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ピカソはシャガールとも知り合ったが、よそよそしい態度を崩さなかったのは、シャガールがドローネー、メッツァンジェと連携する立場をとったからだろう

画家ピカソは、同じものをいろいろな方向から見た姿を一つの絵にまとめるという技法を使って、名画をたくさん描いてます。

ジョルジュ・ブラック↑

ピカソとキュビスムの画家たちは、相補性を画像で捉える視覚芸術を創作した。一枚の同じ絵のなかで、ある一つの場面に対するさまざまな異なる視点をとることにより、彼らは解放されて、自分たちが重要だと感じるさまざまな側面を、大いに自由に表現することができるようになった。

ファン・グリス↑

視点と相補性(中略)同時に2つのことを、つまり位置と動きを見ることはできない、知ることはできないから、視点を変えて2つのことをそれぞれ見るのです。そして2つのことは互いに相補い、全体を描写します。これを相補性と言います。同時に測定はできない量または現象が、互いに補っている様子を表現する言葉が相補性です。

キュビスム展—美の革命 | 京都市京セラ美術館↑

人間は、二つ以上のまったく異質なアイデアを融合させることで、それまでにない新しいものを生み出せる。たとえばピカソは、従来の西洋芸術の伝統を引き継いではいるが、アフリカの芸術、独特のマスクなどにも関心を寄せていた。二つの芸術の結びつきによって生まれたのが『アビニョンの娘たち』という作品である。ピカソの創造性が一気にほとばしり出たような傑作だ。

「アビニョンの娘たち」は、現代美術史上屈指の名作となった↓

シャガールを最初にピカソに紹介したのは詩人のアポリネールだったようだ(中略)キュビスム時代のピカソ側からすれば、シャガールは「詩人」なのである。これは揶揄の言葉で、絵の内容に「文学的なもの」を見てしまってこれを嫌っているのである

アポリネールの自宅↑

画家と詩人は、同じグループに属していることが少なくない(中略)一九〇七年、アポリネールはジョルジュ・ブラックをピカソに紹介する。

アポリネール↑

「彫刻的だ、というのは画家が述べる最高の賛辞である」というピカソ(中略)ピカソは常に詩を求め、詩人たちを引きつけていた。ピカソと初めて会った時にアポリネールが驚かされたのは、この若いスペイン人の「言葉の障害を飛び越え」、朗読された詩の肝心な部分を理解する能力である。

マリー・ローランサンによるアポリネール(中央)↑

パブロ(※ピカソ)はあるとき、ブラックの結婚相手を見つけようと決心した。ピカソがまず思い当たったのは、マックス・ジャコブの従兄弟でモンマルトルの居酒屋 「ル・ネアン」の主人の娘だった。友人の恐るべき企てに逆らえず、ブラックはされるがままになった。二人の「お見合い」が決まり、ピカソとマックスは古着屋で礼服を借り、ブラックをその居酒屋に連れていった。店の主人と紅くなった娘はすぐに彼らの礼儀正しさに好感を持った(中略)酒量が過ぎたのも手伝って、見合いは思わぬ展開になってしまった(中略)もちろんこの結婚は成立しなかったが、ピカソはそれにも懲りず、熱心にまたブラックに結婚相手を紹介した(中略)二人(※ブラックと女性)は一九一一年に付き合い始め、数ヶ月後にゲルマ袋小路で同居することになった。結婚したのは何年も後のことである。パブロは、アリス・プランセとドランとの恋愛にも無関係ではなかった(中略)無邪気なのは見かけだけのマリー・ローランサンをアポリネールに紹介したのもパブロだった(中略)ブラックの幾何学的機構を具体的かつ簡潔に、「立方体 (キューブ) 」と最初に言ったのは誰だろうか。ウーデによると、それはマックス・ジャコブである(中略)ピカソとブラックは、カーンヴァイラーの画廊でしか作品を発表しなかった(中略)つい忘れられがちなことであるが、ヴィニョン通りのこの画商が労を惜しむことなく、驚くべき情報収集、市場調査を行い、そして顧客を開拓したことによって、ピカソたちはそうした態度をとることができたのである。今日この画商が「すべて自然の成りゆきでした」と言い、そしてピカソの成功が「喜びと情熱における」彼自身の才能にのみ起因すると言ったとしても、それは完全には正しくない(中略)人と初めて接触するとき、そう簡単には気を許さないピカソが、当時まだ若いながらも抜け目のなかったカーンヴァイラーに早くから全面的な信頼を寄せたのである。彼は稀に見る誠実な友であり、大胆な目利きであり、思慮に富んだ商売人であった。ピカソが言ったという「カーンヴァイラーに商売のセンスがなかったら、僕たち今頃どうなっていただろうね」という言葉は、まさに的を射ている。※引用者加筆.

カーンヴァイラー↑

ピカソはシャガールとも知り合ったが、よそよそしい態度を崩さなかったのは、シャガールがドローネー、メッツァンジェと連携する立場をとったからだろう(中略)ピカソはいつでも他の画家の考えていることを徹底的に調べ、必要とあらば他人のやり方も試してみようという意欲満々だった(中略)他のキュビスト  ジャン・メッツァンジェ、アンリ・ル・フォーコニエ、マリー・ローランサン、フェルナン・レジェ、アルベール・グレーズ、ロベール・ドローネー(中略)(※ファン・)グリスはキュビスムの開拓者として、ピカソやブラック (グリスはブラックの「フランス的な」絵描きらしさを妬み半分に尊重した)と肩を並べるまでにはいたらなかったにせよ、努力を重ねて第三の男になりおおせた (※グリスは洗濯船で暮らしていた)。※引用者加筆.

ドローネー↑

「洗濯船」には驚くほどさまざまな人々が住んでいた。画家、彫刻家、詩人、洗濯女、八百屋・・・・・・。文無しであることだけが彼らの共通点だった。助け合い、議論し、噂話をし、ある時には情熱的なドラマがくりひろげられた。

ゴーギャンも暮らした洗濯船↑

ピカソと出会ったころ、ジャコブはフルール河岸の屋根裏部屋(床はスケートリンクのようにつやつやしていた)で極貧生活を送っていた(中略)ピカソは素晴らしいシルクハットを被っていて、のちにこれをわたし(※ジャコブ)にくれた。ピカソはいつも好んで安価な服を身につけ、それを力仕事に従事する労働者向けの商店で買うのを常としたが、シルクハットはお洒落の最後の仕上げにあたる(中略)(※ジャコブとサルモンは〔洗濯船〕)という渾名の名づけ親とされる。ジャコブは初めてこの建物を訪れたとき、窓の外に並ぶ果てしない洗濯物の列を見て、この名を思いついた。サルモンのほうは、がらんとした屋形船の趣から連想したという(中略)ガスも電気もなかった。事故も珍しくなく、とくに冬は頻繁に起こった。アトリエのなかはしんしんと冷えて、グラスに入れた水も凍るほど。天窓に積もった雪を払おうとして屋根に上り、誤って排気口に落ちて死亡したドイツ人画家がいた。その穴には何人もの酔っぱらいが落ちて死んだとピカソは言う。※引用者加筆.

詩人(※ジャコブ)はピカソと初めて出会ったときのことを、かなり詳しく書き残しているけれども、絵描き(※ピカソ)と恋に落ちたことだけは黙して語らない↓
シャガール↑

一九五〇年までにはピカソとマティスの関係性は、ある傍観者によると、「いうなれば、王様同士の関係だった」(中略)一九五〇年春、シャガールたちは引っ越した(中略)シャガールは自分より有名なふたりの隣人ピカソとマティスの芸術のみならずライフスタイルを痛いほど意識するようになる(中略)(※シャガールは)ピカソとマティスの中間点に住みながら、不安と嫉妬にさいなまされた。その間、(※シャガールの娘)イダは懸命にふたりの老画家(※ピカソとマティス)の誘惑にかかった。娘がマティスによる素描の連作のためにモデルを務めたことをシャガールは誇ると同時に嫉妬した(中略)フランスソワーズ・ジローの言では、「イダはパブロ(※ピカソ)のために魅力を全開し、いかに彼の作品が自分にとって意義深いかを語ってきかせました。 ・・・・・・なかなか肉感的な姿態で、豊満な曲線を誇っていて、パブロを崇拝しているように彼にかしずきました。しまいには、パブロ は彼女の意のままに扱われ、自分がシャガールをどんなに好きかを彼女に語りだす始末でした」(中略)(※ピカソは)ジローにこう述べる。「マティスが死んだら、色彩の何たるかがほんとうにわかる画家はシャガールだけになる。雄鶏だのロバだの空飛ぶヴァイオリン弾きだの、あの民話的モティーフは好かんが、あの男のカンヴァスは単にいろいろ放り込んでいるわけじゃない。真に描かれているんだ。最近のヴァンスで制作した作品を見ると、シャガールほどの光りへの感覚を持ち合せた画家はルノワール以来だとの感を強くした」(中略)マティスはピカソよりもずっと愛想よくつきあった(中略)シャガールはピカソをめったに褒めなかった (ジローにはこう述べた。「あのピカソってやつはなんという天才だ ※引用者加筆.

シャガール↑
ジョルジュ・ブラック↑

われわれはモンマルトルに住んでいて、毎日会って話していました・・・・・・ その数年間はピカソといっしょに、もうだれ一人として考えもつかないことについて───ジョルジュ・ブラック

アルトワ前線でブラックが重症を負った。 穿頭手術を受けたブラックは幾つもの病院を転々とした(中略)「ブラックがいなくて寂しいよ」と彼 (※ピカソ) はある日サルモンに言うのだった。 ピカソにしては思いきった告白だった(中略)ピカソは時々、サン=ブノワ=シュル=ロワールのマックス・ジャコブを訪ねた(中略)なぜこうも頻繁に自分に会いに来るのか、マックス自身は狼狽え、辛い過去に引き戻された。ピカソはいつも綺麗な女性を一人連れて来た(中略)彼女たちの存在は、マックスには言うに言われぬ気詰まりな気持ちにさせた(中略)村じゅうの注目の的だった。マックスはピカソが何のつもりで自分に会いにくるのか分らずに苦しんだ。パリへ帰る前に、ピカソは毎回マックスの手にお札を数枚忍ばせた。マックスは一文無しだった。※引用者加筆.

パリにむごたらしいニュースが届いた(中略)フランコの要請に応じて、ドイツの爆撃機がバスク地方の小さな村、ゲルニカを全滅させたのである。爆撃は通りに人々があふれている時間に開始され、非戦闘員である市民を無差別に虐殺したという。この史上初の暴挙から1ヶ月後の1937年6月4日、『ゲルニカ』が完成する。もっとも恐ろしい殺戮に対して、ピカソは空前の衝撃的な絵画で応えたのである。『ゲルニカ』は、20世紀におけるもっとも悲劇的な絵画となる(中略)「他人に無関心でいられようか、こんなにも豊かなものをもたらしてくれる人生に、無頓着でいることなどできるのだろうか?そんな筈がない。絵画は家を飾るためにあるのではない。それは敵に対する戦争の、防御と攻撃の手段なのだ」(中略)1944年の春、友人マックス・ジャコブの埋葬の際 、ピカソは公衆の面前に姿を現した(中略)詩人はユダヤ人であるということだけの理由で強制収容所に送られ 、そこで死んだのである(中略)当時ピカソ自身、こう語っている。「私は絵画を、単なる楽しみや気晴らしの芸術と考えたことは1度もない。ここ数年間のひどい弾圧は私に、芸術によるだけでなく1人の人間としても闘わねばならないことを私に教えた 」(1944年10月5日)


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