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早稲田卒ニート168日目〜先従虚学始〜

G:すごい豪邸…。こんな家に生まれた子どもは運がいいね。不平等だな。
H:生まれた家とか国とか,個人が選べないもので差があるのは,不平等だとしても変えられないよ。与えられた環境の中で頑張ることが大事だよね。この家の子どもだって,社会で成功できるかどうかは本人次第だと思う。
G:いや,その子どもも,家が裕福なおかげでいい教育を受けて,将来お金を稼げるようになったりするでしょ。運の違いが生む格差は,社会が埋め合わせるべきだよ。

(「2023年度大学入学共通テスト倫理第4問」より)

いわゆる「親ガチャ」という言葉を連想させる問題として話題になった箇所である。「親ガチャ」の「ガチャ」という言葉に表れている通り、私たちの人生はその誕生から既に、何が出るかわからない「偶然性」によって背景づけられているということである。

「家が裕福なおかげでいい教育を受けて,将来お金を稼げるようになったりするでしょ」とあるが、この発言には、「教育は将来の金稼ぎに繋がる」という考えが見られる。いい学校へ行きいい会社へ入ってたくさんの金を稼ぐ。いい教育はそれを可能にするというわけだ。こうなると、学生が勉強する動機そのものさえ、経済に回収されることになるだろう。すると、金を稼ぐのに役立つことを教えることが優先され、経済的実社会に貢献しそうにないことは教育から疎外されていくようになるのが自然だ。混迷の時代にあって「いい教育とは何か」という議論も哲学もないまま、金を稼ぐという価値をポラリスとしたスキルの伝達に、教育は堕落するのである。

どうやら今、高等学校の現場から「倫理」が縮小され、その生命の存続すら危ぶまれている状況らしい。もはや「公共」は、事実上「政経」に一本化され、これからはソクラテスもプラトンも、デカルトもヘーゲルもハイデガーも……どんな偉大な哲学者たちも学ばれることなく素通りされていくことにもなりかねない。教育もいよいよ、相当なまでに危機的な状況に追いやられていると言える。

倫理や小説や古典が軽視されて顧みられない教育に何らの切迫した危機も感じず、それらを「役に立たない」と一刀両断できるだけの鈍感な合理主義は、その後の社会にいかなる人間疎外をもたらすか。実学一辺倒の社会にある今こそ高らかに叫びたい。勉強は虚学より始めよ。学問は、ただ真理の探究のためにあったのではない。人間が人間として「善く生きる」ための切実な営みとしてあったはずであるに違いない。

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