って傾斜してたり、段差があったりするやろ、せやから、これぐらいの車の量やと車道の方が安全やねん」
 自転車に乗ったままで聴いていた彼女は、帰り道の方向へハンドルを切りながら、
「うん、わかった!」、
と言ったかと思うと、なにごともなかったのように遠ざかって行った。

 彼女の「うん、わかった!」には何かを「してあげたい」感はどこにもなかった。
 ただ、視野に入った電動車いすのにいちゃん(まだ髪型を工夫すれば、薄毛をごまかせていた)が気になって、声をかけてくれたようだった。
 まわりには誰もいなかった。
きっと、彼女の意識には他人の評価を得たいとか、かわいそうな人を助けたいといった上から目線はなかったのではないだろうか。

 「上から目線」をすべて否定するつもりはない。
そこからかかわりがはじまるかもしれないし、優越感に疎遠な人はめずらしい。

 ただ、優越感に浸られている側の重苦しさに思いがひろがれば…、と書き進めようとして着地点を見失ってしまった。
 たとえば、障害者との出逢いにしても、どこからどこまでを「障害」として捉えるか、かなり個人の価値観によってかわってくるし、脳性マヒとか、自閉症とか、ダウン症とか、アスペルガーとか…、カテゴリーを分けようとするほど、現場でリアルな一人ひとりに接すれば、一括りにしようとする矛盾に、おたがいが別々のしんどさと向きあわなければならなくなるだろう。
 結局、どこまでも一人ひとりをおつき合いの基本にして、「しどろもどろ」を味わいながら、空間を融合させていくしかないのだろうか。
 ひとりが落ちつく障害者にとっても、いつでも受けとめる「まち」であり、個人は不可欠だろう。
 カテゴリー分けをしなくてもいいほど、ただの一人ひとりとして気兼ねなく出歩ける世の中が、この国には訪れるのだろうか。

 それにしても、個人の暮らしから社会のすみずみにまで、一定の基準は必要だろう。
 ヘルパーさんの利用時間にしても、介護を受ける一人ひとりが必要な量だけ支給されるようになると、財政的に対応できるのだろうか。
 こまかい話をすると、一人ひとりの一日のスケジュールに合わせて綿密に利用時間を設定することなどできるのだろうか。
 トイレがスムーズにできたり、戸惑ったり、すぐにシモへ例えは流れるけれど、柔軟に運用できるシステムでなければ対応は困難だろう。
 もともと書こうとしていた事務的な煩雑さも、半端ではなくなるに違いない。
 さらに、制度を使う本人と携わる一人ひとりの構想力と、毎日の暮らしをやりくりする生活力も問われるかもしれない。

 「障害」にかぎらず、一人ひとりが納得した毎日を送ることは永遠のテーマなのかもしれない。

 さて、冒頭に登場した女子高生のようなヘルパーさんばかりに囲まれているかというと、実はそうでもない。
 ヘルパーさんにだって、それぞれに生きてきた背景があって、出逢ってきた人の運も大きいように思う。
 ということで、相性の良し悪しは必然的に起こってしまう。
 
 ぼくの場合、ヘルパーさんを自分の手足だと割りきる一貫性とクールさを持ちあわせていないし、トイレと食事と電動車いすの乗り降りを確実にこなしてもらえれば、あとは相手の得意分野をうまく利用して、より自己満足に近づく工夫を重ねている。

 「しんどいな」と思ってしまうヘルパーさんには、大きく分けて「苦手」なタイプと「キライ」なタイプがある。
 苦手な人たちの多くは、イヤなところがあっても、許せない場面に出逢ったことがあったとしても、それは部分的であって、価値観に響いていたり、感覚として話せば通じると感じていたり、上から目線になってしまう自分自身に苛立ったり、共通するのは相手に対する歯がゆさとうまく伝えられないぼくへの焦りの代償だろう。

 一方、嫌いな人には、それほどややこしい気持ちにはならないことに気づいた。
 いろんな感情をあきらめて、適当に時間を過ごせばいい。
 長時間の介護といっても、暮れない昼はないし、明けない夜もない。
 苦手な人が来るよりも、嫌いな人の方がイヤだと思いこんでいた。
 精神的な負担は、また別だということになる。
 我ながら、興味深いことに気づいてしまった。
 ただ、苦手な人とはどこかで共感しているわけで、来ないでほしいわけではない。
 
 「しんどさ」もひっくるめて、つき合っていきたいと思う。
 
 いつものお約束で、わが家のオーディオのシンクロニシティがはじまった「ファイト」が脳ミソに割りこんできた。
 こんなぼくに、まだ闘えというのだろうか。

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