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私が考える『MBTI』という言葉(MBTIとの距離感や付き合い方)

MBTI信じてるやつ、盲目すぎ。
MBTIもはや宗教w
INFPは社不 INTPはチー牛
MBTI 名乗ってるやつ、痛すぎwww
INFPで発達持ちって人生オワタ笑

とかネットでよく見るよね。

それ見るたび思うことは、たくさんある。

結論として、私は『MBTIに囚われるな』と自分に対して、思う。


注意:そこにはMBTI以外の言葉も当てはまる。そして、いつの時代もあるだろう。

実在の事柄や他人ではなく、完全に自己内省のために書いた文章。


なんでも許せる方だけ先に進んでください。ブラウザバック。





誰が何を考え発信するのかは、自由であるべきだけど、
その内容で、自己や他者の自由を、制限したり奪うのは良くない。

「そんなの口にするまでもないだろう。あたりまえのこと。」

と思っていたけれど、
“口にすること”のほうが向いてる人の方が、この世には多いようだ。

人間だからそれは当たり前。分類や帰属による安心感は生存につながる。

MBTI を過度に信仰することで人を傷つけたり、自由がなくなること、
過度に批判することで、コミュニティを奪ったり、傷つけること、

過度な批判と信仰、どちらも是正すべきだ。

それらを正す(←これも立派なエゴ)ために、
『MBTIに囚われるな』という上から目線の指図も、所詮個人の指向やエゴを包む安心感のためのセリフでしかない。

人が何かを表したり、集めたり、まとめるときに、ネットで
mbtiだとか、障がい、陰キャ陽キャ、チー牛、地雷女、真面目、馬鹿などという『言葉』が使われているだけに過ぎない。

どれだけ括って、同じものと扱っても、
一人一人違くて、混沌とし過ぎてるのが人間だ。

その『言葉』の中で、たまたま形にならない性格の部分を、都合よくまとめ上げている『MBTI』というワードが今、流行っただけである。


私は今それに対して、称賛も批判もする気がない。


事実として、みんなは自分自身を

『言葉』に当てはめること

で何かと生きている。


属性は生きていれば必ず伴ってくる。


二十代男、サラリーマン、アラサー、JK、ロリ、おっさん、ぼっち、独身、既婚者、人妻、熟女、ギャル、ヤンキー、本名、ニックネーム、匿名、兄さん、姉さん、弟、妹、etc

みんな、人生で一度は使った事があるだろうし、
現実でもネットでも、何度も目にしてるだろう。

テレビ、Youtube、普段の会話、プロフ欄、履歴書でよく見る。
言葉で分類ことする自体は、人間として当たり前の行為である。

「分類して定義づけすること」は、人間生活を円滑化する。
それが有意義に使われることが、本当はいい方向。

しかしその『言葉』の中でも、批判や議論の的になりやすいものがある。

例えば、障がい、陰キャ、アスペ、繊細さん(HSP)、ADHD、パパ活、ホスト、不登校、チー牛、INFP、各種MBTI。

これらの言葉も、本来はその要素や集団を括るものでしかない。

しかしこんなに、
障がいに関するワードやパパ活や不登校、

MBTIは個人の主張をぶつける議論の的とされている

のは、他の言葉で括られた集団よりも、主張の強い多種多様な面を持つ人たちの人口が少し多めだから。ただそれだけ。

昔よりも、個々の主張や経験が、際立つ環境になってきたのもある。

周囲の平均的な言葉よりも、
少し大きな「課題」をその集団が持っているだけでもある。
または何かしらの社会的役割。(=著しい安心感や共存、成長)

アラサーとか、JK、人妻っていう言葉は、まだ議論が少なく平穏ではある。

それは、アラサーやJK、人妻に括られる人々のほとんどは、現実を生きている。現実を生きて、精神的問題に関わる機会も少なく、健全なパターンが多いからだ。課題とか、目立つ困難や改善点も特にない。

しかし、それと相反する言葉に属する人々は、内面的な問題を抱えてる場合が多い。

その人たちの主な議論の場は、主張の場は、現実ではなくネットであり、『言葉』というある意味、自身の体やメンタルを目にして相手に捉えられない、都合のいいツールとして扱って、主義主張をしているに過ぎない。

それが無意識だとしても。

その『言葉』を使うことで、
新たに自分の立場を明確にしたり、逆転させることも容易だ。
新たなコミュニティを作ったり、賞賛の道具としても使い勝手がいい。
同じ思考や志を持つ同士を求めたり、逆に排他的になって選民思想にもなれる。

人間はこの舞台で『言葉』を操り、
演説することで独裁者にもなれて、平和主義者にもなれるのだ。

このような『言葉』の善と負の側面が、大きく開きやすい
『MBTI』や『障がい』というワードでは、個々の主張がぶつかりやすい。

例えば、それが『熟女』とかいう言葉だったら、そこまで主張はないのだ。

「あー熟女ね、俺はあんま好きじゃないや。ばあちゃんは好きだけど。」

「熟女好きなんだよね!でもあんま外でいうもんでもないやー。めんどくせえし」

って感じで、互いがあんま主張し過ぎないワードである。

まあ単純に人口が多いコミュニティの方が、人気コンテンツの方が、
アンチがつきやすいのと似てはいるかな。

人数が少ないうちは、『楽しけりゃいい』『勝手にやってろ』って雰囲気だったけど、

人口が多くなるほど互いに統制をかけ合ってかないと、無法地帯になる。

だからルールも増えてく、だから個人のやらかしや批判も無駄に大きく取り上げられる。ただのエンジョイ生活が、善と悪にはっきり分かれていく。

ネットだと、それは強烈に出やすい。

人口が多いほど、グラデーションの一番左にいる人間と一番右にいる人間との差を比較して、無闇に批判したがる人間や擁護したがる人間が増える。

『こういう状況でどうすべきか』みたいのを、専門家(or気取り)でアドバイスする輩も、そういう状況では増える。

けれど、結局は自分で臨機応変に対応できる段階にまで、
本人が自力で動いて成長してくしかない。

赤子と同じで、手を貸してやっても最後は、自力で歩かせて、
子供の知的好奇心や思いやり、健康な心の器を形成してやれる環境を、
周囲の人間が作っていくしかない。

そのアドバイスで変わる人間もいれば、また自分を含め被害妄想や主義主張のループに苛まれるものもたくさんいる。


所詮。人間。

みんなそんなもんだと思うよ。だから、大丈夫。


しかし。

そもそも、そういう批判を見る前に


こういう系の記事を読む前に、

自分でそのコミュニティの是非を見極めて、快になる範囲内で生きてく事が本来必要なんだろう。

でも人間はみんな完璧ではないから。

みんなどこか欠陥して、そこを補完し合うようにできてる。

負の側面があろうが、それはどこかの誰かからしたら、正の側面である。

人間は一人一人違う、それが混沌としている。

これは綺麗事なんかではない、事実だ。

だから、みんな『言葉』に自身を括り、自分が『正しい』と思い込みたい。

この世界にとどまる理由づけや、同じ正しさを持つ仲間を持ちたいだけだ。

私はその行為を否定しない。所詮、人間という生き物だから。
生きるためには、誰にだって“それ”が必要だ。


私は、

誰かが誰かを肯定したり、批判したり、盲目になってても、
そこに入り込まないし、中立を気取っていると思う。

私がそこに入って、また主張をするのは、
さらに議論の渦を巻くことしかできないから。

その主義主張や議論、感情は、
本来個々が冷静になって取り扱って、適度な距離を持って、

心の余裕と譲り合いの気持ちを本来、持たなきゃならない。

その事実になるべく多くの人が、自力で気づくように環境を変えてくしかないのだ。

更に主張を塗り重ねるよりも、すべき事があるはずなのだ。

互いが互いの成長と心の余裕を生み出せる『環境』を引き出す要因、
その中の一つとして、少しでも楽に生きれればいいと、

個人的に、思う。

MBTIという界隈、というかコンテンツを、
遠目に眺めたとき、この思考が特に思い浮かんだのだ。

これは一回書いときたいなーと、なんとなく思っただけだ。

だから、
『私、INFPなんですけどー』とか『INXXは生きづらい!!』
『MBTIのランキング!』『あのアニメのこのキャラは、ENFPでしょ』
とかも別に、いいんじゃねって思う。

何とも思わない。

そこで本人たちが、たのしーって感じになれるならいいんじゃないの。

そこで再度議論や批判が渦巻いたり、誰かを貶したり、シカトや排他的にしないで、損害しないのなら、常識の範囲内で、楽しんでいいんじゃない。

二次創作や暗黙の了解みたいな感じで。


これはもちろん公式じゃないけど、自分たちでこんなふうに解釈したよーってさ。

公式の正しさを持ってないイラストとか文章を見せ合って、盛り上がってんのも、節度があれば良いんじゃない。

他の人を傷つけたり不快にしない内容なら、多少の自由はあってもいいはずだ。

あと二次創作では、知識のないワードを宗教や個人の主張に利用しないことも大事だよね。それと同じじゃないか。

普段してること。マナー。

その範囲内なら、別に『その言葉』を自分のために使ってもいいんじゃないかな。私は(私に対して)肯定も否定もしない。

自分がINFPやINFJ、INTP、INTJ、etcと名乗ることで得る満足感や安心感、優越感、仲間感を得る人たちがいるなら、それは『言葉』としての意義を果たせてるんじゃないか。良い意味でも、悪い意味でも。

その『言葉』がこう使われることで不快だとか、快だとかは、善悪は、
また個人の問題になってくるから。

私は不快な面を持つ言葉は、基本ミュートブロックする。

二次創作と同じだよな。
苦手なキャラとか、カップリングはあんま見ないようにするでしょ。目に入れても、基本公式とかその界隈に口出したりはしない。たまに気狂いで公式に口出すクレーム人もいるけど。

MBTIもこれから、そういう範囲になってく言葉じゃないか。

実際、Xで自衛や界隈分けが自然と行われてきてるし、それだけ人口が増えてきたんだ。

たかが言葉、されど言葉。

そこで得る感情も思考も、自分で見極め、周囲と余裕を持って接せる生活を送ろう。

心の底にある『主張』は余裕を持って、マナーよく上手に扱おう。

よくある標語みたいなことを言ってしまうが、それだけだ。

結局何が言いたいかというと、


主張と言葉、言葉と人間、

主張と私情の

違いを自力で区別できる大人になろう。


なので、私はこれからもこの「主張」とやらを、
心の底に秘めて、自分なりに人間と関わっていく。


MBTIも適度に『言葉』として扱い、
それらを使うときは、現実の二次創作でもするか…くらいの気持ちでいる。

そもそもキャラ付けとか、個人の性癖、作者ではない人間の頭の中が、

その公式を描いてる時点で、
MBTIはもう二次創作になってしまってるんだ。

大体のコンテンツがそうだろう。

本人や公式でない限り、それはもう「二次」に行ってる。

もっと根本の心理を学びたいのなら、
『MBTI』に期待や失望をするくらいなら、

コンテンツではなく、分類や定義づけではなく、学問の方に行くべきだ。

MBTIは、
それをわかるーとか、おもしれーくらいの軽い気持ちで、
みんなが楽しめたら良いんじゃない。

身内ノリみたいな感じも、案外悪くないんじゃない。

幸せならOKですくらいの気持ちでいるわ。

少しでも多くの人が、何かで結果的に楽しんだり、この世の安心感を得られるのなら、それで良いと思う。

そこに対して何の口を出す気もないし、遠目にみんなが楽しくわちゃわちゃしてるのが見れたら、どうでもいいや。

以上、“INFJ”の文章。


この上から目線のくそ皮肉。

そんな自分が嫌い。

最終的に『自分が嫌い』を書くことを免罪符としているような文章。

そういうのを書く自分が嫌いなんだよな。