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わたしが人間に貢ぐ理由

以前の記事を読んでもらうと分かりやすいが、

わたしは「誰か」に課金しやすい。課金、と言う言葉が違うなら、投資、もっとネガティブに捉えるなら、貢ぐ、という見方もできる。この場合の主軸は、例えば、友人や知り合いなどの「対等距離の人間」に対してでは無く、「人前に立って何かをしている人間」に限った話である。時折、なぜ?と聞かれることがある。
自分でも何故だろうと思う。
わたしは便宜上、女なので、男性にこのような行動を取るのは、まあ自然…、というか考えるのに難くないのだが、言うならば悪癖は、女性にも喜んでお金を惜しまないことだ。しかも、女性の場合はたまに、先述した「対等距離の人間」にも、時間、という重課金をしてしまう。(これでもかなり改善した方なのだ。恐ろしいことに)
今回はその話をしていこうと思う。

そもそもわたしはあらゆるオタクを経験してきた。
男女ともにあったのはアイドル、男性なら芸人、俳優、声優、イラストレーター、歌手、果ては女風セラピスト。女性ならば、コンカフェ嬢がメイン。
単細胞なので、界隈を何度も行ったり来たりしている反復横跳びオタクとしても名高いわたしだが(?)、なんせハマると猪突猛進、止まらないのだ。そして、ある日、眠りから目覚めるようにそこから去ってしまう。

しかし、こんな感じだが、意外と二次元に対しての関心と熱意は低く、(正直言って)同じ顔面絵柄の缶バッチを鞄の表面一帯に付けて「推しアピール」をするのはシンプルに疑問符が浮くし、キャラクターに恋慕を抱いたこともない。
何故、そこまで「人間のオタク」に拘ってやめられないのかと言うと、一番は単に『人間が好き』なのだ。それじゃざっくりしすぎてる、と言うのなら、『人間の人生・感情を垣間見ることが好き』、『人と楽しい時間を共有したい欲の強さ』、『過去の囚われ』の三つがある。

『人間の人生・感情を垣間見る』

簡単に言えば、他者が過去の大きなエピソード(ex.劇的な失恋話など)や、体験談を聞いているのが好きなのだ。
これは、当時の感情の進み方や爆発の瞬間、そこから何を得たのか、どう変化していったのか、その歩みを感じるのが好きなのだ。言わば、当事者の疑似体験を楽しんでいる、に近い。
相手がアイドルや俳優といった表現者の場合は、その人が『人生そのものを商材(商品)としてお金に換えて生きている』と考える。それ故、対価を払うのは当然と捉えているので、大金を叩く、ということである。
お金になってしまうのは、それが一番分かりやすい形だから、という言葉に尽きる。感想や言葉はいつでも流動体で、それに左右されすぎて欲しく無いからだ。表立っている人間の感情の動きはポジティブなものが心地いい。それは、わたしが表現者を目指しているから、かもしれない(共感性が高いと言う意味で)。

『人と時間を共有したい欲の強さ』

さて、先ほど表立って表現をする人間の話はしたが、じゃあ、コンカフェ嬢や女風セラピストって表現者?って言われると、わたしは違うと思う。勿論、特定のキャラ(人格)を作り上げて、または猫を被って業務に携わる人もいるので、そう言う意味では役者として立派だと思う。
しかし、彼らはあくまで「サービス業」なのだ。
他者の精神も肉体も癒す、夢を見せる為の立派な「お仕事」である。(近年ここを忘れたり、重要視する人が年々減っているように思う。悲しい)

ではそういう人物と何を楽しむのか。表題にもした「時間」である。これはライブやコンサートに似た感覚だと勝手に解釈している。
楽しい時は勿論、愚痴や悩みをこぼしたり、気持ちいい・心地良い瞬間を味わったり、時には怒りを共有することもあるだろう。
人間の機微の、己も含めた時間を、当事者と体感・共有するのが楽しいのである。同じ経験をすることによって、同じ感覚を得ている、という疑似体験ができるからだ。これは現代が与えた奇病かもしれない。

『過去の囚われ』

最後の項目になるが、これは少し仄暗い話である。

わたしは小学生の間、わりと強い精神的ないじめを受けていた。単純に菌扱いとか、暴力とかは最初の数年で済んだが、最後、小5〜6の多感な頃にあったのはわたしの感情を踏み躙るものだった。
お金をせびられたり、高いキッズブランドの服を買っていないことや、流行りの漫画を持っていないことを理由に小馬鹿(あくまで小馬鹿、なのだ)にされたり、当時わたしの家では禁じられていたゲームセンターやショッピングモールに行くことを強要されたりと、散々だった。これの何がタチが悪いって相手は全員『出来たら私たち友達だよ』と囁いてきたのだ。

なんでそんなことで、と思うかもしれない。勿論、わたしも今考えると、なんて愚かでカモだったのだろう、と反省している。
でも、当時のわたしは必死だった。自分の味方を1人でも増やせるのなら、と。
要は、誰かに助けてもらいたかったのだ、追いやられている自分を。褒めてもらいたかったのだ、辛くとも毎日登校して、親に「楽しかったよ」と告げることを。
最終的に母に見つかったり悟られたりして、親同士で話し合ったり、学校を巻き込んだりと、それに於いてもあまりいい思いはしない終わりを迎えた気がする(嫌な思い出すぎて覚えていない)。

また、別の例もある。これはやや勉強代、とも受け取れるが。
時は過ぎて大学生の頃。当時通っていたバンドのファン同士で仲良くなった可愛い子がいた。賢く、器量良しで愛嬌もあれば、クリエイティブな発想もある。わたしは一瞬で恋に落ちてしまった。
だが、彼女の正体は「おねだり上手で高級志向の女の子」だったのだ。わたしが惚れているのを知ってか知らずか、遠方に呼び寄せたり、お茶やご飯代を奢らせたり、プレゼントを渡させたり。が、どれも彼女が自分から要求・強要してきたことでは無いのだ。『出来たら嬉しいな・出来たら喜んじゃう・大好き』と、わたしに囁きまくった。
蘇ったのは前述の記憶。わたしが頑張れば、嫌われずに済む、好きでいて貰える、近づく事を許してくれる。
甘い考えだが、これも当時病気を発症したててで、同性を初めて好きになって悩み狂っていたわたしには、必死の答えだった。
とは言え、どちらの過去も褒められたものでは無いし、決して憐れんで欲しいわけでもない。だが、この『お金で解決してくれたら関係性を保つよ』という約束は、わたしにとって解けない呪いのまま、今日まで生きてしまっている。

『その支配からの卒業、をしたい』

とはいえ、いい加減卒業したい。というか、意識や考え方を変えたい、と思って、努力している真っ只中ではある。人生も新たなステージへ移行する年頃、トラウマに縋り続けても生産性が無いな、と何かの拍子に気づいた。
表現者・サービス業の方々に対しての気持ちはまだ拭いきれていないが、「対等距離の人間」に対しては、月並みとはいえ『来るもの拒まず、去るもの追わず、必要な人に届けばいい』の思想に落ち着きつつある。
表現者を目指すものとして、どうなのか、って感じる部分もある(多少傲慢かな、商業的に成立するのかな等)。だけど、わたしのメンタルが保たれて、楽しく生きられる。そんな生命活動=生活が出来たら、今のわたしはそれでいいのだ。お金なんかはちょっとでいいのだ。(嘘、お金は大事、5000億欲しい)

この悲しみをどうすりゃいいの 誰が僕を救ってくれるの

自分で救うんだよ、でなきゃやってられねえや。
きっと、そう言い切る自信や、自分の感情や存在に向き合う勇気が無かったんだろうな。これからも成長していきたいです。にょきにょき。

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