行為の演技性に関する議論のつづき

前記事の続きです

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ざっくり前記事での議論をまとめると、
「人が取りうる一部の行為のうち、自己犠牲的行為は演技的な意図がはたらいていると言わざるをえない」といったものである。

では、自己犠牲的行為はどのようにして演技的な意図がはたらいていると言えるのだろうか。これに関して田村(2010)は次のように述べている。

自己犠牲的行為においては、状況を理解しうる主体が、むきだしの事実に即した自分の気持ちは棚上げし、状況の要請に即した虚構の設定に合うように、適切な言葉や身振りを意図的に産出するのである。こうして、私たちは、<ゴッコの決定>という水準を設定したときにはじめて、自己犠牲と
いう行為類型を、消滅させたり不合理と決めつけたりせずに扱うことができるようになる。
田村均(2010)「自己犠牲的行為の説明-行為の演技論的分析への序論」p.269より

以上のように述べつつ、田村は実際に自己犠牲的行為が虚構に従って意図的に行われる様子を、アイヌのイヨマンテ(熊祭)という犠牲儀式と、古代ギリシャの三大悲劇詩人の一人と言われているエウリピデスの悲劇「アウリスのイピゲネイア」から読み取っている。


本文を読む限り、自己犠牲的行為が虚構に従っていると考えないとうまくその行為の動機が説明できないのは、自己犠牲的行為に「主体の分裂」が含まれているからである、と考えられる。

本文中に自己犠牲的行為の事例として挙げられていたアイヌのイヨマンテと「アウリスのイピゲネイア」は、どちらも「生贄」が自己犠牲的行為として表れている。

その生贄で示される「主体の分裂」とは、田村の言葉を借りるなら「生き延びたいのに進んで死ぬ」という点である。
「主体の分裂」の定義は明らかにされていないが、このように、行為する主体にとっての善い判断と、行為する主体が考える、周囲にとっての善い判断が相克している状態を「主体の分裂」と言うのだと考えられる。

その上で、田村は「主体の分裂」自体が問題ではなく、その「主体の分裂」が起こった上で、どうして人はそれでも意図的に自らの分裂した主体のもと行為できるのか、ということを問題視している。

私たちの真の問題は、このような主体が、分裂にもかかわらず自らの身体を進んで動かし、自分がなぜそうするのか説明できる状態で行為するのはどのようにしてか、つまり、分裂した主体はどのようにして自発的・意図的に行為できるのか、ということである。
田村(2010)前掲書 p. 268より

この問題に対する回答が、前記事でも述べたように<ゴッコの決定>という概念を導入することによる説明なのだと考えられる。


以上の議論を経て個人の見解を述べると、行為の演技性というのは、<本気の決定>に代表されるような、常識的に考えて導き出される行為の帰結に当てはまらないものに対して消極的に表れてくるものなのかな、と感じた。
つまり「○○という行為は演技的である」、というよりは「○○という行為は常識的には考えられない、よって演技的である」のような導き方をされやすいのではないか。

しかし、自己犠牲的行為に限って言えば、田村は自己犠牲的行為の合理性と個人にとっての善い判断のどちらも捨象しないようにするために<ゴッコの決定>を導入していたが、そもそも「自己犠牲的行為が合理的な行為といえるのかどうか」、という根本的な問いも残った。

行為の演技性については本当にまだまだ考える余地があるが、<主体の分裂>が起きた際の行為に関しては、演技性が議論に上りやすそうだということが分かったので、今後はこれを行為の演技性に関する考察のヒントにしたいと思う。

参考文献
田村均(2010)「自己犠牲的行為の説明-行為の演技論的分析への序論」『哲学』2010巻, 第61号, pp. 261-276,
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2010/61/2010_61_261/_pdf/-char/ja


ここまで読んでくださりありがとうございました。