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目は口ほどに表せない

noteを書こうと思ったら、知らない人の記事で
「自己調整学習がほったらかしになっていないか」って題が書かれていた。記事は覗いていないけれど、タイトルがそうなっていて、だんだん似たような問題意識を多くの人が抱え始めているんだなあと思う。

自由進度学習は、昔「自由しんどい学習」になってるって記事を書いて、今もまだその通りだと思っている。多分、個別最適化みたいな流れがこれからもどんどん進んでいけば、多くの人が似たような課題意識になっていくんだとおもう。

じゃあ、見守ることと、見取ることと、ほったらかすことは、どこがどんなふうに違うんだろうか。
例えば、授業が始まったらウロウロ多くの児童に話しかけていたら、ほったらかしていることにならず見取れているんだろうか。その介入って子どもの学びを遮ることになっていないんだろうか。というか、それって見守っているんだろうか。

例えば、何もせず教室の隅から見守っていて、子どもの様子を見ていることは、ほったらかしていることになるんだろうか。頭の中で次にどんな学習デザインをするか、支援の手立てを打つか、子どもの関わりについて思索を巡らせるか頭がフル回転していても、それはほったらかしなんだろうか。

見るという行為一つとっても、パッと見る、じっくり見る、ぼんやり見る、じろじろ見る、チラッと見る、ずっと見る、ざっと見る、必ず見る、きっちり見る、こっそり見る、みたいにいろんな見方ができる。人によって見守るとか、監視するとか、意味合いも変わってくる。
人がグルグル回っている右回りか左回りか人によって見え方が変わる画像も見たいようにしか見えないし、あの青だか金だかのドレスだって、人によって見え方の色まで違う。よくある「自分の思っている赤色は、周りの人にとっても同じ色を示す赤色か」みたいな問いにさえなってしまうわけで。

じゃあ、何が必要かっていうと、結局「見えたものを言葉にすること」だと思うんですよね。
今、自分がこの状況をどんなふうに見ているのか、何が見えているのかという言葉からしか、見えている状況は伝わってこないし、その言葉を交換し合うことで、自分の見えていなかったものが見えてくるわけで。
どんなに性能の良いウェアラブルカメラをつけて教師が何を見ているか研究したって、見ているものと見えているものは違うわけで。

有田和正の有名な発問「何が見えますか?」は、教師にも有効で。
研究授業終わった後に「何が見えましたか?」って聞いてみたら、100通りの答えが返ってくると思うんですよ。そうやって、それぞれが見えていたものを言語化し合ったりとか、授業中に実況解説したりとかしていくことで、この人ってこんなところまで見えているんだなっていうのが伝わってくると思います。
そういう意味では、ストップモーション型の授業検討は、何が見えているのかを曝け出させてくれる検討会なのかもしれないな。

もう一つ懸念というか、課題は「見えてはいるけれど、言葉にする術や状況を表す言葉を持っていない」ってことが起こること。でもそれって結局それは周りにとっては、見えていないことになる。
こうして、自分が持っている言葉で勝負していく仕事だからこそ、言葉にこだわる人っていいなと思うし、自分自身ももっともっと語彙量も含め、その場の状況にピタッと合う言葉を見つけて伝える訓練を積んでいきたい。


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