【ぶんぶくちゃいな・期間限定無料全文公開】ポッドキャスト「不明白播客」:Netflix版『三体』の文革シーンはリアルか、陰謀か?――わたしの文革体験(前編)
3月21日、世界的な人気を博している人気中国人SF作家の劉慈欣作品『三体』の実写版の放送が、Netflixで始まった。中国を舞台に中国人社会を中心にして展開する原作と比べると、さまざまな人種が登場するNetflixらしいそのドラマ版は、多くの原作ファンたちの度肝を抜いた。
Netflixは中国では配信されていないものの、Netflix自体は、中国語で「奈飛」とか「網飛」などと呼ばれてその存在は知られている。実際には、海外居住経験のある人や、所在地のIPを変えることができるVPNなどの技術を使った人たちがNetflixのアカウントを取得し、中国国内で視聴されてもいるようだ。さらには、配信開始後数時間のうちに、そうした視聴可能な人たちがこっそり作品をコピーし、国内の動画サイトに提供したと見られる海賊版も出現した。
こうして、正式配信開始とほぼ同時に中国のネット上でも『三体』ファンたちによる、Netflix版『三体』への評価が投稿された。
中国人原作ファンにとって、やはり最大の「違和感」は主要登場人物が白人だったり、黒人だったり、インド系だったり、さらには原作登場人物の性別が書き換えられていたりすることだった。
だが、国籍を超えてそれ以上に注目されたのは、冒頭10分あまり続く文化大革命(以下、「文革」)時代の批判大会のシーンだった。そこでは、主人公の父親が紅衛兵によって舞台に引きずり出され、批判を受ける。しかし、自分の「罪」をがんとして認めない父親は、衆人環視の下、そのまま紅衛兵になぶり殺されてしまうのである。
それはかなり衝撃的で、ドラマの出だしとしても強烈なシーンだった。
さらに、中国人視聴者の間ではそれをどう受け止めるべきかについての大議論が巻き起こった。米国企業であるNetflixの製作側の「陰謀論」を疑う声が湧き上がった一方で、多くの人たちからは「大変リアルだ」と称賛の声も起きた。
称賛というのは、今ではそんなシーンは中国や香港でも描くことができなくなっているからである。映像作品で時代の残酷さを記録し続ける重要性について、さらには文革自体の記憶についての討論も始まった。
もちろん、中国国内では堂々とそれを公開の場で論じることはできない。Netflix版ドラマのネット上での感想発表も、ネット禁止用語を使ったり、削除対象の話題に触れるという「地雷」に触れてしまえば、あっという間に削除された。その結果、ネット上に並ぶ評価も目にできるのは似たりよったり、アメリカ製作者の陰謀論などの表面的なものばかりとなった。さらにはその後、作品評論サイトにおけるNetflix版『三体』のコメント欄は閉鎖されてしまった。
こうした超「敏感」な動きの裏で、人々は文革を論じることの重要性を喚起されつつある。かつて文革について語ってきた人たちがまたその記憶を振り返ったり、関係者の声を聞くという動きが起きている。
ここで、すでに何度かそのコンテンツを借用させていただいたポッドキャスト「不明白播客 Conversations with Yuan Li」から、ホストの袁莉(Yuan Li)さんのご許可をいただき、文革体験者による当時の現実についての語りを2回に分けてご紹介する。
袁さんは中国出身のジャーナリストで、中国国内メディアで国内外の取材経験を積んだ後、米国の大学でジャーナリズムを専攻。その後、「ウォールストリート・ジャーナル」や「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)の中国駐在記者を務め、現在はニューヨークに移ってNYTのコラムニストとして活動している。この「不明白播客」(「不明白」とは「わからない」という意味で、「わからないことを尋ねるポッドキャスト」と名前になる)を2022年5月に開始した。
今回のゲストの高さんは、まさに文革に投身した当時の大学生だった女性。中国国内で暮らしておられるようで、その身の安全を守るために番組内ではその姓しか明かされていない。だが、その生々しい証言は一読に値するはずである。
なお、以下の内容において[]は訳者である筆者による補足であり、他に一般の日本人読者にはすぐにはピンとこないはずの中国的な用語について個別に注釈をつけた。
◎ポッドキャスト「不明白播客 Conversations with Yuan Li」:Netflix版『三体』の文革シーンはリアルか、陰謀か?――わたしの文革体験(前編)
袁莉(以下、袁):みなさん、こんにちは。ポッドキャスト「不明白播客」へようこそ。ホストの袁莉です。
今回は文化大革命(以下、「文革」)の「暴力」をテーマに取り上げます。不快な内容が含まれている可能性がありますので、予めご了承ください。
劉慈欣の作品『三体』は、これまでの数十年来で中国で最も成功した文化輸出のひとつと言えるでしょう。この壮大なSF小説は10数カ国語に翻訳され、世界中で熱狂的な読者を獲得しました。そのうちの一人にはオバマ元アメリカ大統領もいます。
今年3月末に米Netflixが製作したテレビドラマ『三体』のシーズン1が放送され、大変な注目を受けました。しかし、それに対して中国のインターネット上では怒りや嘲笑が巻き起こりました。中国のソーシャルメディアでは、「Netflix版『三体』の製作者がストーリーや主要キャラクターを勝手に改変した」「中国人や中国の要素があまりに少ない」などといった不満が多く流れています。また、ドラマ冒頭の文革シーンがあまりにもリアルだ、暴力的だという不満もあります。
評論家の中には文革を敢えて取り上げる必要性に疑問を呈し、Netflixが中国を意図的に貶めるためにこのドラマを製作したのだろうと批判する者もいます。さらに、作品中の批判大会シーンにおける暴力が誇張されているという非難の声も起きています。
劉慈欣原作の『三体』では主人公の葉文潔は、物理学者の父親である葉哲泰が清華大学の批判大会で殴り殺されるのを目撃したことで、復讐の道を歩むことになります。2019年に私の「ニューヨーク・タイムズ」の同僚であるアレクサンドラ・オルターによるインタビュー[*1]の中で、劉慈欣が文革は作品のプロットにおいて極めて重要であり、主人公がそれによって人類に完全に絶望する必要があったと述べたと明らかにされています。
1966年から1976年までの10年間の「動乱」とされる文革では、複数の学者の統計によると150万人から800万人の中国人が異状死し、1億人以上がその影響を受けました。
今回は、文革が起こった1966年当時に清華大学[*2]に在籍していた高さんにご出演いただきます。
まず、Netflix版『三体』の冒頭で描かれる文革の暴力シーンが本当にリアルなものか、文革当時は本当にそのように暴力的で残任だったのかについておうかがいします。そして、彼女がずっと心の奥底に抱えてきた、今でも悔やんでいることや、当時なぜ人々が生命や倫理を軽視したのか、そして今振り返って文革をどう見るか、さらに我われ一般庶民が今、文革をどのように捉え、見直すべきかについてもお話しいただきます。
●Netflix『三体』の文革シーンのリアル度
袁:高さん、こんにちは。文革が始まったとき、あなたは清華大学の1年生だったと聞きました。Netflixの『三体』で描かれた批判大会のシーンはリアルだと感じましたか? 当時、本当にあそこまで残酷だったのですか?
高:私たちも家族全員で一緒に『三体』を観ました。冒頭の数分間の清華大学シーンは、かなりリアルだと感じました。問題点もいくつかありました。例えば、エキストラたちの姿は当時の学生とは違うと感じました。当時の学生は眼鏡をかけている人が特に多かったんです。
また、当時は敢えて軍服を着たり、そこにがっちりとしたベルトを締めたりする人が多かったけれど、ドラマの姿は少々当時の清華大学の学生らしくないなと思いました。耳が割れるほど大きな音を出していた大型スピーカーも、ドラマの音響では当時の批判大会[*3]の大騒ぎぶりを表現できていないと感じました。
袁:当時はヒステリックなほどの狂信的なムードだった?
高:胡杰[*4]が文革時代を描く版画には、ほぼすべての絵に大型スピーカーが描かれています。それこそまさに文革の特徴です。スローガンも当時のような火花を散らすような熱気は感じられませんでしたが、他のシーンはかなりリアルでした。
袁:清華大学の中心的建物もそっくりだとおっしゃっていましたよね?
高:そう、背景は丁寧に選ばれていましたね。もちろん、批判大会の舞台の向きや大会が開催された位置は当時のそれとは違いますが、その詳細は置いておきましょう。子供たちからも「本当にあんなに残酷だったの?」と尋ねられましたが、私はすぐさま「そうよ」と答えました。
清華大学の批判大会の現場では人を殴り殺すなんてことはありませんでしたが、あの映像は当時の状況を凝縮したもので、本当にあんなに残酷だったんです。ただ、『三体』の描写はかなりリアルではありましたが、たかが数分間のあのシーンが世界中で大きな反響を引き起こしたことに驚きました。人々は本当に文革を忘れてしまっているんだ、その残酷さや暴力を覚えていないのねと感じました。
袁:清華大学の批判大会では人が殴られたりすることはあったのですか?
高:ありましたよ。押し倒したり、腰を反り返るように折り曲げさせられて膝をつき、床に押し付けられる「飛行機」と呼ばれる姿勢を取ったりさせられました。
その当時、私は自分にまだ革命意識が足りないと感じていました。批判される者になぜ自分は同情するのかと自問したり、自分がプチブル的な温情主義を克服すべきだと考えたりもしました。だから、その後ますますエスカレートした行動を取るようになった。
学長や書記、教授たちといった人たちに労働を科し、奇怪な歌を無理やり歌わせ、いつでも罵倒や暴行を行うといった場面がますます増えていきました。
●そばにごろごろあった文革時代の迫害例
袁:あなたにはその頃まだ、それをおかしいと感じる気持ちがあったわけですね。
高:私にはまだ少し良心が残っていたのでしょうが、[当時の私は]それを「克服しなければならない!」と思っていたんです。
今の人たちは理解できないかもしれませんが。資本主義の道を歩んだとされる人たちが激しく批判され、暴力的に扱われるとき、私は少し耐え難く感じることがありました。でも、それを自分の間違いだと思っていた。つまり、世の中すべてが熱狂的で狂気じみていて、造反精神、革命精神を持たなければならないと考えていたんです。
私は北京師範大学女子附属中学で学びました。その学校の素晴らしい校長だった卞仲耘さん[*5]は、15、16歳の女子学生に殴り殺されました。だからこそ、『三体』の最初の数分間には当時の状況が凝縮されていると感じました。
さらに、わたしの夫が通った北京第四中学の20代の国語教師も文革初期に殴り殺されました。親戚のおばさんは北京の別の学校の校長をしていたんですが、殴り殺されはしませんでしたが、それでもさまざまな苦しみを味わされました。想像してみてください。まず、頭を「鴛鴦頭」[*6]と呼ばれるスタイルに剃られ、殴られたり罵倒されるだけではなく、太った身体でガラスの破片の上に跪かされたり、痰つぼの中身を無理やり飲まされたり、などという拷問を受けたんです。
あの当時、精神的に未熟な若い生徒たちが毛沢東の煽動を受けて本当に狂気じみた行いを繰り返していました。
袁:1966年8月5日、文革が始まって間もなく、北京師範大学女子附属中学の党支部書記兼副校長だった卞仲耘さんが、批判大会で殴り殺されました事件ですね。彼女を殺したのは10代の女学生たちで、彼女は文革で最初に紅衛兵に殺された教育者の一人となりました。
『三体』で批判大会の場面を見たとき、私は胡杰さんの作品『我雖死去』を思い出しました。ぜひ皆さんもご覧いただきたいです。私はこの作品を10年以上前に観て大変なショックを受けたのを覚えています。あなたもご覧になったとのことですが、あなたは生前の卞仲耘校長についてよくご存知でいらっしゃるわけですね。
高:そうです。あの出来事は絶対に忘れてはいけないことです。ですから、私たちはすでに年を取ってしまいましたが、北京師範大学付属女子中学のイベントに参加し、卞仲耘校長のために追悼会を開き、彼女の像を作り、またCDなども作って、当時の非人道的な出来事について真剣に振り返る場を設けました。参加した同窓生たちは心のなかできっぱりと、間違ったことを放っておくわけにはいかない、必ず悔い改め、反省しなければと考えていました。
●鈍感にならなければ狂っていた
袁:卞仲耘校長が殴られて亡くなった1966年8月時にはあなたはもう卒業し、清華大学の1年生だったわけですが、付属女子中学の同窓生たちとは連絡を取っておられたんですよね。そこで事件について耳にした。当時それについてどんな議論があったんでしょうか? 事件についての話を聞いた時、どんなお気持ちでしたか?
高:そうですね、今その時の話をしても必ずしも信じてもらえないかもしれません。
まず、私は当時、大学での運動で大忙しで、中学時代[*7]の関係者とはあまり連絡をとっていませんでした。
次に、当時は本当にたくさんの人たちが亡くなっていて、飛び降りや自殺、街中で殴り殺されたりといった暴力事件が多発していて、それがあまりにも多かったため、人々は少し感覚が鈍くなってしまっていたんです。なので、わたしもどこかの校長が殴られて亡くなったという話を聞いたとき、自分がどんなふうに感じたのか全く思い出せないんです。なのでお話しすることはできません。
たとえば、当時私の同僚で毎日一緒に過ごしていた人の妹は、「紅八月」[後述]に街中で堂々と行われた暴行で人が殺され、流れる血を見てしまったことでおかしくなり、素っ裸になって街中を歩き回るようになってしまったんです。とても良い子だったのに……当時はこんなふうに、本当に血なまぐさい、暴力だらけの時代だったんです。
袁:自分を鈍感にしなければ、そうしないとその同僚の妹さんのようになってしまう?
高:私も自分を敢えて鈍感にさせたわけではありませんでした。わたし自身も分別がなく、理性をなくした状態でした。だから、私も狂気に満ちた、本来ならやるべきではない無謀なことをしていました。
『三体』で、批判大会の舞台に葉哲泰氏の妻を引きずり出して[夫を]批判させるシーンがありましたが、非常にリアルでした。作家老舎[*8]が最後に耐えられなくなったのは、家族すべての支持を失い、家族みんなが彼を陥れ、攻撃を受けたことで絶望して湖に身を投げたのですよ。
●夫にも言わずにきた、自分の最大の間違いとは
私には一つ、ずっと口外せず、心の中にしまってきた苦い記憶があります。一緒に49年間過ごした夫は2年前に亡くなりましたが、彼にも言わずに来たことです。
文革の初期には私も同様にとても狂信的で熱狂的でした。『三体』の中では妻が夫を告発したわけですが、実際の私も革命を求め、反乱を起こさなければ[*9]と心から望んでいました。そして、わたしの大事な母のことを大字報[*10]で批判したのです。
このことについてはずっと心に抱えたまま、口にすることすら避けてきました。文革を持ち出すと、当時行われた罪行や過ちのあれこれが持ち出されますが、それを聞くたびにかつて自分が非常にひどいことをしてしまったことを思い出していました。
母はとても素晴らしい人だったのですが、私は彼女の批判文を書き、彼女が文革を潰そうとする罪人だ、彼女は他人を惑わす化け物だなどと告発したのです。今その文面を見たら、友人や同窓生たちは絶対に私が書いたものだとは信じないでしょう。それは本当に……完全にばかな行動でした。
袁:なぜそんなことを書いたのですか? 他の人たちも書いていた?
高:文革で頭がいっぱいだったこと、そして私の出自[*11]が特によくもなく悪くもなく、革命の中心人物でも地主などの批判対象でもなく、とにかく[革命の流れに]ついていくことばかりを考えていたんです。洗脳されていて、まるでカルトに入ったかのように、毛沢東がすべての資本家を掃討すべきだと呼びかけたことで、自分の母親がそれに反対することは間違っていると思い込み、母親を駆逐しなければとまで考えていたんです。当時、私の[母方の]祖母も社会的な批判対象とされて街中で暴行を受けたり、「鴛鴦頭」にされたり、蹴られたり踏みつけられたりしました。
そんなふうに未熟な人間が洗脳されてしまっていて、それはまったく珍しい出来事ではなかったんです。
袁:その後、お母様とはその時のお話をしましたか?
高:母は、ずっと前にわたしを赦してくれました。「あのときは未熟で、大騒ぎしていたのよね」って。でも、わたしはずっと自分を赦せなかった。母が汚名を着せられ、監禁されていたときに、家族がそんなひどいことをしてしまったわけですから。もし、母が屈強でなかったら、本当に後悔してもしきれない事になっていたはずです。
袁:さっきの話のように、老舎は家族全員に見放されたから自殺したんですよね。もう一人の作家、沈従文[*12]は生き残れたのは家族が彼を見捨てなかったからで、大きく違う結果を生んだ。当時みんなが狂ってしまっていたのですね。
●狂気に満ちていた、あの8月
高:だから、あなたに当時の情報や感情について尋ねられてももう思い出せないんです。月日が経ってしまったこともあるでしょう。
でも、私が清華大学時代の同窓生たちと編纂した本の表紙で使った第二校門の写真にはいくつか黒い影が映っていました。それを見てその影の中に自分がいたと思い出しました。当時、私はその場にいて、この目で幹部たちの子弟たち[*13]が大理石でできた、本来ならば非常に重要な文物であるはずの第二校門が轟然と倒れるのを見ていたんです。
当時の私は何を考えていたのだろうかと振り返ってみたんですが、あまり思い出せませんでした。自分がその場で歓声をあげたわけでも、怒りや悲しみを感じていたわけでもなく、ただ流れに身を任せ、ぼんやりとした鈍感な状態だったように感じるんです。ただの烏合の衆でした。今思い返しても本当に情けない限りです。
袁:先ほど触れられた「紅八月」とは1966年8月のことですか?
高:そうです、「紅八月」は最も狂気に満ちた時期でした。最近、孫の歴史の先生がクラス全員に自分の家庭の歴史を、家族の中でどんなことがあったのかを尋ねてきなさいと宿題を出したのでその話をしたところです。文革の話を避けることはできませんでした。
当時は国中が……それこそ外から来た人が見れば、驚いてあごが外れてしまったでしょう。孫にも言ったんです。あの頃、「紅海洋」という言葉がもてはやされた時期がいたんだよ、と。
すべての家の、壁や屋根にペンキで[毛沢東の言葉を]塗りたくり、話すときには毛沢東の言葉を引用しなければなりませんでした。例えば、「『毛沢東万歳!』 その靴下が欲しいです」「『人民に奉仕する』、じゃあ2毛[注・通貨単位]です」という具合に。とにかく無茶苦茶でした。これらは確か「紅八月」というより、その後のことですが。
袁:「紅八月」では多くの人が亡くなったのですよね。
高:ものすごく多かったです。文革の犠牲者のうち、その時期に亡くなった人たちがかなりの数を占めています。「地主・富農・反革命・悪質分子・右派分子」と言われればすぐに殴り殺されたし、飛び降りたり自殺したりする人は「罪を怖れて自殺した」とさらに罪を加えられ、自殺したことでかえって憎まれたりしました。誰も同情なんかしなかった。
●疑問のスイッチが入った
袁:では、いつ頃から文革に対して疑問を持ち始めたのですか? なにかがおかしいと感じ始めたのは?
高:文革への反芻は、[その間に起きたさまざまな]運動の一つ一つに対して振り返っているときに、徐々に起こりました。私たちは[大学を]卒業するときに「臭老九」[*14]だと蔑まれ、社会の最も末端へと送り込まれ、最も大変で疲れる仕事をさせられ、末端の状況に触れたんです。そこでは次から次へと運動が巻き起こり、聞けば聞くほどまったく道理が通らないような話が増えていった。そこで疑問が生じたんです。
そのスイッチが入ったといえる出来事が、林彪[*15]の死でした。そのことは思考を巡らさないわけにはいかなかったんです。最初は[当局の発表を]信じなかったけれど、それから次第に反芻し始めたんです。
袁:ここで一度、若い世代の人たちに向けて、林彪の死について、そして彼がどんな人物だったのかをお話しいただけますか。
高:林彪は毛沢東に後継者として指名された人物で、当時は毛沢東と並べて祝福の言葉を述べることが求められていました。「毛主席万歳」「林副主席ご健康で」などと、とにかく毎日何度も何度も繰り返していました。
林副主席は文革前には軍事を担当していて、解放軍の功績でその威信を高めました。文革中、彼はたびたび講演し、指示を行い、毛主席とともに戦略を練っていた。とにかく、毛沢東は我われの心で最も赤い「紅太陽」で、偉大な指導者、司令官、道しるべ、舵取りであり、その毛主席と最も親しい戦友が副司令官の林彪で…もっとたくさん、いろんな形容詞はありましたが、今はもう完璧には思い出せません。とにかくそれらはむちゃくちゃで、毎日それを口にしなければならなかったんです。
毎日そうやって念じて彼を仰ぎ見ていたのに、その彼が毛沢東を裏切った? モンゴルのウンドゥルハーンで飛行機が堕ちて死んだ?
そのニュースはあまりにも衝撃的でした。つまるところ、わたしは当時、本当に完璧に洗脳されてしまっていたからこそ、あのニュースに激震したわけです。多くの人たちはわたしより早い時期から気がついていたからそれほど驚かなかったのでしょうが、わたしの周囲は聞けば聞くほどそれが本当のことだとは信じがたく、そこから疑い始めたんです。
●生徒たちに間違った情報を教えてはならない
袁:疑問を抱いてからどんなことをなさったんですか? 林彪が死んだのは1971年で、そこから毛沢東が死ぬ1976年まで、かなり時間が開いていますよね。その間どんなふうに文革を振り返られたんでしょう?
高:その当時、私はぼろぼろの学校で教師をしていました。最初は食堂に配属されて労働者に食事を提供したり、豚の世話をしたり……
袁:清華大学の卒業生が?!
高:そうですよ。あと、三輪車を漕いで、米や物品を買いに行ったりしていたところに、その後出た政策によって学校で教えるようになったんです。その学校は小学校だったんですが、段階的に中学へと昇格させることになっていて、私はそれに合わせて教えていました。林彪に対する批判や孔子打倒などという、当時の新聞で目にしたものについて、私は生徒には一切伝えませんでした。
それは私の反省からくる姿勢でした。すでにそれらが正しいとは思えなかったんです。わたしはそれに追従することができなくなっていた。そして、毛沢東が死んだとき、心のなかではっきりと中国人民は救われたと感じました。
袁:え、本当にそう感じたんですか?
高:そうですよ。もっと細かくお話しすると、そのニュースを聞いたとき、わたしは寮に縮こまって外に出ませんでした。外の運動場ではみんなが泣いていましたが、私は一人で部屋にこもっていた。彼らが私を探しに来ないだろうとわかっていました。
袁:そんな集団活動にはもう参加したいとは思わなかった? もう集団に対する憧れはなくなっていた?
高:毛沢東に対する思いはもうすでに私の心の中で崩れ去っていたからです。当時水面下ではすでに彼がしたことや、そのことが書かれたさまざまな資料が出回っていて、ますます事態を理解する人たちが増えていた。ですから、集団活動が終わってから、私は目をこすりながら外に出て行きました。
袁:(笑)あなたの話で、ミンシン・ペイさん[*16]の話を思い出しました。彼も毛沢東が死んだ時本当は笑っていたのに、悲しんでいるふりをして頭を垂れてこっそり笑っていたんだそうです。あなたもそっくりですね。
高:わたしは自分がそうなりそうだったので、自分から部屋にこもったんです。我たちの学校は郊外のぼろぼろの古い小学校だったんですが、やはり当時はまだ[批判を受けるのではないかと]不安だったし、それで苦しめられるのは嫌だったので。今の私の思いとは全く違う気持ちでした。
●「本当の悪者は、そのときに権力を握ったやつら」
袁:そこから、[社会的に]文革を反省する動きが出てきましたよね。私はまだ小さかったんですが、文革が終わってから演劇や映画、傷痕文学[*17]をたくさん見ました。当時の文革に対する振り返りというのはどんなだったのでしょう? 心から本当に反省していたのでしょうか?
高:当時の状況は、すでに理解できている人もいれば、私のように後になって悟った人間も、さらにはなにもわからなくて言われたままに信じる人もいましたね。それは非常にゆっくりと進みました。私は教師だったので、生徒に間違った情報を伝えないように注意しました。それは私が常に守ってきたことです。
袁:当時の「文革の反省」とされていたものは、大勢の役人が迫害を受けたとして描かれることが多かったですよね。
2016年に文革50週年の際に「ニューヨーク・タイムズ」が多くの人々の取材を行いました。『墓碑』[*18]という素晴らしい作品を執筆した歴史学者の楊継繩氏は、こんなふうに述べています。
「文革を経験していない人々の間では大量の高官が文革中に迫害されたことが知られていますが、一般市民が受けたその被害はそれこそ役人の何十倍、何百倍です。文革の悪者は造反派[*19]だと言われていますが、実際に文革中に造反派が活動したのはわずか2年間です。悪者とはその時期ごとに権力を握った人たちなのです。四人組と造反派が文革を支持していたと思われていますが、多くの高級幹部も一時期は文革を支持していたんです」
あなたは間違いなくこれに同意されるでしょう。
高:その通りですね。なのに、今だに階級闘争を呼びかける人がいるなんて信じられません。階級闘争っていうけれど、一体彼らは自分を誰だと思っているのでしょう? それはただの波のようなもので、去ってはまた戻ってくる。そして、それは自分自身の上で破裂するのです。非常に暴力的で、互いに害を与えるものからは、誰も逃れることはできないのに。
袁:文革を振り返り、記録することは必要な、あるいは意義があることだとお考えですか?
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前編はここまで。後編はこちらへ。
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