私はヘンタイでありたい。

今も昔も、純文学の読者はあまり多くないらしい。

そりゃそうだろう。
だって、純文学の中の人間ってほとんどヘンタイなんだもの。

若い娘の寝ていた布団にくるまって、残り香をくんくんしてみたり。
自意識過剰で自信過剰、そのくせ愚痴ばっかりのダメ男だったり。
そういうヤバイ奴ばっかり出てくるのだ。
嘘だと思ったら、文学史の中から適当に一冊選んで読んでみてほしい。
一見普通に見える人物も、自分の傷口に塩を塗って喜んでいるようなマゾヒズム溢れる語り口をしているはずだから。

そんなアブノーマルな代物に多くの人が共感できてしまう世の中なんて、想像しただけで恐ろしい。無法地帯になってしまう。
だから、あまり読まれないくらいでちょうどいいのだ。

純文学というものは、人目を忍んでコソコソ読むのが良いのである。
実のところ私は、20の頃から『痴人の愛』(谷崎潤一郎)のジョージになりたいと切願している。
しかし「市川染五郎みたいな美男子を囲って、理想の男に育てあげたあと、足蹴にされるのが夢です!」などと公言したことはもちろんないし、図書館のカウンターにいる地味なメガネ女がそんなことを考えているなんて誰一人想像できないだろう。
性癖は大っぴらにするもんじゃない。

けれども、常に自分の本心に蓋をし続けるのも苦痛である。
そこで純文学の出番というわけだ。
本を開けば、そこは桃源郷である。
実にのびやかに、すがすがしさを覚えるほど潔く、解放感にあふれた筆致で、描かれた人物はヘンタイを謳歌している。

彼らはヘンタイだと罵られようと、全く動じない。
「ヘンタイですが、何か?」と落ち着き払っている。
泰然自若。余裕しゃくしゃく。
その様子はなんだか優雅な紳士を思わせる。
茶道や香道のような、しきたりある高尚な嗜みであるかのような錯覚を覚える。
「変態道」。
こう書くと立派な芸事のように見えてくるではないか。

純文学を読む時、私は小市民の仮面をかなぐり捨てて、内なるヘンタイに身を任せる。そして、その道を究めんと精進するのだ。
マインドフルネスみたいなものだ。

ヘンタイにも様々なタイプがあって、エログロだったり、自虐だったり、偏執的愛情であったり、作家の数だけ道が開けている。
私がもっとも極めたいと思っている道は、パーツ愛である。
谷崎潤一郎のそれは、仙人の域であると思う。
女性のふくらはぎはこんな色形をしているのがいい。
肩から腕にかけての丸みを愛でよ。うんぬん。
すべての作品が、女性の肉体を愛でる指南書のようだ。

いい。実にいい。素敵だ。
すべての女性は女神である。
そう言い切ってしまえるくらいの賛美。
あああ、私もそれくらい男性の肉体の美しさに溺れてみたい!!!

けれども、私の語彙力では「大胸筋サイコー!」「たまんないな、あのゴリゴリの背中!」くらいが関の山である。(ただの変態ではないか)
だれか有名な女流作家さんで、変態的描写をしている方はいないのかしらん。そう思って我が家の本棚を眺めてみたのだが。
そこに女の人がいなかった。
海外勢を除けば9割が男の人である。
探しに探して見つかったのは、たったの3人。
林芙美子と、岡本かの子と、幸田文。
この方々の書いたものに男性賛美、それも肉体のみのなんて一行もなかった気がする。よしんばあったとしても、全く記憶にない。

なんということだ。
私が女としてヘンタイすぎるのだろうか。
それとも、時代だろうか? お三方が生きた時代、女が男の身体について語るなんて、はしたないことだったのかもしれない。

じゃあ、今ならどうだ。
男だから、女だから、なんて理屈は通用しないぞ!
ああ、しかし今なら「少年を囲って育てる」なんていうのがアウトだ。
社会通念上、絶対にアウトだ。

くっそ、どうしたらいいんだ!
私は実際に「少年を囲って育てて蹴られたい」わけではないんだ!
ただ、妄想して楽しんでいるだけなんだ!
その妄想時に使う語彙が欲しいだけなんだよう!

ぬうう、こうなっては「ヘンタイだと罵られても動じない、鋼のメンタルを持った新人純文学女性作家さん」の登場を待つしかないのか。
そうなったら純文学の読者は多い方がいいな。分母が大きければ、純文学作家の数も増えようというもの。

というわけで、みなさん。純文学、読んで下さい。
私はこの先も、末永くヘンタイでありたいのであります。



最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。