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悩みの根っこと解決について

こんなにがんばっているのに…

ここまでしたのに…
と怒りを覚えるくらいなら、本当ならやらなければいい。
なぜ、周囲が認めてくれないことで、怒りを覚えるのか。
なぜその行動を選んでしまうのか?

こうすれば人に喜ばれて認めてもらえるのでは、と思って動くのと、
単純に自分がそうしたい、と動くのでは、
出発点の向きが真逆なくらい違っている。

この違いをどう考えているかによって、行動が変わるが、「自分がそうしたいと思った」と思っている奥底に常に「他人の目」や「他人からの評価」が隠されている場合、自分がやりたいからやっているのに…と思考では思うのだが、どうにも全ての歯車が噛みあわないということがでてくる。

「他人ありき」で生きていると、決断も常に他人委ねようとし続けてしまう。
いつでも人の責任にできるよう、準備を重ねているのだがこれに気づくのはかなり難しい。

他人の意見をまず第一にすることが良いことだと教わり、そのルールに沿って生きている場合、自分の感覚を捉えることがわからなくなっていることも多い。

長年どこかにおしやられてしまった自分の感覚、感情、本音は、あまりに押しやられているうちに
「何も感じない」というやり方を身につけて、自分自身を守っている。

そうしなければ、全てにおいて他人のことを優先になどできなかったのだから、仕方がない。
自分に感じることを禁じて他人優先にすることの歪みは、何かひとつの点に影響を及ぼす、とかそんなレベルではない大きな影を人生に及ぼす。

大きな視点で見れば、他人のことを気にせずにいた方が、世の為、人の為だったりするが、他人のことを気にせず自分をまず大切にとなったときに、やみくもに自己主張をしたり、なりふり構わずワガママを言うのが自分を優先だ、と極端な方法をとる必要はない。

そんなことをするのが、自分を大切にする、自分の意見を尊重するということではない。

全てさらけ出しあうのが、受け入れ合うということでもない。

人は自分のスペースに、お互いの境界線を守りながら生きていくことができるはずで、そういったバランスが本来はあるのだと思う。

そういったことを教えられる機会がないまま、幼稚園や学校に行き、社会に出て、子育てをして、うまくいかなかったり、トラブルがあるのは当たり前ではないだろうか。

一番大切なことはどこかに押しやられたまま、多くの人が右往左往し続けている。

大切な成長の何かが置いてきぼりにされたままで心のバランスがとれるのなら、この世の中で生きづらいと感じる人はもう少し少なくてもいいはずだ。

悩むという事象に真正面から直面し続けていくと、人の内側の世界は成長し続ける。

「悩みがない」のは、大人として自分と他者、外側の世界とのバランスを上手に取れる人か、内側の世界が2歳児あたりで止まっていれば、悩みなどないから、そのどちらかであることが多いのではないだろうか。

悩みが深ければ深いほど、それから抜け出す方法はあっけないほど単純な方法の場合もある。

悩みが解決する、というのは、何かのヒーローマンガのように100%の勝利があるわけでもなく、頭の中でグルグルと考えているだけでは変化は起こり得ない。

どんなに些細な事でも、自分で動いたり人と関わることで、悩みも動き出していく。

悩み多き苦しい人生に居続ける必要はない。

動いてみた結果が、自分が考えていたような解決をみなかったとしても、自分が問題と考えていた地点から一歩でもマシだな、と思える場所を自分に与えることができたら、まずまずなのではないだろうか。



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