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第7回 フィルム・エクスチェンジ業者

前回はニッケルオデオンというアメリカにおける映画専門劇場の成立と普及についてお話ししました。今回はこのニッケルオデオンの出現によって生じた莫大な映画フィルムの需要に応えた、「フィルム・エクスチェンジ」と呼ばれる映画のフィルムや機材の流通業者についてお話しします。

デトロイトのフィルム・エクスチェンジ・ビル(FEB)

さてまずは以下の画像をご覧ください。真ん中にエンブレムがあり「FEB」の三文字が見えます。エンブレムの両側には半裸の男性の彫刻があります。よく見ると、彼らが抱えているものが、左側は映画のフィルム、右側が映写機であることがわかります。

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デトロイトのFilm Exchange Buildingのオブジェ

ACGray, Front-crest of FEB, CC BY-SA 3.0

実はこのオブジェはデトロイトにあるフィルム・エクスチェンジ・ビルディングの正面玄関に飾られているものです。FEBとはこのフィルム・エクスチェンジ・ビルディングの頭文字をとったものですね。このビルは1926年にデトロイトの映画館に映画を配給する流通業者が入居することを目的に建築されました。MGM、ワーナー・ブラザーズ、ユニバーサルの映画配給部門がそれぞれビルの1フロアを占め、他にもスタジオ付属ではないエクスチェンジ業者が入居していました。このような一つのビルをまるまるエクスチェンジ業者のために建築するというのはこのFEBが初めての試みだったようですが、他の都市でも似たようなビルが建築されることになりました。デトロイトといえば今でこそ寂れた都市というイメージですが、自動車産業で栄えた当時のデトロイトには100件以上もの映画館が並び立ち、FEBに入居したエクスチェンジ業者はこれらの映画館に映画を供給していました。

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デトロイトのフィルム・エクスチェンジ・ビルディング(2012年)

ACGray, The Film Exchange Building (Detroit), CC BY-SA 3.0

このフィルム・エクスチェンジという流通業態は映画史のかなり初期、具体的には19世紀から20世紀への変わり目ごろから生まれ、前回お話ししたニッケルオデオンの普及とともに成長し、ハリウッド映画産業の成立とともにその中に組み込まれていくことになります。今回はその過程を追ってみましょう。

フィルム流通の安定化

まず当時の劇場や映画館の興行主がどのように映画フィルムを手に入れていたのかについて考えなければなりません。一番単純な映画フィルムの入手方法はもちろんその映画を作った本人から直接購入することですが、広いアメリカでいちいちそんなことをしている訳にも行かないので、1890年代からすでに映画のフィルムを売買したりリースしたりする中間業者が存在していました。この時期のフィルムは一巻の上映時間がだいたい10分から12分程度だったのですが、一巻のリールの買い取り価格がだいたい25ドルで、ちゃんとメンテナンスをしていた場合は300回くらい上映することができたようです。興行に占める映画の上映とライブ・パフォーマンスの割合によって、興行に必要なリールの本数は変わりますが、もし映画だけで2時間から3時間の興行プログラムを構成しかつ定期的にプログラム内容をリニューアルしていこうと思うと、けっこうな数のリールとリールの購入資金が必要なのです。リールの購入資金自体はもしかしたらヴォードヴィル俳優を雇うための金額よりも安くすませることはできたかもしれませんが、膨大な数のリールと上映装置を管理することは興行主や映画館の所有者にとって決して楽なことではありませんでした。

1890年代の終わりまでには、映画を作っていた会社のレンタル部門とは別に、ヴォードビル劇場などにこれらの会社から購入した映写機材と映画のリールをセットで、ときには映写技師も付けて、レンタルする会社が生まれます。当時はまだ数も少なく「エクスチェンジ」と呼ばれてはいませんですが、そのさきがけであることは間違いありません。ヴォードヴィル劇場のオーナーあるいは興行主が、自分で映画会社から送られてくるカタログを見て、どの映画を購入するか決め、他のライブ・パフォーマンスも加えてプログラムを決定し、司会や他のスタッフを雇い実際の興行を行うというのはなかなか手間のかかる作業です。中間業者はここのところにビジネス・チャンスを見いだし、ヴォードヴィル劇場のオーナーに「この映写機材と映画とオペレーターをセットにしたサービスを契約しさえすればあなたはもう上演プログラムについて悩まなくてもいいですよ!」と営業をかけたのです。さらに、20世紀に入って映画の技術がより進歩し映画の上映がより簡単になると、上映技師をサービスに含めるかわりにもともと映画館にいる電気技師を上映技師に訓練すると言うサービスをするようになり、今度は映写機とフィルムのリールだけを配給するようにして、映画配給の価格破壊を起こしたのです。

ニッケルオデオンとエクスチェンジ業の隆盛

こうなってくると、アメリカ各地の劇場のオーナーはこのように考えてくるようになります。「なんか最近映画がはやってるらしい。ちょっと前までは短かったし映画だけ見てもよくわかんねーからヴォードヴィルの出し物にまぜて上演しないとつまんなかったが、最近は上映時間も長くなって、解説をしなくてもだいぶ物語が分かるようになってきた。エクスチェンジとか言う業者が定期的にリールを配給してくれるらしい。てことはあとは伴奏のオルガンでもつけておけばそれでプログラムは埋められる。それで儲かるんならわざわざヴォードヴィルの連中を雇うより、映画専門の劇場にしたほうが楽じゃね?」 このように考えた劇場経営者たちが自分たちの劇場を映画専門に作りかえ、全米にこのような興行形態の劇場が乱立しはじめました。すでにお話しした通り、この劇場への入場料がニッケル硬貨一枚程度だったことから、この劇場はニッケルオデオンと呼ばれ、ニッケルオデオンは1905年頃から1915年頃のアメリカでの映画興行を一手に引き受けることになります。そしてこのニッケルオデオンの全米でのブームがエクスチェンジ業をさらに発展させることになるのです。

1910年ごろの映画流通の中心地はシカゴ で、映画スタジオに加えて多数のフィルム・エクスチェンジ業者が本拠地を構えていました。シカゴといえば、本稿の冒頭に挙げたFEBがあるデトロイトと同様に五大湖沿岸の都市です。この時代にアメリカ市場では多くのヨーロッパ産の映画が流通していたためニューヨークにも多数のエクスチェンジ業者がありましたが、産業の規模ではシカゴについで二番手でした。当時のシカゴで映画ビジネスに参入し後に大物になった人物としてはドイツ系移民のカール・レムリが挙げられます。レムリはシカゴのニッケルオデオンを買収し映画興行をはじめ、のちにフィルム・エクスチェンジ業者としてビジネスを発展させ、最終的にはユニバーサル映画を設立します。

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カール・レムリ

Bain, Carl Laemmle in 1918, marked as public domain, more details on Wikimedia Commons

エディソン・トラストとの戦い

このようにエクスチェンジというフィルム流通の中間業者の出現がフィルムの供給を安定化し、これと同期して米国各地で映画を専門に上映するニッケルオデオンが増殖しました。ところがこれに腹を立てたのが映画の発明者であったエディソンなのです。エディソンは自分が特許を持っている映画関連技術で、エクスチェンジ業者が利益をあげていることを不満に思ったのです。というか正確に言うとエディソンは、自分以外が映画で利益をあげていることを非常に不愉快に思っていたようです。というのも、1890年代以降、映画撮影装置の特許のほとんどを有していたエディソンは、他の映画製作会社につぎつぎに法廷闘争をしかけ、エディソン社とは異なる撮影装置を有していたバイオグラフ以外の会社はエディソン社に特許使用料を払わなければ合法的に映画製作ができないような状況に陥っていました。これらの映画会社は自分たちで映画を作るかわりにヨーロッパ映画を輸入してビジネスを継続しようとしたのですが、エディソン側は「エディソン社の機材を使用していない映画の上映はエディソン社の特許の侵害を幇助するものだ」と主張して、あくまでアメリカの映画市場を独占しようとしていたのです。このようなエディソンの度重なる圧力に疲弊した競合他社は、エディソン側に特許を持ち寄って少数の企業でアメリカの市場を分け合う合意を取り付けようと交渉を持ちかけました。最終的にエディソン社は、ヴァイタグラフ、エッサネイ、セイリグ、ルービン、カレム、メリエスとパテの米国法人、宿敵バイオグラフ、そして生フィルムの特許を持っていたコダック社とともに、モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー(MPPC)という特許管理会社を作り、傘下の企業以外の映画製作を抑圧し始めたのです。

このMPPCは別名エディソン・トラストとも呼ばれていました。エディソンは多くの特許を持っており、フィルムの特許を持っているコダックさえもトラストの中に組み入れるたことで、実質的に映画産業に関わる限りはこのMPPCの中にいる必要がありました。この特許戦争に際してMPPCはかなりえげつないことをやっていたようです。例えば、エディソン・トラストに加入していない映画スタジオの撮影現場にこっそりと探偵を送り込み、エディソン・トラストの特許を無断で使用している証拠をつかみ、裁判所に申し立てて映画の撮影や配給を法的に差し止めさせたのです。このようなエディソン・トラストの行為が結果的にハリウッドの誕生につながることになります。ハリウッドが映画の都になったのには様々な理由があるのですが、その内のひとつがエディソン・トラスト傘下でない独立系の映画会社やエクスチェンジ業者が、このエディソン・トラストの法的な追求を逃れるために、当時の映画産業の中心地であったニュージャージーからカリフォルニアへと移動したことにあります。先ほどの述べたカール・レムリもこの独立系の側に立って戦っていましたが、ユニバーサル映画を設立したことからもわかるように、彼もまたニューヨークからロサンゼルスに本拠地を移したのです。当時はまだ飛行機の黎明期で、東海岸から西海岸への移動は決して楽な旅程ではありませんでした。探偵を送り込むのも一苦労というわけです。東海岸から遠くはなれたハリウッドで映画1911年に最初のスタジオがハリウッドに完成し、それから続々と映画スタジオがハリウッドに建設されるようになるのです。

では、フィルム・エクスチェンジに従事する独立系の業者がハリウッドのスタジオと共存共栄したかと言うとそういうわけでもないことが皮肉なところです。記事の冒頭で紹介したFEBにMGM、ワーナー・ブラザーズ、ユニバーサルといったハリウッドのスタジオが入居していることからもわかるように、結局のところこのフィルム・エクスチェンジ業はハリウッドの「垂直統合」と呼ばれるビジネス・モデルにかなりの部分組み込まれてしまいます。とはいえ、アメリカ映画興行史におけるヴォードヴィル劇場での上映からニッケルオデオン期への移行期さらにはハリウッドの成立に至るまでの時期に、このフィルム・エクスチェンジ業者と呼ばれる産業が果たした役割は大きく、その痕跡は全米各地に残されたフィルム・エクスチェンジという名前が付けられた建築物にみてとることができるのです。


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