たどり着いた境地、舞い散る栄光/MUSICAL『ルードヴィヒ~Beethoven The Piano~』
スクリーン上映されたものを鑑賞したので、映画枠としてカウント。
序盤でボロ泣きして、カールのくだりの色んな意味のヤバさにぞわぞわして、クライマックスの『歓喜』の構図の美しさにただただ呆然としてしまったな。めちゃくちゃよかったです!
少年期、青年期、晩年期でそれぞれ役者が異なるからこそできる表現、セルフケア的な部分が私は大好きなので序盤からテンションが上がってしまった。
すがりつく少年期のルードヴィヒ、受け止め抱きしめる青年期の彼。ピアノを弾く喜び、純粋な衝動に胸を高鳴らせる少年期の彼を、優しい微笑みで見守り今もそうなのだとばかりに頷く晩年期のルードヴィヒ。優しげに愛おしげにピアノを撫でるその指先。
大人になったからこそ受け止め抱きしめられる過去の痛みや傷口、大人になった今でも捨てきれない感傷や愛おしさがあるのだと思う。
屋根裏から響くピアノの音が、怒声が、物音が、苦痛が、それでも決して途絶えることのなかったメロディが、彼の知らないところで、彼の知らない誰かの心を動かしていたのがあまりにも救いだった。
難聴により外界の音との繋がりを絶たれたことで、かつて父に強制された音楽ではない、内なる声、内なる世界、内なる自分だけの音に耳を傾け追求し体現していく様はすごい迫力だった。沈黙が耳を塞ぐという表現も好きだったな。
だけど決して己の世界に閉じこもるだけではダメで、あまりにも研ぎ澄まされ純化された熱量は他人には背負いきれず、簡単にその人生を潰してしまう。
ルードヴィヒ、完全にカールを飴と鞭で支配してて、見てるのが辛かった。
表現者としてのさがというかエゴというか、でもだからといって仕方のないことだ、とは到底言えない部分なので…。
しかも一番厄介なのが、すべて「愛してる」からという理由で一括りにしてしまうことだよね。「愛してるのに、全部お前のためなのに、どうして分かってくれないんだ」と罪悪感を抱かせてくるので余計にたちが悪い。
『歓喜』でヴェートーヴェンがたどり着いた境地、物語としてのクライマックスとともに、舞い散る薔薇がカールの散らせんとした命に重なって見えて、あまりの対比構造、上段と下段に立つ二人を繋ぐ構図にうわぁ〜〜!とひっくり返った。
ラスト、弾かれることのなくなったピアノに布が被せられ、降り積もったかつての栄光、薔薇の花びらがすべて地に落とされた時、舞台にたたずむ一台のピアノという構図がものすごくこう、なんだろうな、儚さというか静けさというか幕引きというか栄光もいつかは過ぎゆくものだとしみじみと感じさせる何かがあったな。
自分が音楽界を担わなければ、次世代に引き継がねばと暴走してしまっていたルードヴィヒだけど、彼の知らないところで、彼の行動に関わらず、次世代の芽は育っていたというラストも好きだった。
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