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短編小説 トイレットペーパー騒動

「部長。今、少々、よろしいでしょうか」

 と、切り出す。いくら普段から砕けた雰囲気の部長とはいえ、やはり緊張するものは緊張する。

 部長はじっと見入っていたPCの画面から顔を上げ、ん? といった感じでこっちに目を向ける。

「部長にお願いすることではないかもしれませんが、少々聞いていただきたい話がございまして……」

 何となく手を体の前で合わせて休めの姿勢をとる。

 きぃ、と音を立てて1/4ほど回転するくたびれた椅子。

「どうした?」

 心持ち真剣な眼差しと口調。

「実は……報道等でご承知の通り、ティッシュやら、トイレットペーパーが入手困難となってまして、うちの近所のドラッグストアもご多分に漏れず、毎日売り切れの状況でして」

 あらかじめセリフは考えておいた。淀みなくすらすらと言ってのける。

「それで、誠にお恥ずかしい話なのですが……我が家のトイレットペーパーが、現在、もう半ロールにも満たないという、有り様でして……」

 聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥。

「会社の備品である、トイレットペーパーを是が非でもお借りしたいと考えているのですが、こういった陳情は、部長でよろしかったでしょうか?」

 やや顔が紅潮しているのが自分でもわかる。頬のあたりが何だか温かい。

「トイレットペーパーって……あのトイレットペーパー?」

 突拍子のない訴えのためか、部長もわけのわからぬことを聞いてくる。

「はい。個室のトイレに設置されている、あの、ぬ、薄紙です」

 危うい。もう少しで、尻を拭う、と言いそうになった。この場において、直接的なイメージを喚起させる表現は避けたい。汚いし。

「それを、借りたいの?」

「はい。政府やメーカーの発表によれば、供給は少しすれば安定するとのことなので、まずは会社よりロールをお借り受け申して、そして無事、供給が落ち着きドラッグストア等で私がトイレットペーパーを入手できた暁には、同じ数のロールをお返ししようという次第であります」

 まさか使用済みのペーパーを返すわけにもいくまい。

「はぁ」

 部長がため息みたいな相槌を打つ。

「それを、借りたいと」

 部長が繰り返す。
 何度聞けば気が済むのだろう。こんな請願をしているこっちだって恥ずかしいんだから、そう何度も何度もオウムと化さないで欲しかった。周囲に人がいないときを見計らっての直訴だったが、どこで誰が聞いているか分かったもんじゃない。ワタベ君、家にトイレットペーパーないんだってー、なんて女性社員の間で盛り上がろうものなら、たまったもんじゃない。
 うるさい。こっちは切羽詰まった瀬戸際なんだぞ。大体、紙がなくなったらどうすりゃいいんだ。考えてみろってんだ。マスクみたいに布で代用できるような代物じゃないんだぞ。布がトイレに流せるかってんだ。

「……会社の備品だから、総務になるのかな」

 部長はそうして背もたれに身を預ける。再び椅子がきぃと鳴く。何だか親身になってくれてないってか、あまり関わりたくないご様子。こんなことなら、黙って持って行っちまえば良かったが、それじゃ窃盗になっちまうので、こうして恥を忍んでみたというのに。

「わかりました。では、総務部にかけ合ってみます」

 というわけで、一つ上のフロアにある総務部へとすたこらさっさと階段を上っていく。もうこうなりゃヤケだった。

 総務部は入社したときに様々書類を提出したり、社員証の写真を撮られたりとその程度の付き合いで、ここ最近はさほど立ち入る用もなかった、つまり総務部には大して顔は利かないが、トイレットペーパーを手に入れるため、奮闘することになる。えいままよ。

 コンコン、と懇々と開けっ放しのドアをノックをする。

「失礼します。営業部のワタベと申します」

 一番近くの席に座っていた妙齢の女性が面を上げる。マスクをしていて口許は隠れているものの、髪をピンで留めていて、つるんとしたおでこが露わになっている。何度か見かけたことはある。嘆願先としてはなかなか気まずい相手だったが、ここまで来たからにはヤケクソだった。トイレットペーパーだけに。

 総務部の女性はこれから妙ちきりんな問答が発せられるなどと微塵も疑わない様子で、まるっとした視線を送ってくる。

「実は会社の備品について、伺いたいことがございまして伺ったのですが……」

 伺いが二連発。と、言いながら思う。伺ってばかりだなこいつ、とか思われてなきゃいいけれど、と相手の顔色をこれまた窺う。

「単刀直入に申し上げますが、トイレットペーパーを一時的にお借りしたいのです」

 先程部長にしたのと同じような説明を繰り返す。なるべくこの女性にだけ聞こえるよう、つまり他の総務部の面々の耳々には届かぬよう、声量を絞って要件を伝える。

「つまり、ワタベさんのほうで確保できたら、お返しいただけると」

 目を合わせたくないのか、俯き加減で女性は応じる。

「はいっ。何でしたら借用書もお書きします」

 半分本気で、半分冗談だったが、このニュアンスがこの女性に通じるだろうか。

「ちょっと、初めてのことなので……部長に聞いてみますね。お待ち下さい」

 と、女性はそそくさと奥の管理職然としたデスクに陣取る管理職然とした人物へと助けを求めに行く。

 その間、トイレットペーパーの借用書って何だろうと、言い出しっぺにも関わらず他人事のように考えてみる。

 私ワタベ(以下、甲)は会社(以下、乙)より備品であるトイレットペーパー(以下、丙)を1ロール借用します。甲は丙を確保し次第、早急に乙へと返却することを誓います云々。

 やかましいわ! と、自身の想像にツッコんだところで、総務部長がお出ましになる。あれ、この御仁は──

「なんだ、ワタナベじゃないか。元気にしてたか?」

 何年も前に別の支社に異動になって、それで昨年の春、総務部の長と戻ってきた以前の上司だった。以前も名前を間違えられたから、よく覚えている。そうだ、総務部にはこの人がいたんだ。忘れてた。

「ワタベ、です。えぇ、おかげさまで」

 何がおかげさまなのかわからないが、とりあえずそう言っておく。

「それで、トイレットペーパーが欲しいって?」

 よく響く分厚い声で尋ねてくる。絶対に、総務部全員に聞こえた。営業部のトイレットペーパーとかあだ名をつけられたら呪うぞ。

「いや、借りたいんです!」

 せめて周囲からは物乞いと思われたくないので、こちらも声量を上げて訂正する。

「そんなん、わざわざ言わないで持って行きゃあいいじゃねえか。相変わらず真面目だねえ」

「いえ、流石にそういうわけにはいかないので」

 全員がそうやって持ち出したら、会社からトイレットペーパーというトイレットペーパーが失せることになる。現在の品薄な状況下でそれをしたら、きっと会社は、やはり、匂うはずだ。そんな職場で働きたくない。

「じゃあまぁいずれ戻すってことで、いいよ。在庫は余分にあるんでしょ?」

 と、先程の女性に総務部長が尋ねる。取り次いだためか、女性も脇に立ったままだ。

「あ、はい。在庫は結構あるので、大丈夫です」

 在庫。店じゃあるまいしと思ったが、在庫、より適切な言い方がぱっとは出てこない。

「で、何ロールくらい持ってく? 一ヶ月分もありゃ、充分だろ。月にどんくらい使うんだ?」

 やめて欲しかった。一ヶ月にどれほどトイレットペーパーを使うか、というのは、つまりどれくらい用を足すか、という問いに他ならなかった。しかも若い女性がいる前で。

「……よく分かりませんが、えっと、とりあえず、2ロールくらいで」

 多分、それくらいもあれば、充分だろう。これで品薄状態が解消されなかったら、恨むぞコロナ。

「じゃあ、トイレの棚ん中から、勝手に持って行っていいよ」

「あの、何か、一筆、書かなくていいですかね」

 トイレットペーパー借用書のことだ。

「いいよ、そんなの。俺とカニザワさんがしっかり覚えてるから。営業部のワタベが、トイレットペーパーを2ロール借りていきました、って」

 そんな事実をいちいち総務部内に轟かせる。マジでやめて。というか、カニザワさんという名前か。変わった苗字だな、とカニザワさんのほうを窺い見る。

「はい。ちゃんと覚えておきます」

 カニザワさんは真面目なのか、少しふざけているのか、目元はにっこりと微笑んでいる。だから──

「僕もちゃんと忘れません」

 なんて言ってしまう。誤魔化すように、笑いが勝手にこぼれる。

「しっかし、トイレットペーパーを借りに来た奴なんて、初めてだよ。まぁ事情が事情だから、背に腹は変えられないってか。トイレだけに!」

 怒るぞ。
 なんてこっちの憤懣には気づかず、総務部長はガハハと笑っている。

 カニザワさんもその隣で、目元を綻ばせている。マスクの下の口も、きっと笑ってくれている。

 なら、まぁ、いいか。

 と、マスクを見て思い出した。家のティッシュも残り1箱半しかなく、危うい状況だった。きっと、会社はティッシュだって豊富に抱えているはずだ。なら今の勢いに乗じて、ティッシュも借りておくか? いやしかし、いくら何でも厚かましくないか、と考えあぐねて、妙案に至る。

「あ、やっぱ、ごめんなさい。3ロール、お借りしてもいいですか」

「なんだ、そんなに使うのか?」

 カニザワさんも総務部長の横で、心持ち目を大きくしている。

「いえ、ティッシュの代わりにと思いまして」

 名案だろ、と気づいたら例のあの顔をしていた。
 しかし、ちょっと立ち止まって、自分の発言を顧みてみる。
 トイレットペーパーで鼻をかむって、貧乏臭いだろうか、引かれるんじゃなかろうか、なんて考えて、言わなきゃよかったと途端に後悔をする。

「なるほど」

 と、カニザワさん。

「でも、そんなに持って帰れますか? 袋とか用意しましょうか?」

 優しすぎんだろ、と思わずカニザワさんのまるっとした目を見つめる。



 総務部をあとにする。

 きっと総務部では、名前ではなく、営業部のトイレットペーパーの人と呼ばれるに違いない。 
 しかし悪いことばかりじゃなかったと、手にしたビニール袋をしゃりしゃりと振ってみる。

 そうして、またまた良案を得る。

 新品のトイレットペーパーを返却する際には、何か簡単なお礼を買って行こう。お菓子とか喜ぶだろうか。

 だからそのためにも早くトイレットペーパーの供給、安定してくれないかな。もちろんマスクだって、ティッシュだって。

 というかいい加減コロナ騒動、収束しくれないかな、と願いつつ、早速トイレットペーパー3ロールを確保するべく、ビニール袋をしゃりしゃり言わせながら、トイレへとすたこら向かう。

                                 了




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