早稲田大学詩人会

1960年創立の早稲田大学公認文芸サークル早稲田大学「詩人会」です。会誌刊行、文学フリ…

早稲田大学詩人会

1960年創立の早稲田大学公認文芸サークル早稲田大学「詩人会」です。会誌刊行、文学フリマへの出店、合評会・読書会・座談会などをしています。年中入会受け付けています。お問い合わせはTwitterのDM・メールなどからどうぞ。shijinkai1960@gmail.com

最近の記事

左川ちか『昆虫』『錆びたナイフ』『海の捨子』座談会議事録

今回は、北園克衛や春山行夫らとともにモダニズム運動を担った左川ちかから、三篇取り上げた。中原中也らととも同世代である彼女は、夭折の天才と評されることもある。 本文中に出てくる『海の捨子』『海の天使』『海の捨児』の関係について、あらかじめ補足する。『海の捨子』は、伊藤整によって書かれた詩『海の捨児』の本歌取りのようなものといわれている。また『海の天使』は『海の捨子』を改行したものである。 また、最近左川ちかの英訳詩集(左川ちか(2023)『左川ちか選詩集:対訳』菊池利奈 編,

    • ハーラ・アルヤーン『帰化した』大木潤子『その眼の光から』座談会議事録

      『帰化した』ハーラ・アルヤーン/佐藤まな訳 ハーラ・アルヤーンは、イリノイ州出身のパレスチナ系詩人であり、「帰化した」もパレスチナ問題を訴える詩の1つである。 話はまず、日本語として文体が奇妙というところから始まった。訳詩であるため、それが元の詩から来るものなのか、訳されたがゆえに生じたものなのかが分からない。 この詩は現代詩手帖から引用したものであるが、現代詩手帖にはぜひ、原文載せてほしいところだ。 さて、この詩は、何も知らないまま読んでも民族かなにかの話だとわかる。 コ

      • 第1回朗読会

        先日、Discordにて、第1回目の朗読会が行われた。 なぜ詩を朗読するのだろうか。詩は、文字で書かれるものである。詩は、文字なしではありえないが、朗読なしではありえる。このことを鑑みれば、詩が詩であることにおいて、朗読は必要条件ではない。しかし言葉の本来の姿は、声ではなかったか。文字を持たない社会は存在するが、音声を持たない社会は存在しないだろう。言葉と声の間には、密接な関係があるはずだ。文字とは違い、すぐにたち消えてしまう声。詩に音声という姿を与えることで、そこに詩の新た

        • 久谷雉『泡かもしれない』『ちいさなことば』座談会議事録

          (もう五月も終わりかけているそうなのだが、そんなことは気にせず)2月18日に見学者2名を含む7人で行った、久谷雉の詩「泡かもしれない」「ちいさなことば」についての座談会の模様を報告する。  この二つの詩を取り上げることを提案したのは私なので、まずはそのいきさつから話を始めよう。  今回取り上げた二つの詩は、どちらも詩集『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』(思潮社、2007)に収録されているが、私がこの詩集を初めて読んだのは去年の十二月頃だった。その頃私は重度

        左川ちか『昆虫』『錆びたナイフ』『海の捨子』座談会議事録

          合評会議事録(二〇二三年四月二十二日)

           4月22日に行われた合評会の議事録である。新年度が始まって間もない会であったため、見学、お試しの方もいらっしゃった。参加者は9人、出された詩は7篇だった。予定では3時間だったのが延長し、30分の休憩を挟みながら、合計4時間にわたり会は催された。  この議事録では、7篇のうちの1篇、『中庸の鋼』について交わされた言葉を記していく。 (感想・意見) ・Ⅰの4連目が好き ・茨木のり子のような、パブリックな場で発言するような詩 ・「鍛え途中の玉鋼は/炉と水を行き来する」を入れたの

          合評会議事録(二〇二三年四月二十二日)

          合評会議事録(二〇二三年四月七日)

          2023年4月7日に部室にて合評会が行われた。新入部員や見学者合わせて6人の初参加者を交え、10人で詩について議論した。 今回は5人が詩を提出したが、ここにすべての議論を記すことは難しいため、特に勿忘夏夜さんの『修飾』を取り上げる。 以下『修飾』の全文である。 さて、この詩について様々な意見が出された。 ① 朗読 合評会では最初に作者が朗読するという形式を取っているのだが、この朗読のトーンが良いという意見が出た。文字だけでは伝わらない多くの情報が作者の朗読によって伝

          合評会議事録(二〇二三年四月七日)

          合評会議事録(二〇二三年二月二十三日)

           今回の参加人数は7名。一人ずつ自作を朗読し、他のメンバーが感想やちょっとした批評を投げる。それを受けて作者が解題(作品に込めた意図などを解説すること)を言う、というのが一連の流れである。今回も、各々がアイデアや日常の出来事を詩にしたものが見れると思っていた。しかし、一つ問題作が載っていた。栫伸太郎さんの「空洞」である。 「なれな かっ た のは とても 可哀想ね 価値中立的 中級コーラに 教えてもらえば よかったのに、鰯 その炭酸。は海老達 …」  どこを切り取っても難

          合評会議事録(二〇二三年二月二十三日)

          合評会議事録(二〇二三年一月二〇日)

           一月二十日に部室にて合評会が行われた。今回は六人が参加し、一人一篇ずつ詩を持ち寄って朗読、批評、議論を行った。ここでは、提出された詩の中から赤澤玉奈さんの詩「潜水」についての議論を報告する。以下に全文を引用する。 潜水 二人組をつくってください 体を包み込みながら揺蕩うものと温度を合わせても同じになることはないのだと 委ねることで耳を塞いだ 指先が白く腐食して 水を吸ったところから透明度が上がって (だから君には見えないんですよね) 皮膚がほどける ナンバリングされた四

          合評会議事録(二〇二三年一月二〇日)

          谷川俊太郎『渇き』座談会議事録

          座談会の翌日(1月30日)に、早稲田大学小野記念講堂にて谷川俊太郎のシンポジウムが開かれる(というか開かれた)。そして座談会では谷川俊太郎「渇き」を読んだ。なんたる偶然であろうか。少なくとも私は、この巡り合わせに感謝しつつこの座談会の議事録をまとめている。 会では、詩を読む前に各々が好きな谷川作品を言い合った。詩集「クレーの天使」(講談社)や「トロムソコラージュ」(新潮文庫)が好きという人もいれば、合唱曲から知ったという人もおり、いかに氏の作品が拡散されているかを実感する。

          谷川俊太郎『渇き』座談会議事録

          合評会議事録(二〇二二年十二月十七日)

           この回は6人が参加し、3時間にわたって8作品を読み議論をした。ここではそのひとつ、栫伸太郎さんの『かんせい/ふゆのおわりに』に関する議論を記録する。  『かんせい/ふゆのおわりに』は全文が平仮名で書かれていた。私(白木)は作者の朗読を聞いて童謡に似た柔らかさを感じ、また、地面に寝転がって灰色の空を見上げているイメージを持った。これは紙面上にあるのが平仮名のみだったが故に、普段漢字が入り混じる紙面と比べて余白の白が目立った影響ではないかと考えた。そして、ときどき使われている

          合評会議事録(二〇二二年十二月十七日)

          伊良子清白『漂泊』座談会議事録

           12月20日、部室にて座談会が行われた。テーマは伊良子清白の『孔雀船』より「漂泊」、4人の部員で1時間半に渡って詩について語り合った。  そもそも伊良子清白とはどういった詩人だったのだろうか。伊良子清白は1877年に鳥取に生まれ、医者をする傍ら詩作を続けた詩人である。生来の漂泊癖により、どこにいたのかわからない時期もあるほどだという。時代としては萩原朔太郎より10歳ほど年上であり、「漂泊」が発表されたのは夏目漱石『坊ちゃん』と同じ年である。こう書くとなんとなく伊良子清白が

          伊良子清白『漂泊』座談会議事録

          最果タヒ『14才の化学進化説』座談会議事録

          11月26日(土)、他大学からの見学者3名、早稲田大学からの見学者1名を交えた計6名で最果タヒ『空が分裂する』より「14才の化学進化説」の座談会が行われた。4名もの見学者の方に参加していただいて嬉しい限りである。詩人会は常に他大学・早稲田大学を問わず部員・見学者を受け付けています。 思うに最果タヒとは不思議な詩人である。いわゆる「エモさ」——ナイーブな感受性とその表現——を第一のイメージとして持ちながら、その正体に迫ろうとすると、するりと私たちの手からすり抜けていくような感

          最果タヒ『14才の化学進化説』座談会議事録

          合評会議事録(二〇二二年十一月二十四日)

          十一月二十四日に部室にて合評会が行われた。七人が参加、うち六人が自作の詩を持ち寄り、約二時間半にわたって批評・議論をした。 ここにすべてを記すことは難しいため、参加者である手塚桃伊さんの詩『位相Ⅰ』『位相Ⅱ』について交わされた議論を特に取り上げる。 ちなみに、このサークルにおける合評会の流れは、まず作者が詩を音読、次に五分間の黙読ののち、お互いに意見・感想を述べ議論し、最後に作者自身が解題を行うというものだ。 私(桃ヶ山)はこの詩を読んで以下の感想を述べた。まず真っ先に

          合評会議事録(二〇二二年十一月二十四日)

          合評会議事録(二〇二二年十月二十七日)

          十月二十七日に部室にて合評会が行われた。六人が各々自作の詩を持ち寄り、約三時間にわたって批評・議論をした。 ここにすべてを記すことは難しいため、参加者である見沼夜来さんの詩『はじまりのうた』について交わされた議論を特に取り上げる。 ちなみに、このサークルにおける合評会の流れは、まず作者が詩を音読、次に五分間の黙読ののち、お互いに意見・感想を述べ議論し、最後に作者自身が解題を行うというものだ。 私(桃ヶ山)はこの詩を読んで以下の感想を述べた。まず、この詩の中で「わたし」が平

          合評会議事録(二〇二二年十月二十七日)

          高村光太郎『花下仙人に遇ふ』座談会議事録

           十月二十二日に行われた座談会では、高村光太郎『花下仙人に遇ふ』について話し合った。見学者二名を迎え、短い詩ながらも思い思いの解釈が広がる座談会となった。  『花下仙人に遇ふ』は昭和二年四月九日に高村光太郎によって書かれた一編の詩である。世界恐慌の只中にあり、社会には不安定な動揺があった。そのような社会背景の中で書かれた『花下仙人に遇ふ』には、切実な哀訴と信念を貫こうとする覚悟が表れている。  以下に『花下仙人に遇ふ』の全文を掲載する。 花下仙人に遇ふ 花のらんまんと

          高村光太郎『花下仙人に遇ふ』座談会議事録

          『黄河が来た』座談会 各部員のコメント(3)

          多少無理があるかもしれませんが、私は「黄河」を「思春期の衝動」と解釈してこの詩を読みました。「天井」や「床下」といった日常的な空間全てを輝かせ、「手のひら」でも受け止めきれないような「黄河」。そういった衝動を覚えたとき、「寝転ぶしかない」し、「どうしたら良いものか」となってしまうように思います。ただこの類の衝動は、強い力を持っているようでいて実は儚いものです。黄という色は、(個人的に)儚さを想起させます。衝動の強さと儚さの狭間で「黄色い土と砂を噛むしかない」のではないでしょう

          『黄河が来た』座談会 各部員のコメント(3)