オイル時計

ぽとぽと落ちていくきれいな青いオイルの玉を、シュウは眺めていた。昔に熱海旅行の土産で買ったオイル時計だ。シュウは時間をやり過ごしたいときに、オイルの美しい玉が流れ落ちていくさまに見惚れるようにしている。ずっと見ていても飽きなかった。飽きなかったのは、一定のリズムで零れ落ちていくオイルの玉を眺めているよりも、シュウの現実が退屈で、ときに耐えがたいものだったからだ。

「シュウ、ぼけっとしてないでお客さんの相手をして」とママにどやされる。シュウは名古屋の大学を卒業したが、就職が決まらず、4月から長野の伊那市にある実家のスナックの手伝いをしていた。たいして栄えているわけでもないくせに、無駄に飲み屋ばかり多い街だ。

「はーい。」シュウは気のない返事をして、おしぼりとお通しを用意する。

「お、今日はシュウちゃんもいるのか!運がいいなぁ。就活の調子はどう?」常連の田山さんに絡まれる。

「まぁ、あんまりうまくいってないですね」
「そうかぁ、じゃあ俺が良いところを紹介してやろうか?」

どうせ紹介する気などないくせに、そうやって言っておけば大学を卒業して就職先の決まらない小娘の気を引けるとでも思っているのだろう。そんな田山さんのミエミエの下心に気がつかないフリをして、シュウはおっさんの期待通りに振舞ってやる。

「え、ほんとですか?ありがとうございますー」

それで調子づいた田山さんは、その後も「就職というものは、どこでも良いというわけではない」、「就職して5年経ったときの労働条件が大事なんだ」、「結婚したあとも働き続けたいのか?だとしたら、ここは本当に働き続けられるのか?」など、シュウのことを真剣に考えているのだという風を装いながら、説教くさく滔々と助言をしてくる。大学を卒業して就職先の決まらない小娘の将来を心配して、有益なアドバイスをしている自分に酔いしれている。

いつもそうだ。常連のオヤジ連中は、無自覚にパターナリズムでシュウを支配して気持ちよくなって帰っていく。オイル時計は、シュウの心の平穏を守り抑圧から心を解き放ってくれる唯一のアイテムだった。

ある日、テンという若い男が田山さんたちに連れられて店にやってきた。テンは痩せていて中性的な雰囲気が漂っており、明らかにスナックなどに行き慣れていないという様子で少しオドオドしていた。田山さんたちがママとカラオケで盛り上がったり、シュウにお説教じみた会話を楽しんでいたりしても、テンはそこには入って来ないで、黙々とウイスキーの水割りを飲んでいた。シュウはテンに興味を持った。

「こんばんは。どこから来たんですか?」
「あ、どうも。東京から来ました」
「お仕事ですか?」
「そうですね。ちょっとした調査で、田山さんたちにご協力していただいて」

テンは遠慮がちに話した。すると田山さんが「シュウちゃん、松本先生は大学院で研究をしている偉い人なんだよ。いろいろ教えてもらいなさい」と口を挟んできた。テンは「いやいや、ぼくは偉くないですよ」と恐縮していた。そしてシュウの方を見て、彼女の苦労を悟ったように「大変ですね」と言って苦笑いをした。

「そう、大変なの」とシュウは言いたかった。何を言っても受けいれてくれるだろうという安心感を、テンは纏っていた。無自覚にシュウの心を支配してこようとするおっさんたちの愚痴を言いたかった。しかし常連の前で、そんなことを言えるはずもなかった。シュウの仕事は、自分の愚痴を言うことではなく、労働で疲弊しストレスを溜め込んだ男たちのはけ口になることだった。支配されることがシュウの仕事だった。

テンは、次の日も朝が早いからと、早々に切り上げて帰っていった。またいつもどおりのスナックに戻ってしまった。シュウはまた、オイル時計に見惚れている。いつかなにかが変わることを願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?