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1-11 古代シリア・レバノンの都市国家(前1550年~前1190年)

  • 前1550年頃:テーベのイアフメス1世が即位し、エジプト第18王朝が始まる。以後、新王国時代とよばれる

  • 前1550年頃:フルリ人の諸国がミタンニ王国(ミッタニ王国)に統一される。ミタンニは、メソポタミア北西部のハブル川流域を中心とした地域を掌握

  • 前1541年頃:イアフメス1世がエジプトを再統一

  • 前1538年頃:イアフメスがヒクソス最後の拠点シャルーヘンを占領し、ヒクソスを完全に滅ぼす

  • 前1525年頃:エジプト王アメンヘテプ1世が即位。イアフメス1世は治世末年に再度アジアに遠征し、フェニキアに海港を確保していた。アメンヘテプはヒクソス王アペピの娘を妃とし、ヒクソスのもっていたシリア・パレスチナの宗主権を継承したとして、アジア侵攻を正当化

  • 前1506年頃:アメンヘテプ1世がアジアに遠征し、領土を拡大

  • 前1502年頃:エジプト王トトメス1世が即位。トトメスはアジア遠征を敢行し、海路でビブロスに到達した後に陸路で北進。不意打ちを受けたミタンニ側からは大した反撃を受けず、これを破る(ミタンニの軍事技術を恐れて実質的な攻撃はしていないとの説も)。エジプト軍は北シリアのユーフラテス河岸にまで進出し、カルケミシュ近郊に境界碑を設置。結果、シリア・パレスチナ全域はエジプトの宗主権下に

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前1500年頃:ハラブ王イリム・イリンマが反乱によって死去。子のイドリミは各地を放浪後、ミタンニ王パラッタルナの後ろ盾でアララハ王となった。しかし、ハラブはミタンニ領に

上図:イドリミ王像

出典:Jononmac46, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1500年頃:ミタンニ王パラッタルナが勢力を拡大させ、アララハやハラブなどを勢力下に。アナトリア南東部のキズワトナを服属させ、カトナを支配

  • 前1500年頃:セム語系のアラム人がカナーン地方に移動。彼らの原郷はシリア砂漠で、牧畜民であったか

  • 前1471年頃:エジプトの女王ハトシェプストが対外遠征を中止。この隙にミタンニ王国はカデシュ侯を盟主とする対エジプト同盟を結成した

  • 前1470年頃:キズワトナ王ピリヤがアララハ王イドリミと条約を結ぶ

  • 前1460年頃:キズワトナ王シュナッシュラがアララハ王ニクメパと国境紛争を抱える

  • 前1460年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ1世が即位。彼はシリアに遠征し、ミタンニ勢力下のハラブを破壊し、ミタンニ領を侵略。その直後にキズワトナを併合した

  • 前1458年頃:エジプト王トトメス3世が単独統治を開始。当時はシリア・パレスチナ北部がミタンニの勢力圏となっていた

  • 前1457年頃トトメス3世の第1回アジア遠征。アジアの植民地化を目指し、ガザを奪取。さらに、カデシュの王子の反乱によって奪取されたメギドを目指し、隘路から進軍。メギドに布陣していた対エジプト同盟軍(シリア・フェニキア・カナーンの330人の君侯の軍からなり、カデシュ侯が指揮)の裏をかき、未明に急襲して撃破。7ヶ月の包囲の末にメギドを降伏させ、カデシュ侯をはじめとする君侯ら全てに忠誠を誓わせる(メギドの戦い)。以降、王は連年、アジアに遠征し、エブラなどの諸都市を征服。カトナにも遠征した

  • 前1455年頃:トトメス3世がアジアに遠征

  • 前1452年頃:トトメス3世の第5回アジア遠征。フェニキア沿岸の海港ウラッザを確保

  • 前1451年頃:トトメス3世の第6回アジア遠征。シミュラ港に上陸し、カデシュを占領。対エジプト同盟は崩壊し、エジプトがほぼシリア全域を掌握。守備隊を駐屯させ、君侯らに貢納・軍役提供の義務を課す。また、君侯の長子は人質としてエジプトに連行され、そこで教育を施されることに

  • 前1447年頃:トトメス3世の第8回アジア遠征。同王の遠征で最大規模。この遠征でトトメスはミタンニと直接対決を行い、ハラブおよびカルケミシュ近郊で勝利。エジプト軍はカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡ったが、ミタンニ軍は決戦を避け、内陸部に退却したので、深追いしなかったという。トトメス3世は祖父トトメス1世の碑に並べて、新たな境界碑を立てた。帰路、エジプト軍はテュニプを攻略し、カデシュを再び占領。カッシート王朝やアッシリア、ヒッタイトの王はエジプトのシリア支配を承認した

  • 前1440年頃:ミタンニ王サウシュタタルが即位。彼はウガリットなどを支配下に置き、北シリア全域・キズワトナにその版図を拡大、ミタンニ王国の最盛期を築く。サウシュタタルはトトメス3世に敗れることもあったが、後にエジプトと和解を成立させる

上図:ミタンニ王国の版図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前1438年頃:トトメス3世の第17回アジア遠征。これが最後のアジア遠征で、王はカデシュを占領し、オロンテス川中流以南のエジプト支配を確立。「北の異国の監督官」という総督職がアジア植民地を統轄、シリア・パレスチナは北からアムル州、ウピ州、カナーン州に分けられた。シリアの都市国家同士の反目は放置され、紛争が大規模化しそうな場合には総督と守備隊が介入している。17回の遠征でトトメスは350を超える都市を征服したという(例えばエブラなど)。また、一連のシリア遠征では将軍ジェフティがヨッパ(現ヤッファ)を攻略したが、その際に兵士を潜ませた籠を相手方の王子の戦利品として町に忍ばせて、城門を開けさせたという

上図:トトメス3世時代のエジプト王国の版図

出典:Andrei Nacu, Jeff Dahl, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1425年頃:エジプト王アメンヘテプ2世が単独統治を開始。シリアの約30の都市国家が共謀して反乱。反乱軍の背後にはミタンニ王国が存在

  • 前1424年頃の4月:アメンヘテプ2世が西アジアの反乱鎮圧に出陣。北パレスチナに進軍し、オロンテス川を渡河。渡河の途中にカトナ軍がエジプト軍に襲いかかるも敗北。都市ニイはトトメス3世時代の経験から、アメンヘテプに恭順

  • 前1424年頃の秋:アメンヘテプ2世がティクシ地域(ハラブ付近)の王子7人を捕虜とし、すべての反乱を鎮圧。エジプトに凱旋する

  • 前1419年頃:アメンヘテプ2世が西アジアに出征。この時にカナーン人が捕虜とされたという

  • 前1417年頃:アメンヘテプ2世が西アジアに再び出征。王はカデシュの南の戦いで反乱軍を破り、叛いた30の都市国家を服属させる

  • 前1400年頃:シリア砂漠からメソポタミア、シリアに向かい、アクラムというセム系の遊牧民集団の定住運動が起こる

  • 前1400年頃:カッシート王カダシュマン・ハルベ1世がシリア砂漠に要塞を建設。半遊牧民撃退のためであった

  • 前1397年頃:エジプト王トトメス4世が即位。彼は在位中にミタンニとの同盟条約を締結。シリア北部はミタンニの、シリア南部とパレスチナはエジプトの支配下に入ることを相互に承認した。しかし、アジア植民地では代替わりの反乱が起きたか。また、トトメスは太陽神アテンの名によってアジアを征服したと称する。シリアを平定した王は「シリアの征服者」と讃えられているが、実際は牽制程度のものであったか

  • 前1380年頃:シリアの都市国家ウガリットが最盛期に突入

  • 前1370年頃:アムル侯アブディ・アシルタが死去。彼はエジプトに属していると装いながら、ヒッタイトと通じ、自らの支配領域拡大を図っている。アメンヘテプ3世の晩年には、ヒッタイトの進出やアジア臣侯の離反が始まっている

  • 前1351年頃:エジプト王アメンヘテプ4世が即位。王の治世中、対外的にはアジアへの親征は行われず、シリアの都市国家間の反目が激化。王の調停さえも行われず、アジア植民地の動揺が広がる。シリア・パレスチナの都市国家の支配者からはエジプト軍の派遣要請があったものの、王は軍を送らず。例えば、ビブロスのリブ・アッディ王はアメンヘテプに周辺国の圧迫や、アムル国(ヒッタイトに服属)・シドンなどの不正行為を訴える手紙を送り、アムル国に対抗するための軍事介入を要請するも無視される。結果、ビブロスではクーデタが発生し、リブ・アッディは追放された。また、この頃、シドンのズィムレッダがアムルのアズィルと手を結び、エジプトに反逆行為を企てていること、更にシドンのティルスに対する蛮行を、ティルスのアビ・ミルクがエジプトに訴えて救済を願う。ズィムレッダはティルス領のウシュ(本土部分)を奪いとり、アルワダ(アラドス)とともにティルスを攻略するための軍隊を集めていたという。このように、エジプトに従属していたカナーンの君侯らは独立を企てて、政情不安が続く。また、ミタンニとの同盟政策も破綻

  • 前1350年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世が即位。彼はシリアに遠征するも、ニブラニ山での戦いで、ミタンニ王トゥシュラッタに敗北。一方でウガリット王ニクマドゥ2世は当初エジプトに従っていたが、シュピルリウマ1世と宗主権条約を結んだ。アムルとミタンニ、その属国からの圧力に対抗するためであった

  • 前1340年頃:シリア、ヌビア、エーゲ諸島などの使節団の貢租献上の儀式がエジプトにて挙行される

  • 前1334年頃:エジプト王アクエンアテン(アメンヘテプ4世)が死去。王の晩年には、シュッピルリウマがシリアへの進出を強め、エジプトのアジア植民地最北のアムル州のほとんどはカデシュ侯アイタカマとアムル侯アジルの活動でほとんどヒッタイトの勢力圏に。ウピ州では都市国家間の争いが激化。

  • 前1333年頃:エジプト王ツタンカーテン(トゥトゥアンクアテン)が即位。将軍ホルエムヘブは王の即位後まもなく、アジアに進軍し、カナーン州及びウピ州の秩序を回復

  • 前1323年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がシリアに侵攻(「一年戦役」)。まずは、ミタンニの属国イシュワを下し、ミタンニの首都ワシュカンニを包囲。ミタンニ王トゥシュラッタが籠城したため、シュッピルリウマは北西シリアに進撃。ミタンニの属国であるウガリットやムキシュ(オロンテス河畔のアララハを中心とする国)を攻略した。加えて、オロンテス川流域のカトナを滅ぼし、エマル王国(かつてフルリ人がエマルの城壁を包囲したこともあったという)を属国とする。更にアムカの都市カデシュをも破り、ダマスクス周辺にまで到達した。この遠征の中でアララハも占領されている。また、ハラブの占領にも成功し、息子のテリピヌに統治させた。北部シリアの王らはハットゥシャに捕囚される。この後、シュッピルリウマ自身はテリピヌに後を託して本国に戻る。一方で、将軍のルパッキにはカデシュを奪還しにきたエジプトを撃退させている

上図:シュッピルリウマ1世の遠征図

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1323年頃:ミタンニがエジプトと結び、反撃を開始。エジプトはカデシュを奪還したが、ミタンニでは王家の内紛で王トゥシュラッタが息子によって殺害された。シュッピルリウマはヒッタイトに亡命していたミタンニの王子キリ・テシュプ(王を暗殺した者とは別人)の支援要請で内紛に介入。ヒッタイトの支援を得たキリ・テシュプはワシュカンニを奪還し、ミタンニ王シャッティワザとして即位する。ヒッタイトは彼と条約を結んだ上でミタンニを属国化。自身の娘を嫁がせ、ミタンニ領を半減させる。更にカルケミシュを包囲。その攻略戦をテリピヌに委ねるも、フルリ人の反撃によってシュピルリウマ自らが再び指揮をとり、これを攻略。この後、彼は息子のシャッリ・クシュフをカルケミシュの副王とする。テリピヌ、シャッリ・クシュフはシリアの国々を統治する役職に任命され、属国の王らとは同盟を結成する

  • 前1322年頃:シュッピルリウマ1世が、息子を殺害された(エジプトの将軍ホルエムヘブが殺害か)報復として、エジプト領アムカへの侵攻を開始。このときにカデシュを占領したか。しかし、エジプトの捕虜を通してヒッタイトに疫病が広がり、シュッピルリウマ1世がその疫病で死去。以後も疫病がヒッタイトで猛威を振るう

  • 前1322年頃:ヒッタイト王ムルシリ2世が即位。この時、カシュカ族やシリアの属国が反旗を翻す

  • 前1316年頃:ムルシリ2世がシリア方面に遠征し、エジプトと戦う

  • 前1314年頃:カルケミシュの副王シャッリ・クシュフらが、エジプト軍の援助を受けたヌハッシェとカデシュの反乱鎮圧を開始。ムルシリ2世もシリアでエジプトと戦った

上図:ムルシリ2世の遠征

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1313年頃:テリピヌ及びシャッリ・クシュフが死去。ヌハッシェとカデシュの反乱は激化し、アッシリアがカルケミシュ王国に侵入、これを占領。また、東方のアッジ国、ハヤサ国も「上の国」に侵入。ムルシリ2世はこれらの攻撃を耐え抜き、アッシリアをカルケミシュから撃退。東方のアッジ国、ハヤサ国も破った

  • 前1300年頃:ヨルダン川東岸にエドムやモアブなどの王国が成立

  • 前1294年頃:エジプト王セティ1世が即位。彼はアジアに数回遠征し、北シリア(かつてのアムル州)の回復を図る。フェニキアの港湾諸都市に攻め込み、ヒッタイト王ムワタリ2世と戦い、オロンテス河畔のカデシュでの戦いに勝利。カデシュとアムルとも戦い、両者を一時的に奪還。しかし、アムル州の回復は一時的なものであったようで、両都市はじきにヒッタイトの支配下に戻ったか

  • 前1279年頃:エジプト王ラメセス2世が即位。ラメセスは最初の年に地中海東岸に進軍。アムル王ベンテシナはヒッタイトからエジプトに鞍替えした。一方でカデシュはヒッタイトの統治下になっている。また、ラメセスはトランスヨルダンのモアブやエドムなどの諸王国と戦う

  • 前1276年頃:レヴァント地方で反乱が発生し、ラメセス2世がアジアに出兵。エジプト軍はアムル州を再び支配下とし、撤退

  • 前1275年頃の5月初頭:ヒッタイト王ムワタリ2世が、エジプトのラメセス2世とオロンテス河畔のカデシュで激突(カデシュの戦い)。偽の情報に釣られたラメセス2世はヒッタイト軍の奇襲を受けるも、アムルからの援軍によって助けられる。ラメセスはカデシュを包囲したが失敗し、撤退。ヒッタイトは退却するエジプト軍をエジプト領のアバまで追撃し、これを破る。結果、アムル王国はヒッタイトの宗主権下に戻る。ベンテシナは退位させられたか。この戦いにて、ラメセスは自身の息子や多くの側近を失ったが、両国の勢力圏は変化せず。しかし、ヒッタイトはカデシュを実質的に管理下に置いている

上図:ヒッタイトとエジプトの版図

出典:Dbachmann, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1273年頃:ラメセス2世によるシリア遠征

  • 前1272年頃:ヒッタイト王ムルシリ3世が即位。彼は、ベンテシナをアムル王に復帰させる

  • 前1272年頃:ラメセス2世によるシリア遠征。海岸沿いにウラッザ近くまで進軍

  • 前1270年頃:ラメセス2世によるシリア遠征

  • 前1264年頃:ムルシリ3世が叔父のハットゥシリと激突。結果、ハットゥシリが勝利し、ヒッタイト王となる(ハットゥシリ3世)。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られる。ハットゥシリはアムル、カッシートと条約を結び、アムル、イシュワ、カッシートと政略結婚を行う

  • 前1263年頃:エジプトにいたヘブライ人が、モーセに率いられてエジプトを脱出(出エジプト

  • 前1258年頃ハットゥシリ3世がエジプトと平和条約を締結。オロンテス川が両国の国境線となり、領土不可侵、相互軍事援助などが決められる

  • 前1250年頃:伝説では、モプソス(クレタ人を祖とする)がエーゲ海域、トルコの南岸・西岸、地中海東岸(カナーン)の集団を統合。この集団にはペリシテ人やチェケル人(トロイア人)もいたか

  • 前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる。「海の民」にはシェルデン(後のサルデーニャ人)、エクウェシュ(アヒヤワ人)、トゥルシア人(後のエトルリア人)、ルッカ(リュキア人)、テレシュ(リュディア人)、ペレセト(ペリシテ人)、チェケル(トロイア人)、シェケレシュ(後のシチリア人)、デネン(キリキア人)、ウェシェシュ(出身地不明)らが加わっていた。「海の民」の大移動の原因は大津波との説もあり、ウガリットの大地震が発端とも

  • 前1245年頃:アッシリアがハニガルバト(ミタンニ王国の後継国家)を完全に併合。ミタンニは消滅

上図:前13世紀のオリエント情勢

出典:Original: Sémhur; obra derivada: Zunkir; topónimos en español: Dodecaedro., CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1240年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ4世が即位。アッシリアの勢力拡大に対し、アヒヤワの船がアッシリアと交易しないよう、アムル王サウスガムワに圧力をかけ、ウガリットとアムルにはアッシリアへの経済封鎖を命ずるも、ニフリヤの戦いでアッシリアに敗北。以後、ヒッタイトの属国ウガリットは独自の動きを取るように。一方で、トゥトハリヤはアラシヤに対し、ウガリットとアムルの海軍力を得て海上遠征を挑み、アラシヤを征服。一時的にアラシヤに親ヒッタイト政権を樹立した。なお、この頃にはアヒヤワの艦隊がシリア海岸に出没するように

  • 前1230年頃:モーセの後継者ヨシュアがイスラエルの軍団を率いて、アマレク人を打ち破ったという。この後、ヨシュアに率いられたイスラエル人は、ヨルダン川西に入り、カナーンの中部、南部、そして北部を順番に奇襲攻略。ギベオン付近の町々を除いて、征服を完了する(山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服)。ヨシュアはイェリコ(イェリコは「契約の箱」を担いだ祭司が城壁を7周したことで、城壁が崩壊し、町は陥落したと伝わる)とアイを滅ぼし、ユダの山地や低地の都市の王たちからなる連合軍を撃破。北方のハツォルで最後の戦闘を行い、ハツォルのヤビン王を殺害、ハツォルの町は炎上した(他にもアヤロンの西寄りの谷での戦闘が伝わっている)。考古学的には、ヨセフ族(エフライム族とメナシェ族)を中心とする北方諸部族とユダ族を中心とする南方諸部族が別々にカナーンに侵入したという

  • 前1230年頃:「海の民」(特にペリシテ人)がカナーン地方にて侵入と破壊を行う

  • 前1207年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ2世が即位。彼はカルケミシュ副王タルミ・テシュプとほぼ同格の立場で条約を結んでおり、カルケミシュ副王国は、この時期ほとんど独立していたと考えられている

  • 前1200年頃「海の民」が東地中海全域を混乱させ、多くの都市国家を滅ぼし、アララハ王国やアラシヤ、アルザワも滅ぼした(前1200年のカタストロフ)。エマルも破壊されている。中でもウガリットはヒッタイトのルッカ遠征に援軍を送った影響で手薄となったところを襲撃され、崩壊

  • 前1200年頃:シリア砂漠からアラム人が移動を開始し、東シリアを攻略

  • 前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡

  • 前1190年頃:「海の民」の一派ペリシテ人がエーゲ海(クレタ島かキプロス島か)からカナーンに侵入

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