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不可能性が存在を規定する - 四畳半神話体系より

本や曲などから、気になった言葉を書き留めておくノート。今日は森見登美彦氏の著書、四畳半神話体系より。

僕は自分の人生に満足したいけれど、満足しきれていない、そんな学生生活を送ってきた。そこで四畳半神話体系を手に取った。主人公は阿保な学生生活を送っているのである。これで自分の気も紛らわせるだろうという、浅はかな考えだ。

予想通り、主人公の学生生活を見ていると、気が安らいでくる。僕の性格の悪さがにじみ出て、ぐんぐん読み進められる。僕の生活よりはマシなんじゃないかと思ったり、いやでも最後にこれ結局好きな人と結ばれてるやん、もしかしたら僕も…と思ったり。

大学生である現在の僕は、薔薇色のキャンパスライフというものを送ってきたとは思っていない。主に女性関係や友人関係が希薄なゆえに、むしろ羊羹色のキャンパスライフだったと言える。どこか色褪せているような。それなりに色々あったから、自分らしい生活だよなとは思いつつも、やっぱりどこかで憧れる薔薇色のキャンパスライフ。そんな考えを嘲笑うかのように出てきたのが、第二章での師匠の言葉だった。

「可能性と言う言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

…よく分からない。
読み進めてみる。

「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはいけない。

思い当たるところがある。

僕はいつも、向上心という言葉を頼りに、自分の可能性に夢を抱いて生きてきた。あるいは夢想していた。夢想がいきすぎ、精神的にかなり苦しんだ時期もあった。ああすればこうできた、そう考え続けることで、自分を苦しめさえしていた。僕は自分の人生を歩みながら、別の人生を常に描いていた。

これを修正するのは、簡単なことではない。
今までにも、うまくできるときと、できないときがあった。

しかし僕の人生は他の誰にも歩めない、唯一無地のものである。まずはそれを受け入れるところからだろう。選択の結果今の自分がある。あるいは、どんな選択をしても似たような自分になる。そう考えると、少し気が楽になるかもしれない。

腰の据わっていない秀才よりも、腰の座っている阿保のほうが、結局は人生を有意義に過ごすものだよ

心が苦しい時は、自分の不可能性を受け入れ、自分の人生を抱き寄せてみよう。

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