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若草のにおいがした

 美和ちゃんがベッドのそばへ来ると、いつも若草のようなにおいがした。
 牛のような穏やかな眼をしていた。
 ぼくの手が胸やおなかに触れてしまうこともあった。
わざとではないことを知っていて、よけいに「もぉー」といたずらっぽく笑顔を返してくれた。
触れてしまうたびに「しまった」とあわてながら、その感覚をどう言葉にすればよいか、考えてみたりもした。
 たどり着いた表現は「プニュプニュ」だった。

 そこに働くスタッフにとって、障害者の介護施設の毎日は良心的であろうとするほどに、想像を絶する忙しさだった。
 障害者五十名に対して、スタッフは二十名あまり。一見、手厚い体制にみえるけれど、実際は違った。
 ぼくが生活していた三十年ほど前、週休二日が基本になりはじめていた。スタッフは早番や日勤や準夜や深夜にシフトされ、そこに休日が組みこまれた。
だいたい、平日の昼間だと五十名を五人前後で介護することになっていた。

 さらに、深夜帯になると、二人のスタッフで介護に当たらなければならなかった。
 いつもナースコールは鳴りっぱなしで、トイレに行きたくなっても三十分近く待つことはザラだった。
 
 施設に生活する入居者は(あの時代は行政に執行権があったので、罪を犯してしまった人が刑務所へ入るのと同じように、法律的には施設で生活する障害者も「入所者」と呼ばれていた)、誰かが亡くならないと転居することがなく、どんどんと高齢化が進んでいた。

 二十名あまりのスタッフをまとめる現場の介護の責任者は、竹を割ったような性格のYさんだった。介護技術を高めることには貪欲だったし、すこしでも入居者に対して雑に接すると容赦はなかった。

 一方で、入居者の生活の質を高める担当のMさんは、とても情け深い人だった。
 一人ひとりの相談に乗り、願いの実現にむけて奔走する人だった。
 入居者の自治会が活発だったこともあり、虐待が横行するような雰囲気はまったくなく、人手の足りない日でもいつもと同じように、朝から夜中までナースコールは鳴りっぱなしだった。
 待たされることはわかっていても、駆けつけてくるスタッフは明るかったし、必ずと言っていいほど「遠慮せんと、ナースコールしてや。遅れたらごめんやで」とつけくわえてくれた。

 その夜、悪寒が走ったかと思うと、高熱が全身を襲った。
 ナースコールを鳴らすと、夜勤の美和ちゃんが走ってきた。
 眼をあわせるなり、気持ちより口が先に動いてしまった。
 「すごく寒いねん、そばに来て、体を温めてくれへんか」
 美和ちゃんはぼくの額に手を当てて、すこし心配そうな顔をして、それから、いつもの笑顔に戻り、体温をはかり、熱さましの頓服を飲ませてくれた。

 本当にやさしいかあさん牛のようだった。

 元気になってから、ぼくは美和ちゃんに顔をあわせられなかった。
 もちろん、立場が違うことは当然だし、美和ちゃんには中学生のころからおつき合いしていて、結婚間近な「つまみ枝豆」そっくりの彼氏がいた。
よく彼氏の自慢話も聴かされていた。

 美和ちゃんに施設の仕事は、どんなふうに感じられていたのだろうか。
ゆっくり、一人ひとりと向きあいたかったのではないだろうか。
でも、時間に追われながら、精いっぱいに一人ひとりとおつき合いしていたのだろう。
 どんなに急いでいても、誰かと話す美和ちゃんの口調は、ゆったりとしていた。

 ぼくが施設を出るすこし前に、体調をくずして退職された。
 生命にかかわる病気を克服して、嫁がれたようだ。
 元気にしているだろうか。どんなおかあさんになったのだろうか。

 いっしょに過ごした時期も短かったし、介護される人と、介護する人、暮らす人と、働く人、立場も違っていた。
 でも、ぼくには忘れられない一人に違いない。

 美和ちゃんが立ちどまってくれた伊藤たかおさんの「あしたはきっと」や、友部正人さんの「地球のいちばんはげた場所」を聴くと、いつも思い出す。
(「地球のいちばんはげた場所」を言葉にしたら、わが家の四百曲近く入     
 っているハードディスクから、この曲が流れはじめた。シンクロニシティ
 だろうか)

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