相棒でも、兄弟でも、友だちでもなく。

男同士の友情、というものに目がない。

といっても、クラスメイトの男子二人が仲良く肩を組み合って、窓際でキャッキャしているのを見てるのが好きなわけではなく。

本の中での話である。

それも、物語でなく、ノンフィクションやエッセイなんかだとなお良い。
二人の男がいて、お酒を吞みながら、なにかしら語り合う。
人生とか、恋とか、そういうややこしいことは話題にしない。
天気の話。今度の休みの予定。野球の話。
それだけ。
そういう軽いものが好きだ。
友情、とすら呼べないのかもしれないくらい、うっすらとした関係性。

その言葉少なに語られる二人の関係性を、じっくり活字で読みながら、私はあれこれ想像する。
「ほぉお、こんなかんじなのかぁ。なるほど」
オンナである自分をしばし忘れて、描かれたオトコに没頭してみるのである。

私が最も好きな二人は、若き日のヘミングウェイとフィッツジェラルドだ。
『移動祝祭日』(アーネスト・ヘミングウェイ/著 高見 浩/訳 新潮社)の中で、わちゃわちゃしている二人を見るのが大好きだ。


ヘミングウェイの修業時代が描かれる。

『移動祝祭日』は、晩年のヘミングウェイが、若き日を述懐したエッセイというか、スケッチというか、本人いわく「フィクションとみなしてもらってかまわない」ノンフィクションみたいな本である。

全くの無名だった若き日のヘミングウェイが過ごした、パリでの修業時代が描かれている。

ここで描かれるヘミングウェイはちっともマッチョではない。人生を賭して「男らしく」あろうと強がっていたように思えるヘミングウェイが、平凡な若者に自分を描いているところがいい。

そのヘミングウェイが描くフィッツジェラルドは、どうしようもないダメ男なのである。

初対面でいきなり「きみたち夫婦は、結婚前から寝ていたかい?」。
自分から旅行に誘っておいて、当日、姿を見せない。
雨が降っているのに、幌なしの車でドライブするといってきかない。
あげく、しっかり風邪をひく。
ちょっと熱があるだけで「肺炎かもしれない、死ぬかもしれない」と大騒ぎする。
たった一杯のウイスキーで記憶を無くすほど酔っぱらうのに、なにかにつけてお酒を呑みたがる。
妻のゼルダを女神のように信奉し、なんでも言う事をきく。

・・・なんでこんな男と一緒にいられるんだ、ヘミングウェイ。
なにより不思議なのは、このムチャクチャなフィッツジェラルドを描きながら、その筆に毒が感じられないということだ。
どうしようもないヘタレ野郎なのに『移動祝祭日』の中のフィッツジェラルドは、愛らしいのだ。憎めない可愛さがある。

もしこれが、若い時に書いたフィッツジェラルドのポートレートだったなら、こうはいかなかったのかもしれない。
ものすごく辛辣な言葉が並んでいたのかもしれない。
「成金趣味の、甘ったれクソ野郎」とかなんとか。
ヘミングウェイの作中に登場するマッチョな男たちとは真逆のタイプだし。
釣りと狩りとボクシングを愛したヘミングウェイとは、共通項がなさすぎる。

なのに、二人は一緒にいる。
バディでも、ブラザーでも、フレンドでもない微妙な関係で。

私がヘミングウェイを好きなのは、必死でマッチョを装っている中二病男子のいじらしさを感じるからなのだが。
若き日のヘミングウェイが書いた物には、その必死さがにじみ出ていてたまらなく魅力的なのだ。
強がっている男の姿は、可愛らしい。

年を取るにつれて、ヘミングウェイの描く作品から「強がり」は薄くなっていく。老成した目には、若き日の強情さが青臭く感じられたのかもしれない。

『移動祝祭日』は、最晩年の作品である。
ここで描かれるヘミングウェイは20代の若者だが、その目は60代のものなのだ。
60代の目で振り返る、いきがっている若き日の自分と、ヘタレなフィッツジェラルド。
もしかしたら、ヘミングウェイはフィッツジェラルドを見直したのかもしれない。
フィッツジェラルドは、弱さを恥じることがない。
平然と、なよなよしている。
20代の若者にありがちな「自分を強くみせたい」という衝動がほとんどみられない。

ありのままをさらけ出せるのは、臆病ではないから。
実は、必死にマッチョを装っていたヘミングウェイよりも、弱さをさらけ出しているフィッツジェラルドのほうが、強いのかもしれない。
そして、本当は、ヘミングウェイもそんな強さが欲しかったのかもしれない。

アメリカ文学の巨星である二人の名前を見ると、いろんなことを考える。
なによりも、その後のこと。
妻ゼルダの嫉妬のせいで、作家として死んでしまったフィッツジェラルド。
ノーベル文学賞を受賞しながら、猟銃自殺してしまうヘミングウェイ。
けれど、『移動祝祭日』の中で、無邪気にバカやっている二人を見ていると、微笑ましくなる。
いいなあ、と読むたびに思う。

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。

『移動祝祭日』冒頭

そうなのだ。
その後、二人にどんな運命が待ち受けていようとも、移動祝祭日であるパリでは、強がりアーネスト(ヘミングウェイのファーストネーム)と、ヘタレなスコット(フィッツジェラルドのファーストネーム)は、有名作家になるという野心に燃えて、相棒でも、兄弟でも、友だちでもないのに、二人でワイワイやっているのだ。永遠に。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。