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アポロ計画の裏側 -月軌道ランデブー・モードのはじまり-

アポロ計画で取り上げられるのは、ジョン・F・ケネディ元大統領や史上最大のロケットであるサターンⅤの開発を指揮したフォン・ブラウン博士、史上初の月面歩行を成し遂げたニール・アームストロング宇宙飛行士、バズ・オルドリン宇宙飛行士といった人たちである。
しかし、アポロ計画には40万人もの人々が関わっていたと言われており、その中には科学者や技術者をはじめ、縁の下で巨大なプロジェクトを支える事務職員や建設作業員、運転手なども大勢いた。

人々の記憶に残るのは、月を歩いた宇宙飛行士のように華やかな活躍をした人たちである。しかし、人類が月に到達できたのは、ほとんどが無名の、アポロ計画に関わった40万人の泥臭い努力によるところが大きいだろう。
そこで今回はジョン・ハウボルトという、ある一人の技術者を取り上げようと思う。

ジョンはアメリカ合衆国東部、バージニア州にあるNASAラングレー研究所で働く研究者だった。彼はここで、既存の常識を打ち破ることになる。それは「月への行き方」である。アポロ計画以前には、月面に到達した人類が存在しなかったため、そもそも月へ行く方法が確立されていなかった。

まず考えれられる方法としては、宇宙飛行士を乗せた宇宙船は地球を飛び立った後、直接月に着陸し、月面探索をおこなった後、月を離陸し、直接地球に帰還するという方法だ。この方法は「直接上昇モード」と呼ばれた。直接上昇モードは最もシンプルな方法だったが、大きな問題があった。それは宇宙船が巨大になってしまうという事だ。なぜなら、月面から離陸するための燃料だけでなく、地球に帰還するための燃料も月面へ着陸させなくてはならないからだ。宇宙船が大きいということは、それを打ち上げるロケットはさらに巨大になる。ただでさえ化け物のように大きいサターンⅤ(全長110.6m)より2.5倍も大きいモンスター級のロケットが必要とされた。
一方、ロケット開発を指揮していたフォン・ブラウンは、宇宙船をいくつかのパーツに分解して、別々に打ち上げ、地球軌道上でドッキングし、その後は直接上昇モードと同じ方法で月に行く方法を主張した。宇宙船同士が宇宙空間で出会うことを専門用語でランデブーというので、この方法は「地球軌道ランデブー・モード」と呼ばれた。この方法では直接上昇モードほどのモンスター級のロケットは必要なかったが、代わりにサターンⅤを複数回打ち上げる必要があった。また、巨大な宇宙船を月面に着陸させなければならないという問題は未解決だった。
当時は、この2つの方法以外に現実的な解があるとは誰も思っておらず、どちらを選ぶにしても、技術的なハードルは非常に高かった。
そこで第3の方法を主張したのがジョン・ハウボルトである。ジョンが主張した方法はこうだ。まず司令船と月着陸船の2つの宇宙船をセットで打ち上げる。そして、月軌道到着後に両者を分離し、月着陸船は月に着陸する。一方、司令船は月軌道で待機する。月面探索を終えた月着陸船は、月面から離陸し、月軌道で司令船とランデブーし、ドッキングする。宇宙飛行士が月着陸船から司令船に乗り移った後に、月着陸船を投棄し、司令船のみが地球に帰還するのだ。この方法は、月軌道でのランデブーが必要なため「月軌道ランデブー・モード」と呼ばれた。この方法では、地球に帰還するための燃料は月軌道に残して行くことができ、月着陸船を遥かに小さくすることができた。そのため、打ち上げるロケットもサターンⅤ1機で済む。直接上昇モードと地球軌道ランデブー・モードの欠点を一度に克服できる画期的なアイデアだった。
しかし、ジョンのアイデアに、誰一人としてまともに取り合う者はいなかった。当時の技術では、月軌道でランデブーすることのリスクが高すぎると思われていたのだ。
その後もジョンは諦めることなく研究を続け、当初考えられていたほど、月軌道ランデブーのリスクは高くないことを示した。また、上司の頭を何階層も飛び越してNASA副長官に直談判もした。そして、これらの努力が身を結び、ついにはアポロ計画に月軌道ランデブー・モードが採用されることになった。
ジョンがいなければ、アポロ計画の結果は、我々の知る歴史とは異なっていたのかもしれない。

本記事はNASAの中核研究所であるJPL(ジェット推進研究所)で働かれている、小野雅裕さんの「宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億分の八」を元に構成しました。



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