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揺れる信仰、名誉、学問、愛について/『骨と十字架』

 みんなエゴイストで傲慢で、純粋で強固で一心で己の正義に盲目的だったというか。でも信仰とはそういうものなのかもしれない。

 演劇作品である『骨と十字架』をありがたくも無料配信で視聴することができたので、映像系枠としてカウントしつつ覚え書きを残しておきます。

 セリフ回しや照明、舞台セットがほんとうに良くて、すべてのセリフを紙に書き留めて残したいという欲求に駆られたけど時間がなかったので断念した。
 こんなに丁寧で、慇懃無礼で、まるで飾り立てたかのような会話の応酬なのに、こうまで激しく心がぶつかり合うのかと思うと本当に良かった。リサンが加わったあたりで、好きだな…と謎の確信を得てしまった。
 切実に脚本がほしい…それか円盤。
 でも脚本自体は資料として閲覧できるという噂も聞いたので、藁にもすがる思いで探しに行こうと思います…。

 感想を書けば書くほど宗教や学問、信仰の何たるかについての私の理解のなさとか価値観が滲み出そうで憚られるのだけれど、まあでもその時思ったことも感想なので…。


 テイヤールと信仰

 テイヤールの信仰(テイヤールにとっての地平線、まだ見ぬ先に抱く畏れ、神々しき何か)って、つまるところ原初的な、宗教のように人間が見出し定義した概念的な存在ではなくて、たとえば大自然のような人智を超えた畏るべきもの、人がコントロールできない何か、恐ろしく強大で雄大なものに見出してしまう根源的な美しさ、神々しさ、崇拝、そんな感覚的な部分と通ずるんじゃないかなと思った。

 ただ、進化の先でいつか辿り着くだろう神のおわすところ、その果てに神と人間が同化するっていうのは解釈が難しい。

 進化論に魅せられた彼だからこそ、辿り着く彼方、まだ見ぬ地平線の先に、いまはまだ人知の及ばぬ叡智が、神がいると思っている。

 すべては連綿と繋がる一本道であり、過去・現在・未来のどの過程にいようと、神は人と共にある。その距離が近いか遠いかだけの問題であり、進化を続けるほど神に近づくということなのかな。

 進化というものが生命・肉体的なものを指すのか、科学や文明の発達を含んだ意味合いかで毛色が変わりそうだけど、後者なら自分の中で腑に落ちそうな気もする。

 実際、科学が進歩するほど神秘のベールは剥がれる(なんらかの事象に対して、科学的な説明を付けられるものが増える)し、神の真似事もできると思う。

 これまでは干渉できなかった領分、例えば創作でもよくテーマにされるようなクローン技術や生命の創造、人災なども近いんじゃなかろうか。技術的には可能になったとしても倫理的な問題がついてくるものとか。机上の空論にすぎなかったものが、ある日実現可能な領域に達してしまい、人間の領分を超えてしまったと思うこともあるのかも。

 テイヤールとラグランジュ

 ラグランジュだけがただ一人、テイヤールのそれを一つの信仰として捉え、向き合ってくれていたのが良かったな。
 信仰の中身は否定するし、理解しようともしないけれど、テイヤールの信仰心は己に匹敵するものだと認めている。
 だからこそ邪教として激しく糾弾したし、当のテイヤールが惑ってしまったのなら裁く価値もないって切り捨ててくれるのも良い。
 理解できずとも「あなたはそれを、信じておられるのですね」と口にしてくれるし、同じだけの信仰心を持っているからこそ、この私以外に誰があなたの隣に立てますか、正せますか(うろ覚え)と言ってくれるのがラグランジュであることに、好きすぎてジタバタしてしまった。

 「あなたにとって祈りとは?」から始まるラグランジュとテイヤールのやり取りも好き。そう問われたテイヤールが、無意識に地平線の先を探すかのように視線を上げ、一歩わずかに踏み出す様を見て、「その一歩だけなのですか」って強く厳しくいうラグランジュ、好きだな。

 最初はあまり腑に落ちなかったんだけど、複数回シーンを繰り返し見てようやく自分の中で整理がついた。その程度の信仰じゃ、畏れじゃ足りない、異端として裁く価値もないって言ってるんだよね。つまりラグランジュは、不本意だけれどテイヤールを見逃す。むしろ怒ってさえいるかもしれない。あなたの信仰はそんなものか、惑う程度のものなのかと。あの時のあなたは神をも恐れぬ恐れ知らずだったのに、と。

 と同時に、テイヤールへと気付きを与えるセリフでもある。己の信じる神が教会の神ではないといまだ気付かない(あるいは無意識下で気付かないようにしている)テイヤールに、考えるよりも先に踏み出していたその一歩こそ信仰の表れじゃないのかと、まるでテイヤールを焚き付けその背を押すかのようなセリフにも感じられて良かった。

 「その一歩だけなのですか」と言われたテイヤールの表情が変わり、ラグランジュに指摘されてようやく自身が一歩を踏み出していることに気づいたかのような顔をするところとか、特にそう思う。
 わずかでもその一歩を踏み出せたこと、その一歩をすでに踏み出していること、その自覚をラグランジュが与えて去っていったのかと趣が深い。その後ろ姿にテイヤールが深々とお辞儀するのもたいへん良い。

 最後のシーンについて

 だからこそ、最後にテイヤールがリサンと交わす「どちらへ」「神のもとへ」「どちらへ」「私の、神のもとへ」というやり取りも、テイヤールがかつて信仰していた教会の神から完全に袂を分かったことが明確に提示される瞬間だったのかなと思う。 

 検邪聖省のラグランジュはテイヤールの隣に立つことはあってもともに祈ってくれることはなかったけど、リサンはたとえ異なる神だろうと一緒に祈りを捧げてくれるのかと思うと泣いた。

 そしてテイヤールは己の神のもとへ歩き始めるし、リサンもまた己の神のもとに留まり続けるんだよ。リサンではその背を追いかけることはできないので…。
 その片手は彼自身の信仰を握るためにあり、間違ってもテイヤールのように両の腕で骨を戴くなんて真似は、どれだけ苦悩しようと彼にはできないので…。

 総長とリサン

 総長が終盤付近で、「私もまだ見ぬ大地を己の足で歩いてみたかった。どんなに羨んでも仕方のないことですね」ってリサンの頬をぺちぺちと叩くところ、ちょっと残酷だなと思ってしまった。
 リサンやテイヤールを追放したのはほかならぬ総長自身で、「得意げな顔を見せてほしかった」というけれど、それはあくまでも「テイヤール」のものが見たいのであって、リサンのものではないんだよな。

 テイヤールに見せたような想いは、心中がどうであれ、ついぞリサンには与えられなかったので。
 リサンは学問と信仰を分けて考えているので、テイヤールのように新たな発見に駆り立てられているわけじゃないから、どっちにせよ新発見なんてできない。
 だからこそリサンも、「私ならいくらでもお見せできましたのに。ですが偉大な発見には関わっておりませんので。非常に残念です」って返すの、まじで趣があるなと思った。

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