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新・うさぎとカメ

 年老いたカメが今にも息を引き取ろうとしていました。池に住むカメたちは全員が集まっていました。その池に住むカメたちだけではありません。隣り村の池からも、そのまた隣りの村の池からも、たくさんのカメたちが集まっていました。息を引き取ろうとしている年老いたカメは、カメの中の英雄だったのです。
 皆さんはうさぎとカメの話をご存知ですか?ほら、足の速いうさぎとかけくらべをしてカメが勝ったというあの有名な話です。息を引き取ろうとしている年老いたカメは、実はかけくらべをして勝った、そのカメなのです。
 集まったカメたちはみんな悲しそうでした。一日でも長く英雄のカメに生きていてほしいと心から祈っていました。このお話は、その年老いた英雄のカメが息を引き取る前の日に、枕もとにたった一人、息子のカメだけを呼び、絶対にひとにしゃべってはならないぞ…と前置きしてしみじみと語った秘密のお話なのです。ですから、これを読まれたみなさんも、絶対に人に話してはいけません。


 さて、呼ばれた息子のカメはしょんぼりと父親のカメの枕もとに座りました。父親のカメはゆっくりと目を開けました。その顔には深いしわがたくさん刻まれていました。でも思いがけないくらいしっかりした口調で話し始めました。
「わしは仲間たちの間では英雄ということになっておる」
 息子のカメはうなずいて、
「だからこうしてお父さんのために大勢の仲間たちが集まってくれているんじゃないか」
「実はな…」
 父親のカメは目を閉じて、少しためらっているようでしたが、やがて決心したようにしっかりと目を開くと、
「実はわしは英雄でも何でもないんだよ」
 ポツリと言って大きな溜め息をつきました。
 息子のカメは驚きました。父親のカメはいったい何を言おうとしているのでしょうか。
「お前はわしとうさぎとのかけくらべの話を聞いた時、何も不自然さを感じなかったかい?」
 あまり思いがけないことなので息子のカメは返事をすることもできません。父親のカメは構わずに話を続けます。
「わしもその頃は若かった。若かったけれど、あの足の速いうさぎと陸の上でかけくらべをして勝てると思うほどバカではなかったよ」
 そう言われればそのとおりです。水の中でならともかく、陸の上でカメがうさぎにかなうはずがありません。しかし物語では足がのろいと笑われたカメが、それならかけくらべをしようとうさぎに勝負を挑んだことになっているのです。父親のカメの言うとおり、不自然といえばこれほど不自然な話はないではありませんか。

「わしは物語がほしかったんだよ」

 父親のカメは言いました。
「タヌキにはカチカチ山の物語があるし、しょじょう寺のタヌキばやしでは大活躍をしている。ぶんぶく茶釜もタヌキだし、ポンポコ山のタヌキさんの歌はどんな小さな子供でも知らぬ者はない。ネズミには有名な婿さがしの話があるし、ゴンギツネの物語は教科書にだって載ってる。中でもわしはうさぎがうらやましかった。十五夜の夜に月の世界で餅つきをする物語などはいかにも美しい話ではないか」
 息子のカメは黙って聞き耳を立てていました。

 そう言えばカメには物語がありません。せいぜい浦島太郎の話の中で、ほんの脇役で登場するくらいです。首も手も足もそして尻尾までひっこめたカメの姿は、まるで石のように地味で、楽しい物語など望むべくもありません。


「わしは恥を忍んでうさぎのところにお願いに行ったんだよ。山で一番足の速いうさぎとかけくらべをして勝ったとなれば、きっと有名な物語になるに違いないと思ったんだ。そして目立たないカメにもそんな話の一つぐらいはあってもいいと思ったんだよ。気のいいうさぎはその話を快く引き受けてくれた。わしらはわざわざ皆の見ている前でかけくらべをした。そしてうさぎは約束どおりかけくらべの途中で寝たふりをしてわざとわしを勝たせてくれた。わしはその話がこれほど有名になるとは思わなかった。歌まで作られて語り継がれるなんて想像さえしなかった。せいぜい見ていたカメたちの中に、カメだってまんざら捨てたものじゃないなと思ってくれるものが一人でもいれば、それで十分だと思っていたんだ」

 父親のカメは疲れたように枕もとの水をゴクリと一口飲みました。息子のカメは思わず辺りを見回しました。ひとに聞かれていい話ではありません。なぜ父親のカメが自分だけをわざわざ枕もとに呼んで話し始めたかという訳が、息子のカメには今ようやくわかりました。父親のカメは仲間たちの間ではまるで神様のように尊敬されているのです。それもただひとえに、かけくらべで足の速いうさぎに勝ったせいではありませんか。実はそれがお芝居だったということが判れば、みんなどんなにかがっかりすることでしょう。その話以来、みんなして築き上げてきた「堅実」とか「努力」とかいうカメの信用はなくなってしまうかも知れません。信用がなくなるだけでは済まなくて、ひょっとするとズル賢い嘘つき野郎という評判が立つかも知れません。そう考えて見ると今、父親のカメが告白している事実というのは大変な話なのです。

「どうして父さんはもっと早くにそれを教えてくれなかったのだい?」
 息子のカメの質問に父親のカメは答えました。
「わしには言えなかった…。最初はほんの軽い気持ちで思いついたことだったのだか、それが仲間たちからこれほど喜ばれ、そしていつの間にか仲間たちの心の支えになっているということを知れば知るほど、わしには言えなかった。決して自分の名声を失うのを恐れた訳ではない。いいかい?これだけは信じておくれ。仲間たちの夢や誇りを壊したくなかったんだよ。それにあのうさぎの好意には報いなくてはならぬ」
「うさぎの好意?」
「気のいいうさぎだったが口の堅いうさぎだった。かけくらべでわしに負けていい恥さらしだと、うさぎの仲間たちの間では随分辛い思いをしていたけれど、あいつは、とうとう最後まで秘密を黙り通して死んで行った」
「お父さんは、うさぎが辛い思いをしている時はどうしていたんだい?」
「わしか…。わしは決心したよ。何もかも打ち明けてしまおうとな。しかしうさぎは言うんだよ。一度ついた嘘はつき通すべきだとね。でないとわしもうさぎも、もの笑いになるだけだと言うんだ。わしにとってもうさぎにとっても苦しい毎日が始まった。とんでもない芝居をしてしまったと後悔した。確かにわしは仲間たちからもてはやされた。しかし、その度に身が切られるような思いをして来たんだよ」


 父親のカメの目には涙が浮かんでいました。しかし嘘をつきとおして来た父親のカメを責めようとは思いませんでした。それどころか不思議な気持ちですが、息子のカメは実はホッとしていたのです。今まで付き合って来た父親のカメは、いつも英雄という仮面を被って、決して脱ごうとはしませんでした。けれど、今ようやく本当の父親と話ができたような気がしていたのです。息子のカメは父親のカメの手をやさしく握りました。そしてもう半ば深い眠りに陥ろうとしている父親のカメを励ますように聞きました。
「でも、お父さんはどうしてその話をボクにしてくれたの?」
 父親のカメはもう目を開ける気力もありませんでしたが、かすかな声でこういいました。
「真実は、誰かが、知っていなければ、な、ら、な、い」

 もしもしカメよカメさんよという、うさぎとカメの歌が聞こえます。カメの国の国歌になってしまったこの歌を、カメの英雄の葬儀に参列した仲間たちが高らかに唄っているのです。
息子のカメはひとりじっと夜空を見上げて歯を食いしばっていました。
 息子にとっては父親のカメが歩いて来たのと同じ辛く苦しい生活が、たった今始まったのです。

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