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VRChatに息づく。

ふと思う。

VRChatの中で、良く知らない人に触られたくないと思うようになったのは、いつからだろうか?

最初は気にしていなかった。
でもそれが嫌だと思うようになったのは、何故だろう?

ふんわりと、ただし明確な形を持ってあるその感情を。

形ある言葉にしてみたくなったので、紡いでみようと思う。


人という生命は、生まれ落ちた瞬間から息づいて、現実世界の一部になる。

だが、VRChatにおいて、世界に息づくということは、恐らくほとんどの人にとって後天的なものなのだと思う。



3年前、私は未知へと飛び込む恐怖に晒されながら、VRChatにやってきた。
全てのことが真新しく、新鮮に見え、全身で面白さを享受していたあの時。

私は生まれ落ちてはいたが、息をしていなかった。

あなたは一度でも想像したことがあるだろうか?
ゲームの中のキャラクターが考え、思い、伝える。
完全な個として存在する世界を。

妄想の中でならある人もいるだろう。
でもそれはあくまで想像の中、仮定としての話だ。

でもそんな世界がVRChatの中に広がっているということを覚悟して、訪れる人はまずいないだろう。

少なくとも私は既存のゲーム文脈の延長線で、この世界を訪れた。
だから私は息をしていなかった。

私は遠慮することなく好きにコミュニケーションしていた。
ここにいる人たちはあくまでロールプレイの延長線で可愛いアバターを纏い、じゃれあっているのだと思っていた。

だが、そうではなかった。しっぺ返しはすぐにやってきた。

当時私はボイスチェンジャーを使い、女性のように振舞っていた。
それはロールプレイの一部であり、コミュニティのみんなも分かっているものだと思っていた。

想いを告げられた時、私は恐らく初めて息づいた。

じゃれあってくる子供のように思っていたその子と、お試しのような形で付き合ってはみたものの、私は女性として見られることに気持ち悪さを覚えるようになっていた。

アバターを隔てたその先に、『人間』が見えるようになっていた。

かつてネットゲームをしていた時もこのような感覚はなかった。ネットゲームはコミュニケーションはするものの、ゲームの文脈上で遊ぶものであったからだろう。

結局仕事が非常に忙しかったのもあり、ろくに会わずに2週間で別れたが、彼には申し訳ないことをしたと思っている。今なら傷つけることになっても、すぐに断っていたと思う。
でもそれはこの出来事があっての今でしかない。もしも、はないのだ。

私はある時を境にボイスチェンジャーを使うのをやめた。
VRChatにいる『私』はどうしようもなく私自身であり、自分の気持ちに嘘は付けないのだから。

私はすでに息づいてしまった。


VRChatterは、VRChatの世界と現実世界の両方に両足で立っている。

しかし、その踏みしめた足から、地面に根がどれくらい伸びているかには、個人差がある。

以来、私にとって二つの世界は地続きになった。
私は現実世界で生活し、VRChatでも生活している。

VRChatで話をするときは『その人』と話をしている。
アバターの向こう側にいる現実世界の『その人』と。

その変化は巨大な地殻変動のように、不可逆なものであり、戻ることはないと確信している。私の片足は頑丈な根を張り、引き離すことが出来なくなった。

でも、この変化は誰にでも起こることではない。

もし、過去の私が人の強い感情に触れることがなかったのなら……今でも変わっていなかった可能性はある。

所属しているコミュニティや行っている活動、興味関心のあるなし、そして人との出会い。

様々な環境・文脈によって、VRChatに生まれ落ちた私たちは育てられる。
其処に現実世界の自分が加わって、VRChatterとしての自分が形成される。

だからこそ、色々な人がいるのだと思う。

現実世界で会った時のように丁寧に挨拶から入ってくれる人。
初対面でも無遠慮に触ろうと手を伸ばしてくる人。

その違いは、二つの世界が地続きになっているか、別のものになっているかの違いであるように思う。もちろん、現実でも無遠慮に手を伸ばす人であれば話は別だが。

しかし何かの折に、人の強い感情に触れてしまうと、現実世界側がこちらを覗き込んでくる。アバターの向こう側には『人間』が居ることを意識されられてしまう。

そうして、繋がっていることを認識した瞬間に、2つの世界は多かれ少なかれ混ざり合ってしまう。まるで絵の具のように。

混ざり合った結果、2つの世界間で自分が耐え切れないほどの乖離があったならば、意識の改革が起こる。おそらく大多数はVR側で。中にはその変化に耐え切れずに繋がりを断ってしまう人もいるだろう。

2つの世界を完全に切り離すことが出来る人は、ある種の才能があるのだと思う。

私にはとてもじゃないけど、不可能だ。
たかが言葉。たかがアバター。たかがゲーム。
そんな風に割り切ることはできない。

私は息づき、そして生活している。
だからこそ、そこに在ることを心地よく思う。



様々な人々がVRChatで暮らしている。
そして、人の意思によってVRChatが作られている。
先鋭化する感覚が、人々の営みを伝えてくる。

私は良く知らない人に触られるのが嫌だ。

何故なら、その人を知らないから。
アバターの向こう側にある『人間』の輪郭が分からないから。
見た目がどんなに可愛らしくてもおぞましい何かが触れてきているように思えてしまうから。

断りもなくそういうことをされたときは、私は自分を一時的に切り離そうと努力している。もっとも、不快な感覚はどうしても残るので、なるべく会わないようにするか、ブロックすることになるのだが。

先鋭化した感覚は、私をひどく臆病にさせている一面がある。
現実の私もそうなので、これは妥当なのだけども。

だが、その一方で先鋭化した感覚が伝えてくれるものがある。

それは人の意思。

イベントを開催したり、ワールドを作ったり、アバターを自作・改変したり、ワールドを巡ったり、写真を撮ったり、お喋りを楽しんだり、ダンスをしたり、ロールプレイをしたり、等々……。

様々な意思が行き交い、交差し、世界が織りなされていく。
私の中でこれを形容する言葉はたったひとつ、『営み』だ。

HMDひとつ、あるいはパソコンひとつ隔てた先の世界で、人々が日々暮らしていて、毎日のように営みが繰り返されている。そんな世界。

私はそんな世界を美しく、愛おしいと思う。

恐らく、いつかこの世界にも終わりが訪れる。
それが私自身の終わりか、VRChat自体の終わりかは分からない。

でもそれは今ではない。
その時まで、きっと私はこの世界で沢山の人の意思に触れながら、毎日生活していくのでしょう。

だからこの文章はこの一言で締めさせていただきます。

『今日もまた、VRChatで。』







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