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私のテレビは何チャンネル

地方に遊びに行って、ホテルに泊まる機会があります。
基本的には、一人で泊まりに行って、一人で飲みに出掛けてホテルに戻ってきて寝る。みたいな、寝どことしてのホテルです。

で、そんなダラダラの中で、ふとテレビをつけると、毎回「ああ、そうだった、そうだった。」ってなるのが、チャンネル数の少なさなんですよね。いつもの感覚でポチポチとチャンネルを回していくと、「そのチャンネルには登録されていません」みたいなのが、想像以上に早く出てきます。特に見たい番組があるわけでもないけれど、「え、ここって、このチャンネル見れないんか」みたいなことを味わいます。

複数のチャンネルがあるということは、それだけ見ることのできる番組が増えるという選択肢につながります。それによって、得られる情報も増えてくるということですよね。

このチャンネルをいくつ持つのかというところ、、大人の学びでも一緒だと考えていて。もっと突き詰めて言えば、学びのコミュニティをいくつ持つのかということだと思います。
そしてこのとき、大事なのはというか、自分自身が意識しているのは
「多すぎず、でも多様に」だということです。

地方のテレビも、もう今はAmazonとかYoutubeが当たり前に入れられていて、正直何も考えずに大量の情報を得ることができます。
これは学びでいうなれば、溢れる書籍やSNS、オンラインで見ることのできる情報に近いのではないでしょうか。
自分のチャンネルになっているかといえばそうではなく、いつでも参照できるもの、いやいつでも参照できるが故に、むしろいつまでも参照しないものであることも少なくないはずです。Amazonの動画なんて、ほとんどは見ないものですもんね。(個人的な意見なので、めちゃくちゃ見ている人いたらすいません)

チャンネルは多すぎても、結局見なくなってしまう。コミュニティも所属しすぎていたら、結局何が学びたいのか、何のためにそこに所属しているのか分からなくなってしまうのではないでしょうか。
だからチャンネルは多過ぎず、絞っていくことが大事だと考えます。

次に「多様に」というところです。
チャンネルの数を絞っていく過程で、どうしても「いつもいるあの人」が生まれてきがちです。もちろん、その人ととは意見を交わすことも必然的に多くなるので、気の知れた仲間になっていきます。ただ同じような人がいる場所には、同じような情報が集まってくることが多いのではないでしょうか。
そうすると、同じような言葉を使って、同じような感覚を味わって、なかなか自分の考えを疑わなくなってしまう、そんなことがあるように思います。

自分の現在中心とする学びの場、オンラインでの学びの場、対面で参加するセミナー、振り返りを共有するコミュニティ、そして校内という現場、こうした自分にある学びの場、チャンネルがどのくらいあるのか、そしてそこは同じような感覚の人ばかりいない、多様な場であるか。
これを意識して、これからも自分のチャンネルについて精選していきたいものです。


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