「羽衣なんか灰にして、愛してるって言ってほしいの」1話完結
-----------あらすじ-----------
新社会人になったばかりの榎本有紗が嵐の夜に拾ったのは、光り輝く赤子ーー翼のない天使だった。
赤子なんて拾うわけない、しかるべきところに届けよう。そう意気込んだのも束の間のこと、書き換わった世界ではなんと、天使が正真正銘の家族になっていた。
天使を人の子として育てる有紗だが、本当のことは何一つ打ち明けられないまま、月日だけが流れていく。
そんなある日、天使の誘拐事件が起こる。奇しくもそれは、天使の十四回目の誕生日だった。
のっぴきならない想いを抱えた二人が辿り着く結末とはーー?
-----------本編-----------
バチが当たったのだと思った。
おとぎ話の彼らのように、タブーを破った私におあつらえの罰だ。
逃れようもないし、逃れたくて逃れられるものでもない。
かたかたと震える指で握りしめた拳銃を落とすまいと必死で持ち上げた。
銃の持ち方なんて知らないし、そもそもなんでこんなものが中学校に転がってるのとか、ましてや撃ち方なんて知るわけないでしょとか、キレたいことは山ほどある。
でも、そんなことはどうでもよくて。
大切なのは今、彼女を拐ったクソ野郎がニヤけた面を晒し、無防備に立っていること。
肩の高さまで持ち上げた銃口の先で、男がさらに笑った。
「実弾をこめても変わらない。そうでしょ?」
「……え?」
先ほどとは打って変わって、天上の楽の音のような声が耳を打つ。
女の子の声だ。
「天使も甘やかせば小悪魔になりますよ」
その瞬間、目の前で笑っていたのは、私のよく知る天使だった。
**
榎本有紗に家族が増えたのはもう十何年も前のこと。天使を拾ったのだ。
『天使』というのも最初は比喩表現に過ぎなかった。
土砂降りの雨の中、彼女があまりにも光り輝いているように見えたから、彼女をいつしか天使と呼んでいたのだ。
新社会人になって迎える初めての台風の日だった。
日本地図の大半が赤と黄色に埋め尽くされる中、私の地域だけはしぶとく警報一歩手前の注意報を保ち続けていたことを覚えている。
それでも吹き付ける風は容赦なく傘を引き倒し、歩道を浸水させていた。
残業帰りの私はくたくたで、傘を差す気力もなかった。
それでも『彼女』に視線を奪われたのは、それだけその光景が強烈だったからだと言える。
ほとほとのていで帰り着いた賃貸アパートの花壇の一角。
申し訳程度に植栽が水を弾く中、ぽつねんと捨て置かれた赤ん坊が、それでも淡い光を纏ってそこにいたのだ。
「赤ちゃんポストにしてはタチ悪すぎでしょ……」
赤ん坊を包む真っ白な布が光っているように見えただけかもしれない。
それでも、常とは異なるシチュエーション、叩きつけるような大雨の中、こんなにも似つかわしくない場所に赤ん坊がいるという光景そのものが非現実的で、だからこそ、まるで彼女が現実を超えた存在のようにも見えたのかもしれない。
端的に言えば、私はそれだけショックを受けていたのだ。
何か事情があったのかも。こんな日に、こんな場所で赤子を捨てざるを得なかった理由。 杜撰にも思える扱いは、すぐにも誰かが迎えにくるからかもしれない。一時的な避難場所として植木の下が選ばれたのかもしれない。
今すぐにでも彼女の保護者が姿を現すーーわけがないから、彼女は今もこうして雨に打たれ続けているのだ。
……ほら、やっぱり捨てたんじゃん。
こんな台風の日、誰も通らないような、誰が通りがかるかも分からないこんな場所で?
「何で見つけちゃったんだろ……」
トイレに金魚を流すような、お世辞にも正気とはいいがたい蛮行だ。一生に一度遭遇するかどうかの確率だ、多分、きっと。
ふとかぐや姫の物語を思い出した。竹取の翁は竹の中から光るお姫様を見つけ、その手に抱き上げる。
じゃあ私は? まさか、おとぎ話のキャラクターなんて柄じゃない。
私の人生に一度あるかないかの転機なんて必要ないし、第一、私には何もできないし、してあげられることもないのだ。
命を拾うのは簡単だ、じゃあその後は? いったい誰が責任を取るのか。
ましてや彼女は赤ん坊だ。完全に私の手には余る。
でも、私の足は動かなかった。
さっさと立ち去って見なかったことにすれば良いのに、私はその赤ん坊から目を離すことができなくなっていた。
たったひとり、植栽の影に隠れる赤ん坊は、泣くこともなくじっと身を横たえている。
せめて赤ん坊が泣き喚いてくれれば、きっと私も見知らぬ誰かをなじれたはずだ。 あるいはもう少し冷静でいられたかもしれない。
そうだよね、こんなの酷いよねってうわっ面だけの同情をして、顔も知らない誰かを一方的に責め立てて、間違っても彼女を連れて帰るようなことはしなかったはずなのに。
彼女は極めて穏やかに眠っていて、捨てられたとは夢にも思っていなさそうだった。
子供を拾っても許されるのは創作物の中だけ。
現実じゃ誘拐犯として地方紙の隅の賑やかしになるのがオチだ。
「拾う」という選択肢は存在せず、かといって見なかった振りをするには、ささやかながらの情が邪魔をする。
ふらり、と引き寄せられるようにして一歩前にのめり出した足は、やがてもつれるようにして早足になっていた。
バカをしないで私。そんなことより可及的速やかに、然るべき場所へ連絡するべきだ。
でもどこへ?
警察、福祉施設、ああそうだ、きっと役所が助けになってくれるに違いない。
そもそもこの子が迷子である可能性も……万に一つもないとはいえ、あるにはあるのだ。
ああでも落ち着いて私。
こんな台風の日に、私でさえ身震いする夜に、吹けば飛ぶような命を放置するのか。それこそ人道にもとる行いでは?
ぐるぐると回り続ける思考は、やがて台風の目となり、静寂に満たされる。
もう一度、赤ん坊を見た。
今にも手が届きそうな距離にまで近づいた私は、その瞬間だけ、まるで天気の良い休日の昼下がり、窓から差し込む陽の光の下に迷い込んだような錯覚を覚える。
穏やかに微睡む赤子の、呼吸するたびに上下する胸元が祖父の最期を想起させて、ぎゅっと心臓が音を立てて縮こまった。
死を悟ったものが見せるような穏やかさ。それに近しいものを感じとってしまい、無我夢中で手を伸ばす。
「……ダメだよ、いかないで」
赤ん坊の抱き方なんて知らない。だけど私は一心不乱に赤ん坊をかき抱き、命の温かさを感じ取ろうと必死だった。
とくん、と心臓の脈打つ音が、叩きつけるような雨音に紛れて聞こえる。
「……あは、生きてる」
だったら、うちに連れて帰ろう。
温かいお風呂に浸かって、今日のことは雨と一緒に流してしまえばいい。
清潔で乾いた服に着替えて、それからほんの少し肩の力を抜く。警察へ駆け込むのはその後でもいいはずだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから……」
言い聞かせるようにして呟く。 今にして思えば後の祭り。
何をするにしても真っ先に警察へ連れて行くべきだったのに、私は彼女の手を取った。
その結末がこれならば、罰を受けるべきは私だけで良かったはずなのに。
両手で抱き上げた赤ん坊は、その時初めて小さな目をぱちりと開いた。赤子とは到底思えない、深い雨の色を映している。この子には、こんな台風でさえ、恵の雨に見えているのかもしれない。
不思議なことに、これだけの土砂降りの雨の中、赤子のまとうおくるみだけは不思議な手触りをしていた。
少しも湿っていないし、羽根のように軽いのだ。雲のように柔らかく包み込まれた赤ん坊は、まるで殿上人のように触れがたい雰囲気を纏っている。
抱き直した拍子に、赤ん坊が少しだけ表情をくしゃりとさせた。私は慌ててぎこちなく赤ん坊の背を支え、アパートのエントランスへと足を向ける。竹取の翁のように、私は彼女を連れて帰った。
**
就職とともに越してきた新居は、一人で住むのがせいぜいのワンルームだ。
脱ぎ散らかしの服はおろか、買ってきたものをごちゃごちゃと床に並べているうちにどんどんと積み上がっていった山は、いまさら崩すには気が滅入る。
生活感と引き換えにオシャレさを手放した私は、椅子の上に掛けっぱなしだったタオルを引っ掴み、赤子を上から包み込んだ。
どうやら女の子のようだ。まじまじと赤ん坊を眺めながら、私は「ううん?」と首を捻った。
「ほんとに濡れてないな……」
おくるみはもちろん、赤ん坊の肌はすべすべしている。
理想の肌だ。植木が万能の傘にでもなったのだろうか?
「ま、いっか」
ただでさえ仕事終わりで疲れ切っているのだ。余計なことは何も考えたくない。
湯船にお湯をため、浴室で赤ん坊の服を脱がせる。その真っ白な背を見て、私は「ひっ……」と思わず声を上げた。
「な、なにこれ……」
赤ん坊の小さな背には、やけただれたような赤黒い傷跡があった。瘡蓋のように皮膚が盛り上がっている。まるで羽根をもいだかのようだ。
「ひどい、なんでこんなこと……」
赤ん坊があんなところに捨てられているだけでもショックなのに、許容量を超えるダメージだ。完全に思考が止まってしまう。
そんな私の心の荒れ模様を知ってか知らずか、赤ん坊は今もすやすやと眠り続けている。少しも泣き出す素振りを見せないまま、こんこんと私にその小さな身体を預けていた。
結局、私も一緒に湯船に浸かった。自分の身体の世話なんかしたくないが、半分閉じた目を必死の思いでこじ開けながら寝る支度を済ませ、ベッドになだれ込む。
疲れ果てた私は、腕の中に赤ん坊を閉じ込めたまま、うとうととまどろんだ。
赤ん坊の体温は心地いいほど温かくて、先ほどからちっとも声を上げない赤子の唯一の生存証明でもある。
あのまま雨にさらされ続けていたら、今頃は冷たくなっていたかも。
そう思うと安堵の念が込み上げてくる。やはり家に連れて帰ってきて正解だった。 ほっと少しだけ気が抜けて、私は赤子の柔らかな肌に顔を埋める。窓を勢いよく叩く雨粒の音を聞きながら、緩やかに意識を手放した。
次の日の朝、まさしく世界が変わっているとも思わずに。
**
アラームではなく、窓から差し込む光で目が覚めた。いつもは重たいカーテンに遮られた朝日が、私の目を突き刺すようにして飛び込んでくる。
おかしい、昼になろうとカーテンで遮られた部屋は真っ暗のはずなのに……。
自然光で目覚めたからか、いつもより頭がしゃっきりとしている。
寝汚い私は枕を抱きしめながらも身体を起こし、半目で見た壁掛け時計に仰天した。
「うわ、やっば?!」
常ならば始業している時間帯だ。突然の体調不良で休むにしても、もう少し早く連絡しろと小言を言われるのは間違いない。
うわー、と一瞬意識を飛ばしかけた私を引っ叩くようにして、スマホの着信音が鳴り響いた。慌てて飛びつけば、液晶画面には上司の名前が表示されている。
こういう時、会社の人と連絡先なんて交換したくないなって思う。
「おはようございます……」
だが、電話に出るなり、予想に反して穏やかな声に先手を取られた。
「ああ榎本さん、大丈夫ですか? 体調不良?」
「え、あ、そうです! すみません、連絡が遅くなってしまって……」
かしこまる私に、電話口の向こうの上司が快活に笑う。
「いいよいいよ、欠勤だけど、今日は休んでもらっていいから。昨日も遅かったでしょ。台風だったしね。ちょうど土日だし、治しておいでね」
いや誰だお前。 これまでの勤務態度が報われたとでも言うつもりか?
たしかに私の勤務態度は、見た目っていうか金髪にしてる割にはこの上なく真面目だが、そんなこと言うような上司ではなかったはずでしょ?
解釈違いで釈然としないまま、上司の言葉にこくこくと相槌を打つ。
上司との通話を終えた私は、後ろから勢いよくベッドに倒れ込んだ。
(欠勤〜〜っ!)
新社会人の身の上、まだまだ有給は与えられていないのだから、当然といえば当然だが……。人助けに比べたら、私の1日分の働きなんてきっと安いものだ。
……あのまま赤子を捨て置いていたら、きっと私は罪悪感でベッドから起き上がることもできなかっただろう。
放心したように天井を仰いでいれば、くしゃくしゃに丸まった布団がもぞりと動いた。ギョッとして凝視すれば、もぞもぞとさらに動いた後、赤ん坊がちらりと顔を覗かせる。
良かった、押し潰してなかった!
ホッとしながらも、私は赤ん坊の目に吸い込まれるようにして見つめ返した。
こちらを見上げるくりりとした丸い目には、いったいどんな世界が映っているのだろうか。そんなことを思わせるほど、彼女の瞳は美しく、まるで桃源郷に咲く花のような色をしていた。
**
榎本有紗。二十三歳。
地方の大学を卒業後、それなりの田舎からちょっとした都会へと就職を機に引っ越した。 兄弟姉妹もいない一人っ子、自由気ままに一人暮らしを謳歌していたはずなのに、未知の存在である赤子を相手にしているのだから、人生って何でもありだ。
上手なお座りを披露してくれたことから、ネットで調べてようやく生後七ヶ月頃かもしれないという知識を得る。
まずは最寄りの交番だ。駆け込み寺ならぬ現代の砦。
地図アプリで場所を確認し、赤ん坊を連れて外に出た。
台風が何もかもを連れていったようで、抜けるように青い空には一点の曇りもない。 赤ん坊は先ほどからうんともすんとも言わず、ただ私に身を委ねている。その透き通るような目だけが、忙しなく行き交う周囲を静かに追いかけている。
交番についた私はおっかなびっくり、恐々と辺りを見回した。
さまざまな張り紙のうち、ポスターの中の指名手配犯と目が合う。
そっと視線を外しながらも、どんどんと心細くなってきた私は、腕の中の赤ん坊をぎゅっと抱きしめた。
やはり昨夜、この子を連れて帰るべきではなかっただろうか。
肩を落としつつ、お巡りさんに案内されるまま、赤ん坊を拾ったこと、まずは自分の家に連れて帰ったこと、それはこのままだと赤ん坊が低体温症になってしまいかねないと思ったからで、決してやましいことは何一つなかったのだと、諸々の事情を説明する。
けれど返ってきたのはてんで意味不明な回答だった。
「でも、あなたの家族でしょ?」
「はい?」
噛み合わない会話に、お互い首を捻り合う。
「あの、さっきから言ってますよね。アパートの下でこの子を拾っただけで、一旦は家に連れて帰ったけど、うちの子じゃありません」
「でも、巡回連絡カードにはあなたの家族として記入がありますよ」
「はい?」
むしろ私の心配をされる始末だ。
第一、巡回連絡カードとやらを書いた覚えも、家に警察官が訪れた覚えもない。
さらに雲行きが怪しくなったところで、私は逃げ帰るようにして外に出た。
「なんでなんで……え、なんで?」
あまりの動揺に早足になる。アパートのエントランスに着いたところで、隣の部屋にすむ顔見知りのお姉さんと遭遇した。
なんだかんだで生活リズムが似通っている彼女とは、近くのスーパーで、特に値引シールが貼られ始める時間帯によく顔を合わせる。
「あ、今日も可愛いですね〜」
今日も?
出会い頭に一撃を、それも前や後ろからではなく、完全に予想外の横っ面から食らってしまったかのような衝撃だった。一瞬、頭が真っ白になる。
この流れ、さっきも見たぞ!
「え〜と、なにちゃんでしたっけ?」
「は? え、いや、その……」
「ああっ、思い出した! 美栗ちゃん! 可愛いお名前ですよね〜!」
知らないよ美栗ちゃん。何であなたが思い出してるの?
警察の人と同じ回答しないで。
唖然としている間にも、「それじゃ〜!」とお隣さんは日傘を片手に颯爽と外へ繰り出していった。
怒涛の流れに面食らったまま、私はようやく部屋へとたどり着いた。玄関のドアを施錠すると、大きなため息とともに壁へもたれかかる。
「まじで意味分かんない。何がどうなってるの……?」
一つだけ確かなのは、なぜだか不思議なことに、誰もがこの子を私の家族だと信じて疑っていないことだ。
誰がなんと言おうと私は一人っ子だし、一人暮らしだし、間違っても自分が育てなければならない赤子を引き取った覚えもない。
だけどこの世は多数決だ。
遠縁の遠縁の親戚の子を引き取ったことになっている私は、育児に仕事に大忙しらしい。
でもそれって赤の他人じゃん。
わけが分からないのはこの状況の方なのに、周囲からすれば、今さら変なことを言い出した私の方が意味不明らしい。
誰もがこの子を私の家族として受け入れている。おかしい。
私だけがはみ出しもののようだ。間違っているのは私の方?
何もかもが分からなくなり、今立っている地面がぬかるんでいるようにさえ思う。それでも私は現実に戻らないといけないのだ。
すやすやと眠る赤子をベッドに寝かしつけ、途方にくれながらも、疎かになっていた家事へと手をつける。洗濯機の中に腕を突っ込み、洗濯したまま置き去りになっていた衣服の束を引っ張り出した。
その拍子に、赤ん坊の纏っていた衣服のポケットから何かが転がり落ちた。
ネックレスだ。何か薄い紙のようなものが挟まっている。
ーー天使を拾った。
二度目のそれは、今度こそ、本物だと分かったからだ。
『翼あるもの、天の園への証を示せ』
ざらざらとした手触りのそれは、まるで大昔の書物のように達筆で崩された文字で記されているのに、すらすらと頭に入ってくる。
手書きのような質感だが、印刷物のような無機物さがあった。
くしゃりと手紙を丸めてしまう前に、私は努めて指先から力を抜いた。
天使とやらは随分と人間を買い被っているらしい。
第一印象はそんなもので、可もなく不可もなく、ただ胸の底をざらりと撫でるかのような不快感がほんのひとしお。
それとも天使らしく、純粋無垢に性善説を信じているのだろうか。
だとしたら天使ゆえの傲慢さだ。
「大切な子供を預けるんだから、良い性格してるよ」
赤ん坊が天使だというならば、この不可解な現象もまだ信じられるというもの。
なぜ私が選ばれたかはきっと問題じゃない。天使からすれば人間なんてどれも有象無象で、誰に預けようと、赤子はいつか天に帰る。
たまたまかぐや姫にとっての「誰か」が竹取の翁だっただけ。
彼女にとっての「誰か」もまた、私だっただけだ。
そうやってすぐに受け入れられたのも、とっくに私が手遅れになっていたからかも知れない。すでに天使に魅了された私は、彼女を抱き上げた時点で引き返せないところにまで来ていた。物語はすでに始まっているのだ。
赤子の背には、まるで羽根を引きちぎられたかのような傷跡がある。
でこぼこと盛り上がったそれは、天使の柔らかく透明感のある肌から浮いていた。
「私の可愛い天使ちゃん」
気が付けば転がり落ちていた言葉は、深い実感となって私の胸に沈みこむ。
私の人生が大きく変わったのだとしたら、それはきっと、彼女を見つけた時でも拾った時でもない。今この瞬間なのだとなんとなく思った。
彼女は私のものではないし、本当の家族でもないけれどーー。
「いつか本当に愛してるって言えたらいいね」
赤の他人同士でも。この胸に淡く芽生えた温もりが、いつかこの子に肯定されてほしい。
そう、本当の家族のようになれる日がくることを祈っている。
**
なんて一歩斜に構えた態度を取っていた私だが、落ちるのは一瞬だった。
「あ、また私のモンブラン食べたな?! 小さいのに舌だけは肥えてるんだから! 可愛い!!」
十年が経つころにはすっかり親バカになり、目に入れても痛くないほどデレデレに甘やかしている。
新しく買い替えた二人用のリビングのテーブルは、彼女が成長するにつれ、少しずつ手狭になっていく。そんなところさえ愛おしい。
ケーキの包み紙だけを残した彼女は、あっさりとした調子で返した。
「有紗ちゃんのモンブランは食べたけど、私のショートケーキはまだあるよ。はい、交換こね」
流れるような手つきで皿を交換され、危うく流されかけたところで首を横に振った。
「いやいやいや、そうだけどそうじゃない! アルコール入りなんだけど?!」 「うん、知ってる。でも大したことないでしょ、ほら、平気」
「顔真っ赤にしてたくせに!」
「いつの話なの、ほらほら座って」
皿とフォークを手渡され、私は渋々席についた。
名は体を表すという言葉通り、いつの間にか「美栗」という名を持っていた彼女は栗が大好きだ。ギャン泣きしているときにマロン系のお菓子を差し出せば一発で泣き止むーーという話はどうでも良く、彼女はそれぐらい早く成長して、私を不思議がらせた。
赤ん坊だったはずなのに、五年も過ぎる頃には中学校へも通えるほどに成長したのだ。
人間でいうところの物心がついたあたり、はっきりとした自我を持ち始めた付近で、目を見張るような成長は緩やかになっていった。
戸籍もいつのまにか登録されていて、現在、彼女は市立の中学校に通っている。
風邪はおろか、病気にかかることもなかったから、私は恵まれた。
子育ては並大抵の覚悟でできることではないし、ましてや仕事をしながらなんて、私には到底無理だった。
かといって働かずに生きていけるほど蓄えがあるわけでもなく、この十年は本当に波瀾万丈だったと振り返られるだろう。
本当にいろんなことがあったし、数え上げればきっと、思い返したくないことの方が多い。それでも何とかなったのは、周囲の理解と協力を得られたからだ。
たったひとり、彼女と二人きりにさせられていれば、きっと私は詰んでいた。
天界とやらの天使を憎んで一家心中していたかもしれない。
人間としての最低限の生活を保つ手間暇とお金さえ赤ん坊に回しながら、すくすくと育つ彼女を見守った。
腰まであるさらりとした黒髪、透き通るような白い肌。
パチリとした目は利発そうに瞬き、贔屓目なしで美少女だ。
家族仲も良好。……拾い子なのだと打ち明けていない罪悪感が募る一方で、彼女は私を有紗と呼んだ。
家族でありながら、家族としての呼び名で呼ばれることはない。そもそもの話、母でもなく、姉でもなく、妹でもなく。叔母でも、従兄弟でも、血が繋がっているわけでも、パートナーでもない。だったら私たちは何なのだろう。
時たま、そんなことを考える。
口にはできない秘密を抱える中で、この子は時折、すべてを悟ったかのような目で私を見るのだ。
「ねえ有紗ちゃん、食べないの?」
はっとして彼女の顔を見る。
「ごめん、ぼうっとしてた」
「お疲れだね、今日の晩ご飯、私が作ろうか」
「天使じゃん、好き」
「知ってる」
にこにこと笑う彼女は嬉しそうだけど、最近、大人びた顔をするようになった。頬杖をつきながらこちらを見る視線はどこまでも優しい。
曖昧に笑い返して、私はショートケーキに手を付ける。一口含むごとにまるで砂糖の塊を飲み込むかのように胸が苦しくなる一方で、胸焼けするほど甘く愛おしい日々がいつまでも続いてほしいと思う。滲む涙の味に気付かないふりをして、飲み下した。
この手の話には犯してはならないタブーがいくつも付きまとう。
見るな、開くな、振り返るな。
でもタブーを破るのが人間で、それはきっと今も昔も変わらない。
では、私と彼女の間にあるタブーはいったいどんな形をしているのだろうか。いつかは天に帰さなければならない天使。だとしたらーー。
「愛しちゃダメ」
情を抱けば抱くほど手放しがたくなる。天に返すのが苦痛になる。
でもそんなの手遅れだ。私はこんなにも、彼女を愛してしまっているのに。
**
最初の変化に気が付いたのは、美栗が中学に上がった頃のこと。
赤ん坊の時から美栗の背には翼がもぎ取られたような痕があって、成長を重ねても傷跡が薄くなることはなかった。
だけど私は、美栗自身から見えない位置にあるのを良いことに、その背の傷跡を意図的に隠し続けた。
「あんたは昔から天使だったのよ。いや、かわいいという概念そのもの」
「有紗ちゃん、そればっかり」
「だってほんとに可愛いんだもん!」
私が駄々をこねる一方で、彼女は大人びた顔で薄く笑う。これじゃどちらが子供か分かったものじゃない。でも彼女は年相応のようでありながら、時折、泰然とした雰囲気を纏うことがあった。
「ねえ、見てこれ。可愛い?」
その日もそうだった。彼女は何かを思い出したかのように小首を傾げると、私が何かを言うよりも早く自室へと引っ込んだ。
次いでその小さな顔をのぞかせた時の衝撃といったら、まるで心臓を罪悪感で一刺しにされたかのようだった。
まるで見せつけるかのように、彼女はランウェイを歩くモデルのように部屋から現れる。そうして私に背を向けながら、彼女はあまりにも無邪気な笑顔で言ってのけたのだ。
「お店で見つけたんです。可愛いでしょ」
「え……」
黒い小さな翼だった。 飛ぶことはおろか、宙に浮かぶのも苦労するだろうそれは、よくよく見れば大したことのないただのおもちゃだ。
スマホと財布が入れば十分といったサイズのリュックサックに、翼をあしらった飾りが付いているだけ。いかにも量産品といったそれを、本物と見間違えるだなんて。
じわりと滲む冷たい汗を拭う間もないまま、私はその場に固まり続けていた。
「ね、今度どっか行こうよ。夢の国でもいいですよ。お揃いコーデね、私が悪魔で、有紗ちゃんが天使!」
「はは……天使なんて荷が重いな。人間役でいいよ」
「えー? 絶対似合うのに。有紗ちゃん、金髪だし」
そうだね、と誤魔化すように笑う。
学生時代から染めてきた髪は、一度、彼女が赤ん坊の時にばっさりと切り落とした。腰丈まであった髪だが、手入れをしている暇も余裕もなかったからだ。
それでも彼女が成長するにつれ徐々に伸ばし始めていた髪は、ようやく元に戻りつつある。
「……その鞄、気に入った?」
私はあえなく口にした。 彼女は一瞬、目をぱちくりと瞬かせて、いつもの笑顔で言う。
「うん、とっても!」
「なら良かった」
何とか言葉を絞り出したものの、手の震えは治らなかった。
大丈夫。彼女の背に本物の翼は生えていない。天の扉はまだ開かれない。 でも、本当は天へ帰りたがっているのだとしたら?
ーーううん、そんなはずはない。
だって私は、彼女の正体も、なぜ拾ったのかも、血の繋がりがないことも、いつかは天に帰さなければいけないことも、何一つ話していない。
偽りの関係を保ったまま、その日を先延ばしにしようとしている。
ああでも。予感がするのだ。その日は近い。きっとすぐにも訪れる。
だからこそ、時々、彼女の笑顔が恐ろしく感じる。
嫌だ、帰らないで。私を一人にしないで。
なんて言えるわけもなく、私は卑怯にも口をつぐみ続けるのだ。
**
彼女はあの鞄が気に入ったようだった。いつでもどこでも持ち歩くようになり、黒地だから汚れが目立つ。見かねた私は「洗濯するから」とリュックを預かったものの、小さな黒い翼を直視してしまい、固まった。
「あ…………」
見てはいけないものを見てしまったかのように、あるいは蛇に睨まれた蛙のように、からからと喉が日上がっていく。
このリュックを背負っている彼女は、本当に天使のようだ。似合っているし、何より可愛い。だからこそ、偽物の翼だなんて到底思えないのだ。
こんな翼で空が飛べるものか。でも、だけどーー。
「ばかばかばか、何考えてるの」
私は慌ててかぶりを振った。
落ち着け、私。
もしも、もしも翼があったとして、私は快く送り出せるはすだ。
あの日のことを思い出せ。たまたま彼女を連れて帰っただけで、私は竹取の翁のようにはならない。彼女を地上に繋ぎ止めるような真似だけは決してしないと決めたはずだ。
洗面所へ向かおうとキッチンの前を通り過ぎる。出しっぱなしのハサミが目に入って、仄暗い考えがちろちろと忍び寄ってきた。
「っ……!」
衝動に飲まれるよりも早く、私は手近にあったガラスのコップをシンクに叩きつけた。ガシャンと音がして、破片が散らばる。
見るも無惨な光景を前にして、ようやく頭が冷えた。
「バカなの私、それだけはダメでしょ……」
はあはあと荒い呼吸を必死で宥めながら、ずるずると頭を抱え込むようにして座りこむ。
私は今、何をしようとした?
こんな翼、切り落としてしまえばいいってーー
「思うわけないでしょ、そんなこと……」
思っていいわけがない。
私は彼女の幸せを願っている。彼女が幸せならそれでいいと、本心から思っている。
だって天使なのだ。こんなところにいるべきじゃないのだと、本当の家族が彼女を待っているのだと自分に言い聞かせてきたし、これからもそう在れる。
私はよろよろと立ち上がった。
砕けたガラスを片付けようと手を伸ばした矢先、鋭く尖った切先が指先をかすめる。
「いたっ、」
鈍い痛みが指先を走って、私は思わず手を引っ込めた。大きなガラスの破片が光を反射し、一瞬、私の顔を映し出す。
そこにいたのは、暗い顔で立ちすくみ、瞳の奥に緑の光をちらつかせる女だ。
こんな顔、間違っても彼女には見せられない。
自嘲気味に笑ったまま、私は血の伝う指先でガラスを握り込んだ。
自分の中の衝動性、暴力性を、初めて自覚した日のことだった。
**
転機が訪れたのは、美栗が中学ニ年に上がり、半期が過ぎた頃の保護者面談だ。
美栗はいつも優等生だった。学級委員はおろか、生徒会にも率先して入った。歴代の担任からも褒められるばかりで、悪いところなど一つも聞いたことがない。
「ありがとね、午後休」
「当たり前でしょ、美栗ちゃんの大事な日なんだから」
ほら、こんな時まで殊勝なのだ。それに今日は彼女の十四歳の誕生日だ。
有給を取らずしていつ取るの?
そんなことより、と私は彼女へ目を向ける。保護者面談は放課後の予定だったが、進行に遅れが生じているとのことで、一旦出直すことになったのだ。
家に着くと、彼女は通学鞄を下ろし、制服のままの格好であの鞄を手に取った。
「これから面談でしょ」
「放課後なのに? 私服じゃないだけマシだよ」
彼女はしたり顔で頷き、ちらりと私を上目遣いで見る。
「せっかく有紗ちゃんと一緒なんだから、学校でもオシャレさせてよ」
あまりの可愛さに後光が差したかと思った。ぱあっと微笑む美栗ちゃんに完敗した私だが、彼女は不安そうに声を小さくする。
「でも有紗ちゃんが嫌ならーー」
「いいいいい嫌じゃないよ?! 可愛い、大好き、みんなに見せつけてやろう!?」
食い気味に答えれば、だよねと上機嫌な答えが返る。私は完全に彼女の掌の上だ。
少しだけ腹ごしらえをした後、再び中学校へと繰り出す。
隣を歩く彼女はいつもより上機嫌で、跳ねるような足取りは軽く、緑のプリーツスカートが翻る。背中の黒い翼がぱたぱたと動いた。
まるで天使さながらだ。地上に堕ちたのか、堕とされたのか。そんなのは些細な違いで、いずれにしろ、彼女はこの世界の住人じゃない。
帰る翼がないからここにいるだけで、本当の家族のもとに帰りたいと思ったことも一度や二度ではないのかも。
美栗が空を視界に収めるたび、ふっと気が遠のきそうになる。ちりりと心の奥底を焦がすような激情が育ってしまわないように、ずっと気付かないふりをしているのだ。
ガラスで指先を傷付けて以降、自覚してしまった感情だった。
なんでおもちゃの翼を背負うの。そんなにお空に帰りたい?
でも聞いてしまったら最後、もう二度と以前のような関係ではいられなくなるのだろうとも思っている。
私への当てつけ? ひどい女だと思ってる?
まるで反抗期のようだと思うたび、その反抗は正しいとも思うから、私はもうめちゃくちゃだ。相反する感情に身も心も引き裂かれたまま、今も昔もこれからも、素知らぬ振りで彼女の隣を歩き続けている。
**
道中、面談が終わったらしき生徒と保護者にすれ違う。
その後ろ姿を横目に、私はひっそりと小声で聞いた。
「ね、私って目立つかな。金髪だし、仕事着のままだし……」
「仕事着っていうかオフィスカジュアルでしょ。問題ないです。多分先生よりちゃんとした格好してる」
「いやほら、先生はたしかにジャージとか動きやすい服が多いかもしれないけど……」
美栗は一度立ち止まり、上から下まで私を見る。つられるようにして私も全身を見下ろした。
上は薄い水色のブラウスで、下は普通のスカートだ。ああでも黒いストッキングはやめた方がよかったかもしれない。このストッキング、薄めのやつだから、せめて透けない方が良かったかも。上から白いロングカーディガンを羽織っているけれど、美栗から「白衣みたい」と笑われてしまい、脱ごうか悩んでいるところだ。
「たしかに金髪は目立つかもだけど、大丈夫。かわいいは正義だし、多少有紗ちゃんが不良でも、私がその分優等生だから」
「そんなフォローの仕方ってある?」
謎理論を堂々と展開する彼女はやはり可愛く、私は困惑しながらも同意を示した。 最近、美栗ちゃんは天使のような笑顔でごり押ししてくるようになった。
武器はいくらでもあるに越したことはないので、口を挟んだことはない。
「面談終わったらケーキ買ってかえろうね」
「やった! 私モンブランがいいなあ」
「言うと思った」
跳ねて喜びを露わにする彼女に苦笑しながら、私たちは通い慣れた学び舎の正門をくぐった。
**
「進路表、ですか」
私は困惑して、おうむ返しに聞き返す。机越しに座った担任が意外そうな顔をした。
「もしかして聞いていませんか? 一応ご家族とも話し合ってもらってはいるんですが……」
事前に進路希望調査票が配られていたらしい。そんなもの私は知らないし、美栗が珍しく提出物を出さなかったことに担任も驚いているようだった。
担任の訝しむ目が美栗に向けられるも、彼女は眉を下げながらこともなげに答えた。
「ごめんなさい、忙しそうだったから言い出せなくて」
正直、ショックだった。たしかに仕事は忙しい。美栗に不自由のない生活を送らせてあげたい一心で、彼女に気を遣わせるぐらい仕事に打ち込んでしまっていたかも。
でもそれとこれとは話が別だ。美栗の大事な進路の話。いくらでも時間は作るつもりだったし、美栗にも分かってもらえていると思っていた。
それからも面談は進んでいったが、うまく頭に入ってこない。どこか心ここに在らずといった有様でいるうちに、面談もなかば終わりに近づいたようだった。
案の定、美栗の普段の生活態度や成績は申し分ないようで、「進路について、ちゃんとご家族で話し合われてくださいね」という担任の念押しとともに、保護者面談はあっさりと締め括られたのだった。
**
「ごめんね、気付いてあげられなくて……」
帰り道、私はとぼとぼと歩きながら美栗に謝った。どうしても顔を見ることができず、下を向いたままだ。
「ううん、私もごめんなさい。ほんとは言うつもりだったんだけど、進路、全然決められてなかったし」
美栗は優しく言ってくれたけど、本当は私だって分かっている。彼女が話そうとするまで、意図的に進路の話を避けてきたこと。
「…………」
「…………」
私たちの間に沈黙が流れる。いつもなら居心地のいいそれも、今日だけは互いに距離を計りかねているようだった。
静寂を満たすでもなく、埋めるでもない沈黙は、ほんのりとした緊張を孕んでいる。
いつか彼女が天の家族のもとに帰るとしても……それまでは私の家族だ。
彼女の望む進路を取らせてあげるべきなのに、すべてを打ち明けるには覚悟が足りなくて、彼女をいたずらに不安にさせている。
「……ケーキ、買って帰ろうね。それから、帰ったら、ちゃんと進路の話をしよう」
こんな時でさえ問題を先延ばしにしようと悪あがきをする自分が本当に情けない。 最後まで彼女の顔を見れないまま、私は通学路の途中にあるケーキ屋へと先に入った。
ショーケースに並ぶケーキが、こんなにも色あせて見えるなんて。
沈んだ気持ちでケーキを選び、会計を済ませる。
店員が手早くケーキを包む中、美栗が突然何かを思い出したかのように声を上げた。
「ごめん、忘れ物したから取ってくる!」
「え、今から?」
「宿題するのに必要だから。先帰ってて、あ、先にケーキ食べちゃダメだよ!」 「うん、気を付けてね」
やっぱり怒っているのかも。 ぱたぱたと足早に戻っていく美栗の後ろ姿を見送りながら、私もまたケーキの箱を片手に外へ出た時のことだった。
道の向こうで、黒っぽい服を着た誰かが勢いよく美栗に近づくのが見えた。すれ違ったと思った瞬間、美栗の身体がくずれ落ちる。
「え?」
とっさのことに、私はケーキを取り落としたことにも気づけなかった。その間にも人影は美栗を背負いあげ、近くに留めてあった車へと押し込む。
「……え?」
ーー誘拐だ。そう気づいた頃には、車はとっくに走り去っている。
「ちょっとやだやだやだやだ!!! は? なんで?!」
あまりの動揺に足がすくむ。走り出そうと前のめりになる意識だけが先行して、身体に追いつけない。何度も転びそうになりながら、私は中学校の方角へ走り出した。必死に車を追いかけるもすぐに見失ってしまい、激しく罵る。
半狂乱のままスマホを取り出し、今にも滑りそうになる指先で必死に110番を叩いた。
コール音。コール音。コール音!
「なんで繋がらないの……?!」
規則的な音が何度も繰り返されるばかりで、一向に繋がらない。
どうしようどうしようどうしよう!!
とんだタイムロスだ。この間にも彼女が恐ろしい目にあっていたらと思うと、腹の底からどろりとした怒りがわいてくる。
今の私ならきっと死ぬことも怖くない。
助けを求めて周囲を見たが、人っ子一人いない。必然、彼女が連れ去られたことを知っているのは私だけだ。私がなんとかするしかない。
「ううううっ……!」
目の前がじわりとにじむ。過ぎる想像に心臓を滅多刺しにされながらも、私はさらに不恰好に走り出した。
彼女を失うなんて、そんなの絶対耐えられない。美栗ちゃんが何したっていうの、私でよかったでしょ。あの子に何かあったら私、もう生きていけないのに……!
途中、マンホールの隙間にヒールが挟まり、私は前のめりに転倒した。ストッキングが破れ、血がアスファルトを汚す。
でもそんな痛みに構っている余裕はない。靴を脱ぎ捨て、私はもんどり打つようにして走り出した。
「ごめん、ほんとにごめん……!」
バチが当たったのだろうか。
愛してはならない、そんなタブーを破ってしまったから、罰がくだったのかも。
……ううん、きっとそうじゃない。
本当に罰がくだったのだとしたら、それは愛したことじゃない。
愛したからこそ臆病になり、彼女を傷つけた私に対してだ。
呼気が上がる。脇腹は痛いし、血の味がする。足を止めたい、もう走れない。ばくばくと鳴り響く心臓の音が耳障りで泣きそうだ。
やがて中学校の裏門が見え、覚えのある車が中に入っていった。その後を躊躇なく追いかける。
「……っ!」
その時、フードを目深に被り周囲を警戒するように見渡していた影が、忍ぶようにして校舎へと入っていく。間違いない、奴だ。
「逃がすか……!」
私もまた校舎の中へ飛び込んだ。
放課後の中学校は不思議なほど人気がなく、澱んだ照明が廊下を照らしている。あれほど部活動や保護者面談の活気で溢れていたのに、今だけは無人の廃墟のように静まり返っていた。
いつもの私なら常とは異なる雰囲気の学校に立ち入るなんて、きっと足が竦んで無理だったろう。でも今はそんなことも考えつかないほど、私は必死だった。
校舎の階段を駆け上がるうちに、何かが夕焼け色にきらりと反射した。 「ひっ!」と息を飲み、たたらを踏んだ。
およそ中学校に落ちていてはいけない代物が、鈍い光を帯びながら転がっていたのだ。
「な、なんでこんなところに銃が……」
人影が落としたのだろうか。だとしたら奴は美栗を殺す気なのか。
ごくりと生唾を飲み込んだ。
だったら私はーー。
銃を手に取る。ずしりとした重みが伝わるよりも早く、私の足は重力から解き放たれたように階段を駆け上がろうとしていた。
**
締め切られた教室。最上階の一角にあたる美術室へと飛び込んだ私は、人影へと勢いよく銃を突きつけた。
「美栗を返しなさい!!」
教室内は生ぬるい夏の風に満たされていた。カーテンを揺らし、人影のフードをわずかに持ち上げた風が、優しく私の頬を撫でる。
「なんだ、思ったより早かったですね」
ゆっくりとこちらを振り返る奴のフードの下から覗いたのは、ニヤつく男の顔だった。
「それ、おもちゃじゃないですよ」
「美栗はどこ?」
「さあ、どこだったかな。ショートケーキの苺は最後に取っておく派なんです」
「つべこべうっさいな!! 美栗はどこって聞いてんのよ!!」
銃の引き金を引く。瞬間、鋭く乾いた破裂音とともに教室の壁に穴が空いた。
男の頬をかすめるようにして流れた弾を視線で追いかけた男が、驚いたようにこちらを振り返った。
でも、一番動揺していたのは私の方だ。
「ほ、本物……?」
違う、そんなつもりはなかった。だって本物かどうかも分からないし、そもそも撃ち方だって知らないのに、わ、わたし今、誰かを殺そうとした?
引き金を引く、たったそれだけのことで、こんなにも簡単に?
いまさらながらに腕が震え、手の中の銃が重みを増す。この中にまだ弾は入っているのだろうか。
「入ってますよ」
その時、まるで私の頭の中を読んだかのように男が言った。私はひきつった声を上げる。
「ううううるさい!! いいから答えなさいよ、美栗はどこ?!」
ああ、だったらこれも罰だろうか。 彼女のためならいくらだって罪を背負えるはずだろう。心のどこかで囁く声に、私はそっと頷き返した。
ああ、そうだ。私は竹取の翁のようにかぐや姫を何とか地上に留めようとすることはできないけど、天ではなく人間に奪われるぐらいなら、私は躊躇わない。
すっと思考が晴れる。まるで一条の光が差し込んだかのように、成すべきことの輪郭がくっきりと浮かび上がる。
「本気で私を殺す気ですね」
笑う男にぴたりと照準を合わせる。どこか嬉しげに歪んだ顔に、引き金にかけた指先に力が入った。込み上げる嫌悪を上乗せしながら、じっとタイミングを見計らう。
「でも、実弾をこめても変わらない。そうでしょ?」
「……え?」
先ほどとは打って変わって、天上の楽の音のような声が耳を打つ。女の子の声だ。
「天使も甘やかせば小悪魔になりますよ」
その瞬間、目の前で笑っていたのは、私のよく知る天使だった。
「なんで……さらわれたんじゃ……」
どくどくと心臓が早鐘を打ち、くらくらと視界が回り始める。自分の立っている場所すら分からなくなって、善と悪の境界線が混じり始める。嘘と愛で塗り固めた立場は、踏み抜けそうなほど脆く儚い。
「半分ほんとで、半分うそ」
彼女はべっと舌を出した。茶目っ気たっぷりな、それでいて高圧的なしぐさは初めて見るものだった。
「有紗ちゃん、銃は初めてですよね。でも様になってます」
「あ……え…………? ち、ちがうの……これは……」
さあっと血の気が引くのが分かった。
見られた。人を殺そうとしたところを、よりにもよって彼女に、天使に見られた。
「ほ、ほんとに違うの! 私、わたし……っ」
衝動的に銃を投げ捨てようとするも、強張り固まった指先が銃身に引っかかる。
彼女の視線は今も私に絡み付いたまま、穴が空きそうなほど深く私を覗き込んでいる。
見ないで、お願い。
「なんで笑ってるの。どうして嘘ついたの。美栗ちゃんがいなくなって、私ほんとに探したんだよ? こ、こんなの拾っちゃってさぁ……なのに……」
声が震える。ようやく思考が追いつけば、途端に手の中のものが重みを増した。
人殺しの武器だ。人を殺せる武器を、私は今、誰かを守るためでもなく、誰かを助けたいという良心からでもなく、ただ許せないという私怨で引き金を引こうとした。
実際、一度は撃ったのだ。たまたま当たらなかっただけで、私は人を殺そうとした。明確に殺意があった。
そんな私を真正面から見つめ、彼女はどこか満足げに、強気な笑みをのせたまま口の端を持ち上げる。
「うん、越えてほしかったんです。一線を。私のために、がむしゃらに走り抜いてほしかった。今日みたいな日を待ってたのに、百年経っても亀のように遅そうだから、お尻に火をつけたかったの」
これが私の大舞台。一世一代の告白なのだと語る彼女に距離を詰められ、いつのまにか、教卓越しに顔を覗き込まれている。その真っ直ぐな目から逃れるように、せめてもの抵抗とばかりに、震える腕ごと銃口を下ろす。
「あなたが悪いんですよ?」
「ひ、人のせいにするの?!」
声がひっくり返る。まるで私を責めるかのような物言いに、つい頭がカッとなった。
「でもね、有紗ちゃん。私、自分が天使だってこと、知ってるんです」
「……え?」
「本物の家族じゃないことも。だからね、天使からの置き手紙を隠し持っていることも、破り捨てようとして出来なかったことも、あなたが見せかけの翼を苦々しく思ってることも、ガラスで傷付けた指先も、私のことを愛してるのも、家族のふりしてるのも、良いご家族ですねって言われるたび罪悪感で死にそうになってるのも、みんな知ってるんです」
今度こそ心臓が止まりかける。
それってつまりーー。
「借り物の家族。いつかは返さなければいけないと分かっていても、目の前の私へ情を傾けずにはいられなかった優しいあなた。おもちゃの翼を見せびらかすたび、あなたの目にちらつく昏い緑が好きだった。その嫉妬を口に出してほしかった。逃げてばかりはもう嫌なの。良い顔なんかしてほしくないから、返したくないならそう言ってほしかった。あなたの独占欲をよすがに、私のこれからを決めたかった」
膝から力が抜け落ちて、ぺたん、とその場に座り込んだ。
最悪だ。終わった。
人を殺そうとしたところを見られて、浅ましい自身の欲を見透かされて。
どんな顔して立っていればいいの?
ショックの方が大きすぎて、うまく頭が回らない。
彼女はいったい何を言っているんだろう。何を求めてるの?
「それに知らぬ存ぜぬはもう無理だよ。だって、私の羽根、本物だから」
天使に人間の常識は通じないって、私を拾った時から知ってるでしょ。
彼女は薄く笑って自嘲する。
「人間のふりして生きるより、天使にあわせて諸々を書き換えるところが私たちらしいって思わない?」
軽やかな口調とは裏腹に、その瞳にはなんとも言えない、鬼気迫る切なさが宿り始める。
「でももうダメなの。たしかな言葉がほしい。よすががほしい。だからそのかわいいお口で言ってください」
そう迫る一方で、彼女の言葉は今にも震えて途切れそうだった。
「愛してるって言ってください。その言葉が聞けるなら、羽根の一つや二つ、簡単に契ってもいいんですよ。こんな翼じゃ空も飛べない。でも、これが出来損ないでも天使の証、天の園への通行証明。ほら、言って。私を地上に繋ぎ止めて、天に還さないで。羽衣なんか灰にして、私の居場所はここだって言って。あなたの隣を私にちょうだい」
「……ムリだよ」
蚊の鳴くような声で私は答えた。
「天使がどんな世界で生きて、どんなルールがあるかなんて1ミリも知らないけど、もし返してって言われたら、私どうしようもできないよ。あなたの家族からあなたを奪えないよ。かぐや姫を月に返したくないからって軍勢を用意するような帝にはなれないし、泣いて縋るしかできなくて、でもなけなしのプライドが邪魔するんだよ。あなたの門出ぐらい、せめてちゃんと祝ってあげたいって思うじゃん。なのに私にあなたを望めって言うの?」
「そうだよ。あの男にやったように、その銃口を天に向けて、ただ引き金を引いてほしいだけ。それに置き手紙、隠してるでしょ。知ってる? 羽衣伝説は、男が羽衣を隠して始まるんだよ」
さらに泣きそうになった私に、彼女は慌てたように続ける。
「でも結末は一つだけじゃないし、天に帰ることも、天の父に認めてもらうことも、地上に残ることだってあるし!」
とにかく、とその時初めて彼女は叫んだ。
「聞きたいことは一つだけ! いい加減に覚悟を決めて、借り物の家族だなんて距離置かないで。……お願い、私をそばに置いて。一緒に進路を考えて。私もう義務教育終わっちゃうよ。進路なんて言われてもなにを書けばいいのか分かんない。身の置き所がないの。ずっとここに居ていいの? ここで進路を選んでいいの? 私はただ、あなたと一緒にいたいだけなのに」
彼女は今にも泣きそうな程くしゃりと表情を歪ませた。およそ天使にさせていいような顔じゃないことぐらい、私にも分かってる。でも、彼女が限界だというのなら、私だってとっくの昔に限界だったのだ。
仲良しこよしはこれでおしまい。拾って拾われて、互いにどうしようもないままここまで来てしまった。本音を隠したまま接するのはもうムリだ。月日が私を変えたんじゃない。最初から、こうなることは運命だった。
「愛してるの」
初めて口にした言葉は、自分でも不思議なほど耳に馴染んだ。
「顔も知らないあなたのほんとの家族より、ずっと、胸が張り裂けそうなぐらい愛してる」
渡したくない。返したくない。
私が彼女の居場所になりたいのだと、募る想いがようやく出口を見つけ、堰を切ったように溢れ出す。
「一緒にいて、どんなことだっていいから相談してほしいの。どんな道でもいいから、ここがあなたの故郷になってほしい。あなたの家族だって胸を張りたい、それだけのよすがが、私も欲しいの」
彼女はただ頷いた。次いで、満面の笑みが咲き誇る。空気が一気に軽くなり、学校中に漂っていた澱みが霧散したようにも思えた。
「ずっとその言葉が欲しかった。愛してる、有紗。ずっとそばにいさせて。あなたも私のそばにいて。もう二度と借り物の天使みたいに扱わないで」
みっともないぐらい声を震わせて抱きついてくる彼女の後頭部を見下ろした。
お墓まで持っていくはずだった秘密を吐露し、タブーを破った私は、この先いったいどうなるのか。
確実なのはただ一つ、きっと明日には進路表が提出されるだろうことだ。
張り詰めていた緊張が解かれ、全身が床に沈みこみそうだ。座り込んだままの私に縋り付く彼女を、私もゆっくりと抱きしめ返した。
でも、と私は思い出したかのように大声を上げて泣き散らかした。
「今日のことは絶対許してあげないんだからあ〜〜!!!」
「え、え、何、ぜ、絶対?」
ぱちくりと目を瞬かせる彼女に、強く頷き返す。
「絶対絶対絶対!!! 一生擦り続けてやる!!」
だって怖かった。本当に怖かったのだ。
彼女を失うかもしれない。浅ましい自分が知られるかもしれない。
何もかも覚悟していたようで、その実、何一つ覚悟なんか出来ていなかった。
一生、という言葉に、彼女の肩がわずかに揺れる。その目と頬がじわじわと赤く染まっていくものだから、私は無性に邪魔してやりたくなった。本気で泣きたいのは私の方だ。
心意を引きずり出したかったとはいえ、こんなやり方、いくらなんでもひどすぎる。
「喜ばないで! 可愛い顔しても今回ばかりは許してあげないんだから!!」
地団駄を踏む、ことはできないので、代わりにぎゃんぎゃんと大声で泣き喚く。
先に泣かれると思っていなかったようで、彼女の涙はあっさり引っ込んだ。代わりに小さく苦笑される。
今も彼女の背にある鞄、おもちゃの翼が付いたそれを、私は涙越しにようやく直視した。
「もう付けないで。……私の前では」
「付けません。有紗ちゃんのいないところでも、絶対」
「でも、翼は見せて。あなたがあなたである証。きっと美しい翼になるよ」
当たり前、と彼女は笑った。天使にふさわしい微笑みだった。それから私の手を握り、真摯な眼差しで言う。
「約束する、二度としないって。ごめんね、ほんとにごめん」
「いいよ、二度もやらなくたって、離れてやらないんだから」
もう立てないと駄々をこねる私を、意外と力強い彼女の手が引いた。そのままの勢いで私をおぶる彼女に、思わず腹の底からの笑い声をあげる。
「ほら、帰りましょーね」
「ふ、ふふ、あっははは! いつのまに大きくなったの。昔は私が抱っこしてたのに」
「いつの話ですか、それ。年寄りくさ」
「年上面したい年頃なんです〜。……実際さ、美栗ちゃんって何歳なの?」
「さあ? 天使に年齢聞くなんて野暮なんだから。あなたより長生きすることだけは確実だけど」
のたまう彼女の背をそっとなぞる。結局、彼女の背にある翼を私は知らない。
でもいつか、美しい羽根が見られるのだろう。
それでも構わない。構わないと思えるだけの言質を、私は手に入れたのだ。
でもやっぱり意地悪したくなって、私は彼女の耳元で囁いた。
「さっきの話ね、半分ほんとで、半分うそ」
「はい?」
天使の声が引きつる。期待通りの反応に気を良くしながら、情緒不安定気味に叫んだ。
「私、美栗ちゃんにひどいこと言ったよね?! そもそも人様に銃向けるなってはなし、でも正当防衛ってことで許してほしい!」
「なんですか急に。耳元で叫ばないでください」
「そっちじゃないって分かったらすぐに冷静になっちゃってさあもう。そういうところもかわいいけど! ていうか天使って結局何なの? 地上には修行的な感じで? まあ私的には何でもいいんですが!」
「有紗ちゃんがそんなだから、天使も小悪魔になっちゃうんですよ」
「天使度がカンストして小悪魔になったってこと??? つまり大天使???」
「???」
お互いに訳がわからないまま顔を見合わせる。そうして次の瞬間、そろって吹き出した。
「まあなんでもいいか。帰ろうよ、美栗ちゃん」
「そうだね、有紗ちゃん。今後こそケーキが食べたいな、モンブランとショートケーキ!」
「私の分は? っていうか箱落としてきちゃった……」
肩を落とす私に、彼女は「実は……」と後ろ手に回した手を差し出す。道中で放り投げてきたケーキの箱が、キレイに形を保ったままそこにあった。
「ど、どこから出したの? 魔法……?」
感動するよりも先に困惑が勝ってしまった私に、彼女はにっこりと笑った。
「タネも仕掛けもないですよ。今も昔も、これからも」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?