渡辺哲雄

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誤算Ⅲ

「骨折のお話しの前に、痣の原因は分かったのですか?」  虐待の提訴が相談目的であることを考えると、弁護士としてはまずはそこを押さえておきたい。 「それが、約束通り母は次の朝、提携医院に受診したようですが、痣からは原因は特定できないとの回答でした」 「提携医院の立場はどうしても施設側になりますからね、そういう結果だろうと思いました。それじゃ、お母さまが骨折されたときの様子は詳しく分かりますか?」  梶浦の脳裏には、鎖骨と大腿骨を添え木で固定された痛々しい高齢者の姿が浮かんでい

    • 誤算2

       樋口敦子が母親の美佐子を入居させたグループホームは、不動産会社が経営母体だった。競売される担保物件の情報が容易に手に入る立場を活用して取得した土地に新しい施設を建設しては、県をまたいだ施設経営を矢継ぎ早に展開していた。ウェルフェアは福祉という意味である。パンフレットは明るい笑顔に溢れていたが、人材不足のあおりで大半が無資格の介護職員だった。しかも、施設が軌道に乗り始めると、若い職員たちを束ねる有資格者は、新たに開設する施設の責任者として異動させられるため。ウェルフェアという

      • 誤算1

         梶浦法律事務所を訪ねて来た樋口敦子と名乗る女性は、 「私…母をあんなひどい目に遭わせたグループホームをどうしても許せないのです」  思い詰めた様子で経緯を話し始めた。  敦子の母である樋口美佐子は、突然の心不全で夫を亡くしてからというもの、随分長い間うつ状態が続いていたが、やがて深夜に目を覚まして大声を出したり、ハンガーに掛けてある衣類に話しかけたりするようになった。 「キッチンのテーブルに向かい合う二つの椅子を見て、可愛い子どもが二人いると大騒ぎをするものですから、これ

        • 安楽死2025年

           ベッドに横たわった春彦が、ゴーグルで両眼を覆ってしばらくすると、白い部屋の明かりが消えて、目の前に懐かしい飛騨高山の景色が現れた。映像だと分かっていても、奥行きのあるリアルな景色には、まるでそこに居るような臨場感があった。  上三之町には土産物屋やうどん屋が並び、たくさんの観光客が行き来している。みだらしだんごの屋台からは、醤油の焼ける香ばしい匂いが立ち込めている。  やがてかすかに聞こえて来たお囃子の音をたどって行くと、絢爛豪華な祭り屋台の上で人形からくりが始まった。 「

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        • いち輪挿し
          7本

        記事

          新・うさぎとカメ

           年老いたカメが今にも息を引き取ろうとしていました。池に住むカメたちは全員が集まっていました。その池に住むカメたちだけではありません。隣り村の池からも、そのまた隣りの村の池からも、たくさんのカメたちが集まっていました。息を引き取ろうとしている年老いたカメは、カメの中の英雄だったのです。  皆さんはうさぎとカメの話をご存知ですか?ほら、足の速いうさぎとかけくらべをしてカメが勝ったというあの有名な話です。息を引き取ろうとしている年老いたカメは、実はかけくらべをして勝った、そのカメ

          新・うさぎとカメ

          最後の歌声

           妻の久子に勧められて、以前から気になっていた喉の違和感を近所の診療所で訴えると、 「まあ、風邪だとは思いますが、念のため検査だけしてみましょう」  笑って指示をした老医師は、レントゲン写真に顔を近づけて、 「ふむ…確かにちょっと気になる影がありますな…」  険しい表情で大学病院に紹介書を書いた。 「早期に発見できて幸いでした。喉頭癌です。七十五歳という年齢で化学療法は負担が大きすぎますが、手術をすれば声を失って、喉に取り付けた笛で話しをしなければなりません。一長一短です

          最後の歌声

          優しい盆栽たち

           ポカポカと暖かい春の陽射しを浴びて、今日も山はのどかな一日を迎えました。もう間もなくお昼だというのに、松ノ木の苗はまだうとうとと眠っていました。そよ風が頬を撫でて、木漏れ日がとても気持ちいいのです。小鳥のさえずりが、まるで子守唄のように聞こえて来るのです。目を覚ませというのが無理な話でした。松ノ木の苗は、夢を見ていました。夢の中で松の木の苗は、太くてたくましい大人の松の木に成長していました。はるか眼下に村の家々がマッチ箱のように小さく見えています。キラキラと日を浴びて鏡のよ

          優しい盆栽たち

          更生のステージ

           ステージに立って聴衆の注目を浴びながら、達也は、かつて暴走族仲間を率いて蛇行運転した時と同じ高揚感に浸っていた。世の中は正義などでは動いていない。達也が眉を剃り髪を染めて突出したワルになると、顔さえ見れば説教を垂れていた教員は関わらなくなった。暴走や窃盗や恐喝を繰り返し、十七歳の時に町のチンピラを鉄パイプで殴って失明させた。少年院から出て来た達也は、周囲が怯える分、肩で風を切って町を歩いた。 「誘われて暴力団に入り、薬物を売って荒稼ぎをしました。カネの払えない女には売春を

          更生のステージ

          ふみの暗闇

           居間の電気を消そうとして、ふみはふいに二十年も昔に同年の民子と交わした会話を思い出した。年金を繰り下げて六十歳からもらうと言うふみに、民子は確かこう言った。 「私はふみちゃんと違って年金は生活費やで七十歳に繰り上げることにした。そうすりゃあ月九万円になるでなあ」  子供のいない者同士だが、夫と別れてほそぼそと食堂を営む民子に、その時ふみは同情したことを覚えている。六十歳から受け取る年金は減額されて月額四万円に満たないが、夫の辰夫は六十五歳を超えても大工の手伝いに出かけて

          ふみの暗闇

          夢なし病と夢の実草

          「夢を差し上げます」 「ゆめ?」  少女は持っていた植木鉢を窓辺に置くと、男に一粒の花の種を渡しました。 「私は花の国から来ました。これは夢の実草の種です。毎朝一度忘れないように水をあげて下さい。きれいな夢の花が咲くはずです」 「夢の実草?夢の花?君はいったい何を言ってるんだい?どうしてぼくにこれを…」  あっけにとられている男をあとに、少女はそれだけ言うと、優しさに満ちた微笑みを残して去って行きました。 「花の国…夢の実草…夢の花…」  それは不思議な出来事でした。男はまぼ

          夢なし病と夢の実草