やりがい_と搾取

まだ「やりがい」で搾取されてるの?

パクリではありません、オマージュです。

常々、「労働の正当な対価とは何か」って考えているのですが、
結局のところ「金銭の多寡」が最もブレがなく、
多くの人を幸せにする対価だと思っています。

そもそも、貨幣社会では「モノの価値」を「金銭」に変換するという、
原理原則にあると思います。
あえて「モノの価値」と書いたのは、確実に存在する物体に限らず
サービスやデータにも価値が存在しているからです。
例えばコンサルティングや医療、最近だとソシャゲーなどのレアカード、
自分自身の個人情報なども「モノ」にも価値があります。
場合によっては「物体」などというものより、高値で取引されます。
アートなどは物体でありながら、技術や歴史に価値を見出されてるので、
あれだけの高値になっているわけです。

やりがいが大きいほど、しんどい。

上記の通り、「モノの価値」は「金銭」に変換されるわけですから、
当然、労働(モノ)の価値は給与(金銭)が対価であるべきです。

でも、ここに「やりがい」というものが出てきます。
『お金では変えられない』とか『それさえあれば仕事のモチベーションが』などといったふれこみによって
『労働の価値=給与』
だったものが
『労働の価値=給与+やりがい』 
に変換されるのです。

これだけみると、『給与』ももらえて『やりがい』ももらえるので
めっちゃお得な気もします。
給与が他業界や他業種と同等以上であれば、の話です。
多くの場合が給与に置き換えて「やりがい」とやらを支給されたり
その分、過重な「労働」を求められたりします。

上記の式を変えてみます。
『やりがい=労働の対価-給与』
要するに、本来の価値に給与が足りていない場合、
その分が「やりがい」として支給されているのです。

また
『給与=労働の対価-やりがい』
でもあるので、やりがいが大きければ大きいほど
給与は労働に対して少なくなります。

やりがいは、経営者が人件費を節約したいときに
お金のかわりに渡す対価なのです。

やりがいが欲しければ、生活の安定から。
またはスキル習得の投資として考える。

とはいったものの、やりがいのまったくない仕事をし続けるのは
精神的によいものとは思えません。
とはいえ、ある程度の給与がなければ
生活やライフプランを描くこともできません。

まずは「地盤」を安定させましょう。
それでもやりがいが欲しいのであれば、純粋に「頑張っている自分」を求めるような自慰的な行為ではなく、
明確なスキルを身につけられるような、自己投資的な行為にしましょう。
ITや医療技術など専門性と汎用性があるスキルであれば
労働の対価を給与ではなく、「将来の投資」として
考えることもできるのではないでしょうか。

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