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幸せになるのに覚悟も何もない

一昨日、柏の葉T-SITEさんで夫婦トークイベントを開催した。

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トークイベントというからには、きっと何かしらの有名人なんだろうと思われたのか、
遠くから我々夫婦の写真を撮ってくれている中高生らしき方々が見えた。
我々を覗きに来てスマホを操作し(おそらググってくれている)、首を傾げているカップルらしき若者も見えた。

君たちがきっと何者かであると想像し撮影している人は、ただの近所の中年夫婦である。

帰宅したらぜひネットで検索をかけて驚いてほしい。
フォロワー数3名を誇る我々夫婦の始めたばかりのtwitterアカウントが出てくるだろう。
(そんな我々に声を掛けてくれた柏の葉T-SITEさんの勇気に感謝)

そんなことはさておき、ガチガチに緊張して静止画のように止まっている夫のお尻をたたき、無事トークイベントは終了した。
ご参加いただいた皆さんには心からお礼を申し上げたい。

イベントのあと、参加された方からメッセージをいただいた。
その方からいただいたメッセージの最後の2文にハッとし、今このnoteを書いている。(以下、許可を得て掲載)

主夫生活を検討されていらっしゃるその方のメッセージには、

「(略)あとは、妻である私の覚悟と自信次第ということですよね…。そこまでの覚悟を持てる自信はまだありませんが、家族で楽しく過ごしたいのでしっかりと考えていきたいと思います。」

とあった。
完全に私の言葉足らずだった。
イベントの中で「楽しむ覚悟」という言葉を使ったが、そこには「妻の覚悟」も「夫の覚悟」も「覚悟を持つ自信のあるなし」もないと私は思っている。

大切な人と長く一緒に過ごしたい。
家が好きだから家にいたい。
なんとなく、こうしたら楽しいだろうなと思っている。

そんな理由があってもなくても、
楽しく過ごしたい、幸せになりたいと願うことに、夫婦どちらかの強い覚悟や自信が必要であるはずがない。
必要であってほしくないと思うのだ。

「覚悟」や「自信」。そんなことばかりを考えていたら、当たり前のことすら願えなくなってしまう。

「好きなことをしたいって言いますが、その覚悟はあるんですか?」
「幸せになりたいって言いますが、その覚悟はあるんですか?」

自問であれ他者からの質問であれ、そんなことを考えたりしていてはいつまでたっても私は「はい」とは答えられない。
好きなことをしたいと願うこと、幸せに過ごしたいと願うこと、そしてそれを手にしようとすることは、勇気をもって挑むことなのだろうか。贅沢で後ろめたいことなのだろうか。
願わくばもっとナチュラルに好きなことをさせてほしいし幸せにならせてほしい。
幸せになるのに、覚悟も何もない。

「心地よく生きることを諦める。その覚悟はあるんですか?」

こちらの質問の方が、「ないです、すみません」と私は答えやすい。
ほんの少し、のびのびと生きたいだけなのだから。

思い起こせば全部そうだ。
覚悟や自信があったから進学して就職し、結婚、出産を経てフリーになったわけではない。
結婚にいたっては、覚悟や自信がなさ過ぎて「いつ何時でも離れたい時に離れ、お互いグッドラックな生活を送っていきましょう」という内容の婚前誓約書を用意したほどだ。(この話はまた追々…)

覚悟や自信はそのあとついてきたように思うし、本当についてきたのか?と詰め寄られたら、「すみません、ついたような、ついてないような…。へへへ。」と答えるとも思う。

話を戻すと、夫婦のどちらかが強い覚悟を持ちつつ、責任感ガチガチで自信ある選択をしなくてはならないのであれば、その決断は喧嘩の種にしかならないと思うのだ。
かといって覚悟や自信、責任を平等に持つことなんて、何をもって平等かを含めてとても難しい。

夫も私も、覚悟や自信を持てたからこの形を選択したわけではない。
どちらかというとコーヒーにミルクを入れるか入れないか、くらいの選択だった。
何となく今朝は胃がちょっとアレだからミルクを入れようかな、みたいなそんな感じだ。

そりゃ夫が会社を辞めた直後も今も「よし、働くぞ!」と思うけれど、
「ミルクが切れそうだから買いにいくぞ!」くらいの思いだ。
いや、だいぶカッコつけた。うちではミルクなんていう呼び方はしていない。牛乳だ。

もちろん、こういう生活をおすすめしているわけではない。
ミルクを入れるか入れないかの違い、なんてシャレたことを言ってみたものの、鼻歌を奏でて生活しているわけではないし、入っていた仕事がなくなると眠れなくもなる。そして隣で気持ちよさそうに寝ている夫を恨めしく思ったりもする。

私が使った「楽しむ覚悟」は、どんな選択をしても「楽しむ」という着地点を決めておくという覚悟かもしれない。

私はかつて何度ダイエットを決意し、断食する覚悟を持ち、そんな自分の決断に自信をもってファスティングセットを購入し、二日目で諦め、ファスティング用のスムージーを小腹が減った時に飲むジュースに変えてきただろう。
そんな私の覚悟や自信を、他言しない限り誰が知ることだろう。
この覚悟や自信や失敗は誰かに笑われ、非難されるべきことだろうか。
(いや、断食失敗については笑ってくれたら嬉しい)
覚悟や自信の大小とは。

そんなことにまで考えが及び、ちょっとよくわからなくなってしまったが、結論。

もはや、覚悟や自信なんてあってもなくてもいいんじゃないか。
とにもかくにも選んだ道を自分たちで正解にする。
それだけじゃないだろうか。

また長々と書いてしまった。
次回こそ気ままに書いていきたい。
義母から「誰もいらないそうなので送ります。よかったら使ってね。」と書かれたメモが貼られた、確かに誰もいらないであろうコーヒーカップが届いた話とか。

おわり。

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