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心の宿る先、映し出されるもの/『さらば、わが愛 覇王別姫』

 公開30周年、レスリー・チャンの没後20年という節目に再上映があったこと、今このタイミングで立ち会えたことに心の底から感謝した。
 でなければ映画館で初めて「さらば、わが愛 覇王別姫」を鑑賞するという機会、なかなか巡り会えなかったと思うので…!

 3時間という長尺もあり他の予定との折り合いがなかなか付かず、このまま諦めてしまおうかとも考えていたので、スクリーンで観ることができて本当に良かった。
 もし観るのを諦めていたらと思うとゾッとするし、配信がないことも知ってさらに背筋が冷える思いだった。



 遥かなる歴史と、その担い手たる個について


 激動の時代。そんな教科書の言葉をなぞるだけでは到底想像もつかなかった世界に衝撃を受けた。5文字の言葉だけでは言い表せない本質を、叫びを、誰かの生の営みを、スクリーンからぶつけられたような気がする。

 変わるもの、変わらないもの、その狭間で揺れ動く人々の悲喜交交をミクロ(京劇の役者)の視点で追いかけながら、これほどの出来事がたった半世紀の中で起きたという事実がまず何よりの衝撃だった。

 私は20世紀の終わりに生まれた人間なので、特にそう感じてしまうのかもしれない。でもまだ100年も経っていないんだよ。

 京劇に生きる彼らの人生、心をこうまで儚く繊細に描き出す一方で、時代の荒波、その変遷とうねりさえもまざまざと浮かび上がらせてしまうのかと、観賞後、しばらく呆然としてしまった。

 蝶衣と菊仙

 蝶衣と菊仙の関係が私の心の一番柔いところに突き刺さってしまい、致命傷となった。2人とも同じ人を巡ってばちばち火花を散らしてはいるんだけど、ふとした瞬間に互いへの情を滲ませるものだから、私の情緒がぐしゃぐしゃになってしまう…。

 なんだろうな、アイデンティティというか、自己を強く形成する核ないし矜持だからこそ、本当は最も柔くて繊細で、そんな弱みとも取れるような部分に寄り添ってくれるのは小楼ではなく気に食わない相手なんだよなと思ってしまった。

 阿片で中毒症状に苦しむ蝶衣が「寒い、寒いよ……」とずっとうわ言を呟き続けるシーン、きっとあの寒くて身を切る刃の冷たさも、抱きしめてくれる誰かがいなかった過去の古傷も蝶衣を苦しめていたと思うんだけど、そんな震える蝶衣を布でくるみ、抱きしめる菊仙の姿が作中で一番強く印象に残っている。

 女郎の母に捨てられた蝶衣を、元女郎で子を亡くした菊仙が抱きしめる構図、あまりにも含みを持たせすぎでは、と思うんだけど、でもやっぱり人の優しさと温もりを何よりも感じられて泣いてしまう。

 小四にはめられ、最悪の形でたった1人舞台裏に取り残される蝶衣のシーンもすごかったな…。
 誰一人、小楼に冠(仮面?)を自分の手で渡せなくてどんどん隣の人に押しつけていくんだけど、蝶衣が最後にその冠を受け取り、小楼に差し出すのがあまりに見ていて苦しかった。
 しかも、表舞台に出る役者たちの列に逆らうようにして佇む蝶衣が、まるで時代の波に置いていかれ零落していく象徴のようにも感じられて、とんでもない対比だなと思った。

 そうして舞台裏に取り残される蝶衣に、菊仙だけが唯一上着を着せ掛けてあげるシーン。
 「ありがとう、姉さん」って初めて彼女を認める言葉を口にしながらも上掛けを床に落として去っていく蝶衣に、ほんとうに人間の心って複雑で、だからこそこんなにも一挙手一投足から目が離せなくて、鮮烈な印象を残していくんだろうなと思った。たとえ矛盾した感情だろうと、相反しせめぎ合うほどの強い想いを抱えているんだ…。

 だからこそ、蝶衣の強さが際立つシーンでもあったのだと思う。捨てられない矜持があるからこそ、まるで時代の波に逆らうかのように舞台裏に留まり、一人袖口からはけていく。その背を、菊仙だけが見送ってくれるるんだよ…。

 蝶衣の剣を菊仙だけが大事に扱ってくれていたのも、自殺した菊仙を見て蝶衣が半狂乱になっているのも、相手に向ける人情がどうしようもなく滲み出していて、本当に辛かった。
 蝶衣、首を吊る菊仙の足元に縋り付いて離れなさそう。そうして周りから「何やってるんですか、彼女を下ろすのが先でしょう!」ってひっぺがされててほしい。

 菊仙のことを女郎だと蝶衣がきつく責め立てるのも、自分の指を切り捨て養成所へ置いていった母を重ねているのかと思うと辛い。女郎の子と蔑まれ、パトロンに身を売る蝶衣も、やっていることはそんなに変わらないと思っているので、本当にこの二人は似たもの同士だなと思う。同族嫌悪する一方で、仲間意識も持ってるんだよ、きっと。

 でも蝶衣、菊仙の前だとめちゃくちゃ大人気ないというか子供っぽくなるところ、好きだな。
 逮捕された小楼を救出しようと身支度まで整えた蝶衣が、菊仙が訪ねてきた途端スンッと椅子に座り直すどころか、菊仙の話なんか興味ありませんとばかりに装飾品をいじいじし始めるところ、つい笑ってしまった。

 印象深いシーンについて

 蝶衣が小四を激しく躾ようとするところ、自分がされたことを繰り返すんだな…となってしまった。
 それしか術を知らないし、蝶衣自身、少なからず芸事に関して師匠のおかげで得るものがあっただろうから、余計に小四へ繰り返してしまうんだろうと思う。
 辛い修行から逃げ出した幼き日の蝶衣が、当時のトップスターである京劇役者の覇王を見て涙を流し、「いったい何度打たれたのだろうか(うろ覚え)」と思うのも、その苦難の先に掴み取れる境地だと思っているからじゃないかな。その栄光を掴み取るためなら死ぬまで打たれ続けてもいいという覚悟が、自殺を選んだ小癩との対比でもあり、蝶衣をトップスターにまで押し上げたと思うので…。
 今の蝶衣を否定することは、耐え忍び必死で食らい付いてきたこれまでの自身をも否定することになってしまうのだと思うと、あああ…と顔を覆うしかない。
 毒親育ちの子は毒親になるという負の連鎖…。

 菊仙の首吊りもショックだったな。
 彼女がどれほど高層階から飛び降りようと受け止めてくれるはずの人がいなくなってしまったのだから、こうなることは自明の理だったかもしれないけれど…。

 菊仙と結婚した小楼に対し、袂を分かつと宣言した蝶衣が舞台の上に立つも精彩を欠いた芝居になっている場面で、レスリー・チャンの演技力の高さに衝撃を受けた。
 もちろん爪の先の先まで神経を張り巡らせているのは分かるし、見惚れる美しさなんだけれど、蝶衣の魂が付いてきていないんだよ…というのを演じ切れるのか、レスリー・チャン…すごすぎる…。

 そしてラスト。11年振りに覇王別姫を演じるという彼らの対照的な立ち居振る舞いに、ついぞ彼らの歩んだ道のりが交わることはなかったのだと察せられて切ない。

 「現実と虚構の区別がついていない」と言われた蝶衣だけど、むしろその逆なのだと思う。
 虞美人の死をなぞるように刃を首に押し当てた蝶衣は、小楼(もはやかつてのような覇王の面影もない)に殉じようとしたわけではなく、むしろ愛とともに幕を下ろすと決めたのは虞美人であり蝶衣なのだというひとかたならぬ矜持、反骨の意思を見せつけるようでもあったなと。
 そうして『覇王別姫』は、覇王の物語ではなく、虞美人の、そして蝶衣の物語として幕を下ろす。
 運命に翻弄され、こうやって終幕を迎えることは必定だったのかもしれないけれど、たしかにこの物語の主役は蝶衣だったのだと強く思わせてくれるようなラストだった。

 レスリー・チャン、あれだけの演技をしてしまったら果たして現実に戻ってこられるものなんだろうか、と思ったけれど、パンフレットの陳凱歌監督の言葉を見て名状しがたい何かが胸に詰まってしまったような感覚がある。

彼はきっと自分の命と引き換えに、程蝶衣という人物を得たのではないでしょうか。

『さらば、わが愛/覇王別姫 4K 』劇場用プログラム


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