いつかの日記(6) (雨、空豆、須賀敦子『ユルスナールの靴』)

一言二言日記つづき。

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雨の時は雨の音がする部屋に住んでいる。ごく当たり前のことだと思っていたが、最近の鉄筋コンクリートのマンションだとほとんど聞こえないということもあるらしい。そうなんだ。今住んでいる部屋は雨音も風音もよく聞こえる、その前の部屋もそうだった、実家は屋根裏がなく窓が多い構造上、音の大きさもかなりのもので、大雨の日は家族の会話は無理なのであきらめてそれぞれ過ごしていた。

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空豆、何回買っても「…身、少な!!」ってなるな。あるいは「身のわりに残された“さや“、かさばるね!!」ってなる。おいしくなかったら買わないのに…。

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ポストに溜まっていたチラシをゴミ箱に捨てる。ピザ屋のクーポン、エステサロンのクーポン、近隣の美容院や家事代行サービス、水道業者のチラシ、しかるべき金額を払えば受けられたらしいサービスの束でゴミ箱がいっぱいになる。以前、マンションのエレベーター内に水道業者のマグネット型チラシが10枚くらいきちっと並べて貼られていたことがあって、誰かが貼っているところを想像したら楽しかった。暮らしの大半は溜めたものの処理であり、二度と思い出さない思い出。

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須賀敦子『ユルスナールの靴』は、何重もの意味での旅の記録だ。著者が敬愛する作家マルグリッド・ユルスナールの、人生における数多の旅。ユルスナールの軌跡を辿る、著者自身の歩行と思索の旅。その旅中で紐解かれる彼女の思い出一つひとつにも、留学や観光、移住を伴う旅がある。いずれの旅も、“きっちり足に合った靴“を夢見ながら、そうではないと思われる靴で歩き続ける痛みと苛立ち、ある種の開き直りを引き連れてゆくもの。ささやかな迷いと決断の連続による人生のさざなみを渡っていくエッセイ。

女学校時代の友人“ようちゃん“との思い出が描かれる章、『一九二九年』が好きだった。あこがれを含んだ友情は、かけがえなく楽しく、それでいてほんの小さな棘が胸につかえるような不安を伴う。隠された世界の鍵を知っているかに見えるその人のまぶしさに惚れぼれすることと、知っていること以外何も知らず、つるんと幼く見える自分にがっかりすることとのシーソーを忙しく上がり下がりする庭で、私たちは大人になっていくと思う。

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つづく。

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