見出し画像

早稲田卒ニート40日目〜教育はartである〜

ゴールデンウィークの今は、大抵の塾も閉校になっている。塾講師と言えど会社員である以上、年間休日数調整やら有休消化やらの期間が必要だ。しかしそんな制度の問題などを気にせぬ講師からすれば、年末年始の閉校もそうだが、そういう下手に長い休みは邪魔である。とはいっても働きたいのではない。そうではなく、別に家にいたって仕方が無いから校舎に出た方が健康にいいのである。特に授業の無い日は、精神的なストレス軽く出勤ができる。

授業をするのに何のストレスも無い先生なんているのだろうか。少なくとも私は、授業が楽しく充実していたことはたったの一度も無いし、「今日はいい授業をした」などとは一回も思えたことが無い。これはそもそも僅か2年間で授業がマトモにできる様になるはずがないのであるが、私が教育に限っては神経質なせいもある。そして、その「神経質」を妙に言い当ててくれる文章と出会った。

神奈川県の横浜翠嵐高校入試。出典は中井正一「美学入門」である。

今はここに収められている。

昔、ある能の名人が、将軍の前で、能をすることになり、控えの部屋で待っていた。いよいよ将軍の前に出ることになり、呼び出しが来たのである。ところが、その芸術家は、「少し待っていただきたい。今日はこころいっぱい表してみたい松風の音の気分が、自分の中に湧いて来ないのです。」と言うのである。

もし、授業開始時刻になっても、「ちょっと待ってくれ。表現したいことの気分が湧いて来ないんだ」などと言われ、教師がいつまでも教室に来なかったら学生はどう思うだろうか。この能の名人は、そんなことを致し、結局将軍の機嫌を大きく損ねたのである。

しかしこれは単なる「やらかし」でも「怠慢」でも「自分勝手」でもない。芸術には、充実した自己が必要だということであるが、その自己が未だ見つからずにいる。出番に遅刻したということよりも、この時この名人は、真の自己を「探し求めている」ということに意味がある。これは、自己に対する極めて切実な探求である。

この探し求めることの自由、そして探しえたときの「ああこれだ。」と言える満ち足りたこころ、これがみんな、芸術家の持つ、自由へのもがきから生まれるのである。本当の自分に巡り合ったという自由への闘いなのである。

あの能の名人は決して自分勝手でもマイペースなのでもなく、「自由へのもがき」と格闘していたのである。これは、芸術家にとって均しく必要な格闘である。芸術家は、上手に演奏しようとか、達筆に書こうとか、奇抜な色で描こうとか、そんな技巧的個性的作品を生み出すためにやっているのではない。「本当の自分」に巡り会うためにもがいているのである。その「もがき」が、表現というexpressionに不可欠なimpressionである。あの能の名人には、「松風の音の気分」というimpression無しに表現は成し得ない。芸術は、道具と舞台とがあれば始められるような、そんなおママゴトではない。

この境地を、芸術の美しさを求める苦しみと言うのである。人々は、その芸を見、聞いて、その芸術家を打ったものが自分に伝わり、また、芸に打たれるのである。

この「芸に打たれる」というのが即ち「感動」のことであろう。授業を受けて感動することは皆無に等しいかも知れないが、しかし、聴衆を感動させる授業をする数少ない教師はみな、「美しさを求める苦しみ」との格闘の中にいるのである。そうでなければ、感動を生む授業などできるはずもない。芸術家を打ったものに打たれる。それは芸術家のexpressionからimpressionを受けるということだ。これはまるで、教師の吐いた息を吸う、授業におけるあの「呼吸」の関係の様である。

尤も、感動は涙を流すことと同義ではなく、そして、心が動くことを広義の感動と意味付けるならば、かかる授業をするためには教師自身が「自由へのもがき」を続けていなければならないのである。この時、もがきとは「混沌」であり、自由とはそこから立ち上がってくる「秩序」のことを指すだろう。その過程として「格闘」がある。であればやはり、教師の人生は苦渋に満ちていなければならない。

だから、能の芸術家にせよ、だれにせよ、まず自分の肉体、神経と闘っている。そしていつも、あのこころもちになってしまえば、あとは、あの自分にまかせて演奏すればよいのだという自分を、自分の中に持っているのである。しかし、その自分は、いつでも、人々の前に「カバン」から出すように、容易に見付かりはしない。時には、自分を自分の中に捕えようもなく、見失ってしまうこともあるのである。

私が最もよく出来たと思える授業は、教師として働く以前、母校での教育実習である。本来、何の経験も無いヒヨッコである実習生が巧みな授業などできようはずもない。確かに話術なら、教師になった後の方が磨かれていた。しかし、そういったスキルの問題ではないのである。その教育実習は、私が死に臨んだ僅か凡そ2ヶ月後の事だ。あの時まさしく私は「自分を自分の中に捕えようもなく、見失ってしま」っていたのである。その背景が重要だ。

この時のメンタリティが授業には必要不可欠である。これ無しに行われる授業は、どんな授業も空虚である。が、そのメンタリティを持った自分がどこにもいない。どこを探しても見つからない。最早いなくなってしまったような気さえする。これが教師生活に於ける最大の悩みであった。恰も「松風の音の気分が、自分の中に湧いて来な」かったあの能の名人の如く、私にとっての「あのこころもちになって」いる「あの自分」が、どこにも見付からないのである。その自分をなぜ見失ってしまったのかここでは敢えて書かぬが、自分でわかっている。教師になった初日、その瞬間に全て砕かれたのである。これだけでも、会社に対する恨みが消えることは恐らく一生無い。教師として生きるために最も重大なもの、即ち「あの自分」を私から奪ったのである。これは教育実習の時とはちょっと訳の違った自己の見失いである。自己を見失った自己を見失うこと、これは決して私にとっての幸福を意味はしない。

練習に練習を重ねることでのみ、初めて宇宙の中に、本当の自分に巡り合うことができるのである。多くの人々は一度も本当の自分に巡り合わずに死んでいっているのである。芸術家だけは、それも、本当の、いい加減でない真の芸術家だけが、どんなに貧乏しても、本当の自分に巡り合って死んでいっているとも言えるのである。

なぜ「多くの人々は一度も本当の自分に巡り合わず死んで」いくのか。それは、多くの人が、自己との壮絶な格闘を果たさないからであろう。みな、私の「個性」とは何かという問いの中で自己を作ろうとはするだろうが、そこに格闘が無いのである。せいぜいやっているのは、自分を可愛がり慈しむ様な、そんな自己との「遊戯」でしかない。そういう幼稚な精神性の人間は、「俺はこういう人間だ」とか、「自分は自分だ」と安易な自己肯定に陥る。が、それは自己との格闘を放棄する宣言をしているのと同じだ。「自分らしく」や「私なりに」など、それが格闘の末に掴み取られた自己であるなるばよい。が、恐らく多くの人は自己とのお遊びしかしていない。それゆえ、「本当の自分」などに遭遇できようはずもない。特に学生諸君、君が「自分」などというものを持っているならば、そんなものは今すぐ捨て去ってしまえ。持っているだけお荷物になる。それは、自己形成のお荷物である。人間は甲殻類の様なもので、自分を持つことはその殻に閉じこもることでもある。自己に自閉し、他者に自己を開くことのできぬ者は、「他者の受容」という自己形成にとって決定的に重要な契機を取りこぼすことになる。自分は既にある程度の自己が出来ていると思うのが大きな間違いなのだ。たかだか10数年生きた程度の小僧が、そんな勘違いをしてもらっては困る。無論、20代の私にとってもその事情は変わりなく、未だ自己形成の途上にある。

青年らが真の自己と出会えぬままに虚しく死んでいくのか、どうせ死ぬなら真の自己を発見してから死ぬのか。それは、教師に課せられた使命の一つである。青年らに人生に対する自覚を促すこと、それを自らの仕事と信ずる教師が増えないことには、いつまでたっても現代の虚しい教育は何の変貌も遂げやしない。

中井正一。
国立国会図書館初代副館長。
(国立国会図書館ホームページ拠り)



「自分を救済するために教師になった」と数名の学生には告げたことがあった。そして私が教師を辞める時、「教師になって救済されたと思いますか?」と質問された。確か、ハッキリとはわからないとか何とか、そんな曖昧な回答をした様な気がする。

今なら、あの時の私は自分にとっての「救済」の意味を誤解していたのかも知れなかったことをこの文章から教わった様に思う。私がやっていたのは、もがきに対する格闘ではなく、もがきとの戯れに過ぎなかったのだ。自分を救済するための格闘が足りなかったのである。

救済は癒しではない。癒しとは所詮、一瞬の忘却のことだ。人間には、ひとときの忘却では救われ得ぬ記憶や、忘却などするわけには行かぬ出来事というものがある。甘ったれた自己遊戯を乗り越えて、本来的に自己を救済するために求められるのは、自己との絶え間なき格闘を措いて他に無いのである。



artが直ちに「芸術」と訳されるのは、いにしえからの伝統ではなく、日本では明治期からである。artはラテン語のarsに起源を持ち、そのarsはギリシア語のtechnēに繋がっている。technēは今の techniqueであるから、artはtechniqueと近親性を持つことになる。それゆえartは元来、「技術」の意がまず初めにあった。従って、artの対義語にはnatureが来ることになる。同じ様に今なお、natural(自然な)の反対に、artificial(わざとらしい)が名残を留めている。

私ども人間は自然の一部である。生命体としての合理的なメカニズムのもとで誕生から死滅へ向かい、誰に言われなくとも自ずから然る。しかし、成り行きに任せていては獲得し得ないものがあり、それは他者からわざと与えてやらねばならない。この「わざと」が、「技」を意味するartに当たる。

教育とはartである。教育は、放っておいたら廃れてしまいかねない人間の力を拡張していく営みである。例えば精神、知性、人生観などの様に。「子供の持つ可能性を開く」といった様な、どこにでもありふれた文言も、この価値観に由来するだろう。尤も、当の本人らにこのartとしての教育観は無いだろうが。どうあれ、教育がart、即ち「わざわざ」してあげることである以上、教育は本来的にお節介みたいなものだ。しかしそれは、高級なお節介である。

そしてまた、教育がartであるならば、教師とはartistである。教師として生きることを決意するならば、それは芸術家として「自由へのもがき」を抱えつつそれとの常なる格闘を引き受けて生きることを覚悟せねばならない。



arsには「学問」の意味もあった。ここ何年かよく耳にする「リベラル・アーツ」なるものは「教養課程」などと訳されるが、つまるところ「自由な学問」とか、そんな様な意味である。私はここで「学ぶことは自由になること」という考え方に、新たなリンクが一つ貼られた様な思いがする。本来、学ぶことはリベラルな営みなのである。

自由へのもがきから手当たり次第に文章を読み、時折私は、私のもがきに意味を与えてくれる文章と出会う。この文章がそうである。教師として2年間、もがきか戯れかわからぬが確かに悩んでいた、身動きの取れなかった私に、幾許かの自由がもたらされた。私はいま、「『ああこれだ。』と言える満ち足りたこころ」を確かに獲得したのである。

高校入試だってバカにはできない。いや、どんな文章もバカにせず読んでみることが重要なことなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?