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東大から日本へ貫く感動を巻き起こす集団でありたい

2003年。
東京大学ラクロス部男子「BLUE BULLETS」に、「理念」と言われるものが生まれました。

『東大から日本へ貫く感動を巻き起こす集団でありたい』

というこの理念は、2年後の関東学生優勝として実を結び、2009年までの7年間、東大の原動力となりました。


そして2020年。
他のスポーツ同様ラクロスにおいても、
公式戦がいつ開催できるのか、
そもそもできるのか、
全く見えなくなっています。

学生の皆さん、特に4年生の皆さんは、
大変な不安の中にいると思います。

でも、そんな中だからこそ、
最後に何をつかみ取るんだ?
自分の4年間をどうしたいんだ?
チームの理想の形はどんなだ?

みたいなことを、是非考えて、自分なりのイメージを持って欲しい。

ラクロスができなかったとして、
自分の4年間の勝利条件をどこに置くか。
どうやったら、俺は勝ったぞと言えるのか。

それがチームで共有できたときは、
チームは次のステージに進んでいるはずです。

そこにたどり着く一つのきっかけになればと思って、
ちょっと昔の文章を引っ張り出してきました。

どういう背景で、東大の理念が生まれたのか?

これは過去の一つの事例であって、
そのまま皆さんのチームに
当てはまることはないと思います。

それでも、1人でも多くの方が、「チームっていうのは、ここまで行けるもんなんだ。」っていうことに気づいてくれればうれしいです。

《注:本稿は、東京大学ラクロス部男子 BLUE BULLETSの20周年記念式典の折に匿名で寄稿された文章です》
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<以下、引用>

1.
2003年11月15日午後5時過ぎ、場所は品川区大井第2球技場。日本体育大学、東京大学、両チームの選手が決戦の時に向けてウォーミングアップにはげんでいた。第16回ラクロス関東学生リーグ男子準決勝第2試合、フェイスオフの時間もうすぐだ。
絹のように細い雨が緑の人工芝のグラウンドをしっとりと湿らせていた。グラウンドの周囲を屹立する照明塔に明かりが点る。冬の訪れを実感させる清澄な空気を切り裂く強烈な光の束は、グラウンドに跳ねかえされると上空に向かって同じ強さで駆けあがってく。上下からライトアップされた100m×50mのステージは蜃気楼のような儚さを身にまとい、観る者は質感豊かな夢の世界へと誘いこまれたかのような錯覚を覚えさせられる。
この試合に勝ったものだけが、更なる「高み」へと向かう夢の続きを見ることができる。スタジアムに詰めかけた観衆の期待と緊張感はいやおうなく高まっていく。

2003年、東大の目標はクラブチームまで含めた「日本一」になることだった。過去4年連続で関東学生リーグFINAL4に勝ち進んでいた東大は、2002年度シーズンで3年ぶりの準優勝に輝き、続く全日本選手権でもナニワラクロスクラブ相手に善戦を演じていた。東大は名実ともに学生界の強豪としての地位を確立しつつあった。
だが、それでも2002年関東学生リーグ決勝では王者として君臨する慶應義塾大学に力の差を見せつけられ、悲願であった「学生日本一」には届かなかった。一方、学生リーグでは敵なしの慶應もまた、全日本選手権ではクラブチームの壁に屈することが長く続いていた。
そんなラクロス界の構図を前にして、東大が「日本一」という目標を掲げることはエキサイティングな挑戦に聞こえる一方で、やや現実みに欠けるという懸念も2003年チーム発足当初は確かにあった。しかし、日々の練習や厳しい試合を通じて、選手は自分たちを信じるに足りるだけの根拠を一つずつ見つけていった。
「日本一」になること、それはチームが「日本へ、貫く感動を巻き起こす集団でありたい」という理念を体現するための前提条件だった。そして、日本一になるために、全日本選手権への切符を賭けて戦う今日の試合は絶対に落とせないものだった。

両チームの選手がベンチ前に集まり、列を作った。場内アナウンスに合わせて、観客席の声援に後押しされながら順々に選手がフィールドに入っていく。白と黒のユニフォームが10人ずつグラウンドに散った。フェイスオファーがフィールド中央で腰を落とし、クロスをセンターラインに水平に置いた。

一瞬の沈黙。

そして、怒号のような歓声。

試合が始まった。

開始早々、東大が放ったシュートがゴールネットを揺らすも、これはクリース・バイオレーションでノーゴール。その後、1クォーターは完全に日体大のペースで進む。身体能力の高さと卓越した個人技で東大ゴールに押し寄せてくる日体大のオフェンス。対して東大はゾーンディフェンスでゴール前を固めるも、試合開始直後の緊張感からか、プレーヤーどうしの連携がどこか噛みあわない。その隙を日体大は見逃さない。長距離、近距離から質の高いシュートを次々と放っては東大ゴールを陥れていく。1クォーター終了時、電光掲示板に映し出された日体大のスコアは4。対する東大の数字は、0。
2クォーター以降、東大も反撃を開始する。しかし、一度焦りに憑かれたオフェンス陣が放つシュートはことごとく日体大ゴーリーのクロスに阻まれ、逆にゴール前を固める東大ディフェンスを嘲笑うかのように、日体大のシュートはゴールネットを揺らす。2クォーター序盤に一時は2点差まで追い上げた東大だったが、3クォーター終了時には、両チームの点差はこの試合最大の6点まで開いてしまう。
そして、最終4クォーター。東大は必死の追い上げを見せ、3点を奪う。しかし、日体大を相手に6点という差を埋めるためには、20分という時間は短すぎた。東大が最後のタイムアウトを要請したとき、電光掲示板に映し出されていた残り時間を示すデジタル式の表示が消えた。それはすなわち、東大に残された時間がもうわずかしかないことを意味していた。
その日、東大のシュート数は日体大のそれを凌いだ。しかし、東大の得点が日体大のそれに追いつくことは、ついに一度もなかった。
奇しくも昨年度、同じ舞台で両チームは顔を合わせており、そのときは試合終了20秒前に劇的な勝ち越しゴールを奪った東大が勝利を収めていた。その経験がどのように選手たちの心理に作用していたのかはわからない。ただ、試合開始直後から集中力を保ち、高いパフォーマンスを発揮したのは、東大ではなく日体大だった。

誰もがその笛が意味することを知っていた。
日体大ベンチからは快哉があがり、クロスが宙を舞った。客席から観客がなだれ込み、ある者は拳を突きあげ、ある者は仲間と固い抱擁を交わした。
その瞬間、東大の客席からは勇壮なブラスバンドのメロディーと祈りにも近い2000を超える歓声が消え去った。ベンチは嗚咽混じりの溜息で満たされ、グラウンドでは糸が切れた操り人形のように選手が頽れた。

5対8。東大は負けた。

戦いを終えた東大の選手が、満員の客席に向かって深々と頭を下げる。応援団のエールに続いて、制式に則り応援歌である「ただ一つ」の演奏をブラスバンド部が始める。
敗者の健闘を称えるメロディーは選手たちに終焉の到来を否応なく実感させる。関東学生リーグ決勝戦、全日本選手権進出、そして日本一。未来へと通じるドアは閉ざされ、そして、今年で部を去る4年生たちには二度とそのドアは叩くことはできないことを痛感させられる。
演奏が終わる。選手たちは散り散りになり、互いに言葉をかけ始める。試合に負けた悔しさ、目標への道が閉ざされた悔しさ、あらゆる悔しさが濁流となって胸の中で渦を巻き、涙の堰を切る。今日の試合の無念と、次なる世代への期待と、これまで過ごしてきた時間に対する感謝の思いが、整理されないまま次々と彼らの口から溢れだす。

そんな光景の隅に、ただ一人空を見つめたまま動かない男がいた。瞳には涙さえ浮かんでいない。分厚い雨雲に覆われて星さえも見えない黒い空の一点を、彼はじっと見すえていた。
悲しくないはずがなかった。悔しくないはずがなかった。彼は誰よりも目標に対して愚直で、理念に対して真摯な態度を貫いてきたからだ。「日本一」になること、理念をまっとうすること、それは彼にとっての悲願であり使命だった。
東京大学ラクロス部男子第16代主将、清水智史である。

2.
幼い頃から病的なまでに負けず嫌い。清水智史という人間は、“負けない”ために生きてきたと言っても過言ではなかった。
小学生の頃、勝利を目指してスポーツに打ちこむ環境に恵まれなかった清水は、中学校に入学してからの厳しい部活動に強い憧れを抱いていた。しかし、意気揚々と入部したある運動部で、清水は想像すらしていなかった事態に直面する。「上手くなりたかったらスクールに行け」
後輩の指導にも体系的なトレーニングにも取り組もうとしない一方で、さも当たり前のこととしてスクール通いを推奨してくる先輩に、清水は自分との圧倒的な温度差を感じたのだった。
部を支配する「スクール主義」に強い反発を抱いた清水は、すぐさま退部届けを提出した。こうして既存の部活動に幻滅した清水は、体育の先生の誘いに乗ってハンドボールを始めることを決める。中高一貫の学校に当時ハンドボール部はなく、愛好会を立ち上げるしかなかった。発足当時の部員は、清水と3人の同級生の計4人。夢にまで見た厳しい部活動に打ちこむ中学生活は、思わぬ逆境からのスタートとなった。
部の立ち上げ以降、苦難の日々が続いた。正式なクラブではない愛好会に満足な練習場所すらなく、グラウンドの片隅でいつも他のクラブから邪魔者扱いされながら練習するしかなかった。人数不足も深刻で、他のクラブから助人を調達しなければ練習試合もろくにできなかった。中学時代に結果は出ず、高校に入ってからも勝利は遠かった。
環境に恵まれているとは到底言えない。それでも自分達で立ち上げたクラブの成否は、自分達の努力の結果として受け入れるしかないのも事実だ。恵まれた環境の上で胡坐を組んでいる周囲にやり場のない憤りを覚えながら、できることを必死で探しては歯を食いしばって取り組んだ。恵まれない環境に責任を押しつけ、安きに流れそうになる自分に清水は負けたくなかった。
そんな清水たちの努力は、高校生活の最後になって大輪の華を咲かせることになる。高校最後の大会、大躍進を遂げたハンドボール部は都でベスト4に輝いたのである。
こうして、清水は努力を続ける忍耐力を身につけ、努力の先に掴みとる喜びの大きさを知った。

大学生になった清水は、強豪と呼ばれる環境に属して、より大きな目標に向かって邁進してみたいと考えるようになった。迷ったあげく、入部したチームは前年度の関東学生リーグで準優勝を遂げ、今年は更なる躍進を目指していたラクロス部だった。
入部当初、一部の部員から感じられる馴れあいの雰囲気や、100名を超える組織の運営のお粗末さに苛立ちを覚えることもあった。だが、それを差し引いても、1年生の時から好きなだけラクロスに打ちこめる環境が、中高時代には練習場所さえなかった清水にとって魅力的だった。恵まれた環境の中で、以前にも増して言い訳はできない。誰よりも考え、誰よりも多くの時間をグラウンドで過ごした清水は、すぐに誰よりも上手い1年生になった。
しかし、活躍を期待されて臨んだ2年目のシーズン、清水は怪我に泣いた。結局、公式戦では一度も出番はなく、チームも準決勝で慶應に2年連続で敗れることとなった。
3年生になると、大学の専門課程が始まり、勉強が急に忙しくなった。徹夜で学科の課題をこなし、そのまま部の早朝練習に参加する。練習が終わるとストレッチもそこそこに授業に向かい、放課後は再び徹夜で課題に取り組む。ろくに休息も取れない日々が清水を圧殺した。
それでも清水はあるミーティングで言った。「ラクロスがあるから勉強ができないとか、勉強があるからラクロスは適当でいいとか、そういうのは言い訳に過ぎない。ラクロスも勉強も、俺が俺のなりたい人間になるために絶対に必要なもの。だからこそ妥協はしない」
誰よりも努力の強さを知る男は、何よりも妥協という言葉を嫌った。そして、言葉は常に行動を伴った。ラクロスにも、勉強にも、清水は限られた時間を最大限に活用し、常に全力で取り組んだ。
しかし、そんな清水を待っていた運命は残酷だった。やっとの思いでレギュラーの座を掴みかけたそのときになって、またも清水は怪我に泣かされる。心身ともに極限まで追いこんだ果てに再び落ちこんだ穴の底だった。どうしようもない絶望が清水を襲った。辞めようか、そんな考えが頭をよぎったことも少なからずあった。
それでも清水は這い上がろうとした。どうすれば試合に出られるか?どうすればチームの勝利に貢献できるか?考え抜いた末に行き着いたのが、ATとしてゴール前のスペシャリストになる道だった。最も相手ゴールに近いクリーススポット。ディフェンスのプレッシャーが一番厳しいその場所で、味方からのパスを素早くかつ正確に相手ゴールに押し込む。ただ、それだけに賭けた清水は、シーズン後半を愚直なまでにクリースの練習に費やした。
その年の関東学生リーグ決勝戦、東大は慶應に敗れ、またも関東学生リーグ制覇という夢を逃した。その試合で東大が慶應から奪った4つのゴールのうちの1つ、それは清水がクリースから決めたゴールだった。決して派手ではない、素人目に見たらあるいは簡単そうに映ったかもしれないゴール。しかし、それこそが清水が目指していたゴールだった。
翌年、最高学年になった清水は、部員投票の結果第16代主将に選出された。
新しいシーズンが幕を開けようとしていた。その先頭に清水が立った。

3.
主将に就任した清水は、まず、「学生日本一」というこれまでの目標を「日本一」に改めた。
理由は簡単だった。「学生日本一」を目指していては、「学生日本一」をステップとしか見ていない慶応に、いつまでも勝てないと判断したからだった。
これまでの「学生日本一」という目標は、「打倒慶應」とほぼ同義だった。FINAL4の常連として学生ラクロス界の強豪としての地位を確立しつつあった東大にとって、慶應に勝つことこそが次なる“妥当な”ステップであり、慶應こそが創部初期以来長く遠ざかっていた頂点への最大の壁だったからだ。
しかし、一方で慶應を過剰に意識することは必ずしもチームにいい効果ばかりをもたらしたわけではなかった。最大の弊害は、慶應への勝利に固執するあまり、慶應の一歩先を行くことがチームの目指すべき高さの限界点になってしまうことだった。
一方で、学生リーグを5連覇している王者慶應の目線はもっと上を向いていた。ある慶應の選手は言った。「東大は慶應だけを見ている。でも、慶應は世界を見ている」。日本ラクロス界のパイオニアとして各世代の代表選手を数多く輩出している慶應にとって、すでに学生界での勝ちは通過点に過ぎなくなっていた。彼らはクラブチームまで含めた日本一を目指し、さらに、その先にある世界との戦いまで視野に入れて日々の練習に取り組んでいたのである。
目標の高さはそのまま求めるレベルの高さに表れる。東大が慶應の残像を追っている間に、慶應はより高みを目指していた。2002年度の全日本選手権、初戦で東大を下したナニワラクロスクラブを準決勝で破った慶應は、決勝で日本一に3度連続で輝くクラブチームの覇者バレンティーアとサドンデスまで競り合った末に敗れた。それは慶應が日本一に限りなく近づいた瞬間であり、慶應の影を追っていた東大をさらに大きく引き離したことを痛感させる瞬間でもあった。
慶應だけを強く意識する目標設定では、慶應に追いつくことはできない。全日本選手権決勝での慶應の戦いぶりを間の辺りにしたとき、清水の腹は決まった。もちろん、日本一になるための道がどれほど厳しいかは分かっていた。一足飛びにハードルを上げることで、目標が目標として選手の間で機能しなくなる恐れがあることも理解していた。周囲の反発もあった。しかし、清水は目標の変更を断行した。必要なのは覚悟だけ、そう考えていた清水は、幹部だけが集まるミーティングで目標を「日本一」にすることを宣言したとき、こう言い添えた。
「日本一になるために、やれることは人殺し以外全部やる」
こうして、船は目指すべき場所を決めた。

日本一になるために、清水が最初に取り組んだのは、強さを執拗に追求する厳しさを部に植えつけることだった。
東大ラクロス部には体育会系という言葉から連想されがちな厳しい上下関係は一切存在せず、フラットな人間関係を基礎にして学年や技術の上下に関わらず誰もが平等にラクロスを楽しめる環境が整っていた。やる気さえあれば、好きな仲間たちと好きなだけラクロスができる。それは歴史の浅いチームがサークル時代から培ってきた大きな魅力の一つだった。
しかし、平等な環境は時に甘えを生みだすこともあった。やりたい時に好きなだけやれるということは、イコール、正規の練習以外でラクロスに費やすエネルギーを選手各自の判断に委ねるということだった。トップチームの試合で活躍することがイメージしにくい選手は目の前の課題に危機感を失いがちになってしまうし、逆にトップチームの選手が試合に出ることだけで満足してしまうケースも多く見られた。環境に左右されやすい個々のモチベーションにチームの最終的な成長速度を委ねるのでは、“求めているレベル”に“必ず到達する”ことは難しい。これまで築き上げてきた居心地のよさに満足するのではなく、結果に対する貪欲さをチームに植えつけ、闘争集団への変遷を図る。それこそが清水が考える日本一になるための必要条件だった。
だが、一方で清水は単純に厳しくすればいいと考えていたわけでもなかった。誰よりも愚直に努力を積み上げてきた男は、いつからか‘ただ強くなるために頑張る’ことに違和感を覚えるようになっていたからだった。
清水が好きな経営者の一人に、松下電気産業の創業者松下幸之助がいる。独自の会社観をいくつも残してきた松下幸之助であるが、中でも清水が感銘を受けたのは社会との接し方、会社としてのスタンスだった。創業期の松下は自分達が頑張ることに、利益を上げることに必死であり、結果、会社を大きくすることがすべてだった。しかし、ある時それだけでは世間は認めてくれないと気がついた。社会に対して自分達に何ができるか、どうやったら社会の役に立てるかということを真剣に考えるようになったとき、初めて他人から認められるようになった。
どれだけ大きな結果を残しても、過程が独善的であるかぎりは結局自己満足の域を出ない。そう著書のなかで語る松下幸之助の言葉は、清水の胸に深く刺さった。なぜならこれまで清水が積み上げてきた努力こそ、すべてが自分自身の欲求を満たすためだけのものであり、独善的と呼ばれてしかるべきものだと清水自身が強く認識していたからだった。努力の末に掴み取った結果に周囲から温かい拍手を送られることはあっても、後にはいつも自己充足的な達成感しか残らなかった。そういう自己完結型の努力に、清水はいつしか空しさを覚えるようになっていたのである。
自分たちのためだけに努力をしている集団に周囲の視線は驚くほど冷たい。とくに社会に対して何ら生産的な活動をしていない大学のクラブ活動など、言ってしまえば趣味の延長と同じだった。好きなことを好きなようにやる、ただそれだけのために自分のエネルギーを費やすことに清水は疑問を抱くようになっていた。好きなだけでやっているからこそ、それは独りよがりなもので終わってはいけないのではないか。あるいは、ただ好きというだけでやっているからこそ追求できる美学もあるのではないか。
清水は考えた。目標に向かって努力をするだけの集団、そこから一歩進むことはできないか?自分たちを直接知らない人たちからも拍手を送られるような何かを達成することはできないか?ラクロスを知らない人たちからも目標にされるような組織を作ることはできないか?
軸。チームに足りないものを清水はそう表現した。これまでのチームは部員それぞれの生活におけるラクロスの位置づけや、それぞれがラクロスに求めるものがバラバラだった。なぜ強くなりたいのか、なぜラクロスで一番になりたいのかという共通のビジョンが決定的に欠落していた。だからこそ、環境によって選手のモチベーションは大きく変わり、組織としての居心地のよさに安寧する傾向が生まれる隙があった。
日本一になって得られること、そこにチーム全体を通底する共通のビジョンを見出すことができれば、「日本一」という目標は一つの手段となるはずだった。そうなれば、勝つことこそが至上命題となり、そのための厳しさは自然と生まれてくるはずだった。一方、で「日本一」になることによって実現される価値が社会に対しても十分なアピール力を持つのであれば、東大ラクロス部というチームは、ただラクロスが強いだけの部活動から、社会に大きなインパクトを与えられる組織へと進化することができるはずだった。
日本一という目標の先にあるもの。目標へと向かう動力炉となるもの。それが理念という発想だった。
プレシーズン期、清水は膨大な時間を理念についての話し合いに費やした。響きがよい言葉を額縁に飾るだけでは選手は何も感じないし、チームは何も変わらない。チーム全体を貫く真の軸を作るためには、部員がチームに対して抱いている‘思いのエッセンス’を汲みあげなければならない。だからこそ、これまで選手一人一人が漠然と感じてきたこのチームの魅力を言葉にし、深く堀りさげ、共有するためのプロセスが必要だったのである。
抽象的な話し合いは全てが手探りで、混乱も生じた。技術練習がおろそかになることを懸念する声もあった。それでも清水は妥協しなかった。納得するまで徹底的に話し合った。
1月最後のミーティング。その日が終わればチームはテスト期間のオフに入り、3月からは新たなシーズンが幕を開ける。その日、ついに東大ラクロス部の理念が発表されることになった。満を持して壇上に立つ清水の口ぶりには、満足感と自信が漲っていた。
「皆、想像してほしい。
ラクロスはまだこの国ではマイナー競技にすぎない。でも、10年経って、20年経って、いつの日かラクロスがメジャースポーツになったとき、東大はずっと日本一でいられる強豪チームになっている。
そうしたらきっとチームに世間の注目が集まる。プロジェクトXか何かで特集が組まれて、そこで初めて東京大学ラクロス部という存在が全国に知れ渡る。
その時、日本中に感動が巻き上がるようなチームにしよう。ただラクロスが強いだけではなくて、何よりもラクロスに対して真剣で、誰よりもラクロスを、人生を楽しんでいる集団。人間としても最高で、ラクロスに全く興味がない人からも目標にされるような集団、所属したいと思わせる集団になっていよう。
そんな集団になりたいという願いを込めて、理念を決めようと思う。
これからは理念を常に心に留めてほしい。理念を達成するために、チームに対して自分は何ができるのか?自分は何をしなければならないのか?そして、今のチームが日本一になれば、本当に理念は達成されるのか?常に問い続けてほしいと思う。
そうすれば、東大は名実共に日本一と呼ばれるに相応しいチームに絶対になれる。少なくとも、俺はそう信じているし、皆にもそう信じてほしいと思う」
そこで清水は一枚の模造紙を広げた。お世辞にも達筆とは言いがたい字だが、そこからは決意のほどを窺わせる力強さが感じられた。
「日本へ、貫く感動を巻き起こす集団でありたい」

こうしてチームの軸となる理念が生まれた。理念は日本一という目標を逃した時の慰みとして用意したものではなかった。それはチームが日本一になって初めて意味を持つもののであり、順番の逆転はありえなかった。勝利に対して貪欲な集団に変革を遂げ、日本一を目指す。一方で、独善的に勝利だけを追求する集団に陥らないために理念を掲げる。どちらに偏重しても意味はなかった。目標と理念は一見互いに反目しながら、その実相互を補完し合う関係にあった。
3月、チームは実質的なシーズンインを迎えた。
どれだけチームを目標に向けて本気にさせることができるか。理念をどれだけチームに浸透させることができるか。清水の戦いはこれからが本番だった。

4.
難しいだろう、とは想像していた。だが正直に言えば、そこに待っていた苦難の量は清水の想像をはるかに超えていた。
日本一になることがどれほど厳しいか、理念の達成がどれほど素晴らしいか、日々、清水は呪文のように繰り返した。そのたびに選手は神妙な顔つきを浮かべ、賛同の声を発した。だが、それが具体的な行動の変化となって表れることはなかった。それどころか主将になる前は当たり前のようにできているはずと思っていたことすら、実はほとんどできていないという現実も知った。変革の旗手である清水の前に立ちふさがる壁は日に日に高さを増していくかのようだった。苛ちが焦りをもたらし、時には無力感を覚えることさえあった。不安と希望の狭間を心が大きく揺れ動いた。
それでも清水は毅然とした態度を崩さなかった。
「まずは幹部から」
それは変革のコーディネーターたる幹部に語りかける清水の口癖だった。率先垂範、言葉よりもまずは行動で。そうすればそこから何かを感じた人間は自然と変わる。清水は誰よりも日本一という目標に厳しく、理念に対して忠実であろうとし、それと同じことをリーダーたる幹部にも求めた。

チームはゆっくりと大海原へと漕ぎ出した。
はじめに大きな波に乗ったのは、4月の六大学定期戦で慶応を破り、優勝に輝いた時だった。たとえゲームの大勢を握られても、ゴール前の最後の‘際’をしのぎきり、逆に相手より少ないチャンスを確実に活かす。それはずっと思い描いてきた対慶応の理想のゲームプランが初めて遂行された会心のゲームだった。
しかし、順調な旅路は長く続かない。5月に開催されるルネサンスオープン、リーグ戦の前哨戦として学生中心で争われるその大会で、ディフェンディングチャンピオンである東大は予選リーグ敗退を喫した。敗れた千葉大戦では、完成度の高い相手ディフェンスに無謀な攻撃を試みてはボールを失うという悪循環にチームは陥った。さらに、一度流れが悪くなるとなかなか立て直せないというメンタル面の弱さも露呈した。
積みあげてきた自信は簡単に崩れてしまった。敗戦の直後、清水は誰よりも肩を深く落とした。しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。「俺たちは、絶対日本一になれる」そう語る清水の言葉が力強さを失うことはなかった。
敗戦のショックから再び日本一を目指す力を清水に与えてくれたのは、他でもない理念だった。挫折から感動は生まれない。理念は‘今、やるべきこと’を的確に示してくるようだった。清水は自信のカケラを一つずつ拾い集めていった。一度は見失ってしまいそうになった光を目指して、チームを再び正しい航路に乗せようとした。
7月、チームは関西に遠征し、ナニワラクロスクラブと練習試合を行った。シーズン開幕前、清水は日本一になるための成長曲線を示し、いくつかのマイルストーンを設定していた。そのうちの最重要ポイントが、「8月の学生リーグ戦開幕前までに去年のチームを超えること」だった。去年の全日本選手権で東大はナニワラクロスクラブに敗れた。そのナニワに勝つことは、東大が日本一に向かって正しい道程を辿ってきたことを証明してくれるはずだった。
関東よりも一足早く夏の盛りを迎えていた関西は、乾いた熱気で満ちていた。その日、シーズン開幕以来最高のパフォーマンスを披露した東大は、ナニワから見事な勝利を収めた。
この試合を通じて、清水は日本一に向けての確かな手応えを感じていた。あとは8月の学生リーグ戦開幕を待つだけ、そう思っていた。
しかし、思わぬ方向から何の前触れもなく突風は吹きつけてきたのである。

5.
事の始まりは6月だった。
ある日、清水は東大駒場キャンパスの自治を監督する学生課から呼び出しを受けた。呼び出された直接の原因は、東大駒場第二グラウンドに隣接する小学校の窓ガラスを部員が練習中に過って割ってしまったことだった。小学校側には謝罪を申し出て、ガラス代の弁償も済ませていた。ただ、学内の事故については学生課に報告義務があることを清水は知らず、その不備を叱責されたのだった。
だが、事態はそれだけでは収まらなかった。清水はガラス破損の件に止まらず過去のラクロス部の悪態を数々指摘され、今後改善の余地が見られないかぎり廃部もありうるとの警告まで受けたのである。
そもそもフィールドホッケー場として使われていた第二グラウンドには、ラクロスボールの離散を防ぐ設備は整っていなかった。以前も安全面の問題が指摘されることは多々あり、その度に部では規律を正そうと努めてきた。しかし、これまで自分勝手にグラウンドを専有し、与えられた環境を当たり前のものとしか考えてなかった集団は、以後も事あるごとに問題を起こしてきた。
認識の甘さからずっと見過ごしてきた膿が、ついに致命的な大きさで破裂した。清水は事態の深刻さに驚き、すぐに対策を講じた。モラルを正すことを部員に厳しく課し、事故の再発防止に努めた。今度ばかりは部員も危機感を募らせ、周囲への配慮を怠らなかった。
だが、事故は起こってしまった。7月、ある部員の失投したボールが大きく跳ねて、小学校側のネットに向かって飛んだ。ボールは計ったかのようにネットに空いていた小さな穴を潜り抜け、小学校のガラスを直撃した。
弁明が聞き入れられる余地はなかった。ラクロス部はリーグ戦一ヶ月前というもっとも大事な時期に、駒場キャンパス内での活動を全面的に禁止された。活動禁止期間は第二グラウンドにフェンスが完成する9月まで。
チームは一瞬にして練習場所を失った。
天誅、そう言われても仕方がないほど、過去のラクロス部の愚行は目に余っていた。ただ、唯一にして最大の皮肉は、理念を掲げ、ただ強いだけの集団からの脱却を本気で志していた男が主将だったときに、問題が顕在化したことだった。

夏休みを目前に控え、学内外を問わずグラウンドはどこもすでに予約で埋まっていた。チームは他大学との練習試合を無理に組みこんで何とかボール感覚が鈍らないようにと努めたが、練習の絶対量が足りないことは明らかだった。
上手くいかないプレーに選手はフラストレーションを募らせ、焦りが不協和音を生み出した。しかし、それを修正するための練習ができないのでは、どうしようもなかった。
一方、グラウンドがなくなったことによって清水には別の負担ものしかかっていた。主将である清水はグラウンドについての便宜を計らってもらうべく、毎日、様々な人のもとへと出向いていっては、懇願して回っていたのである。プレーヤーとして練習しなければならない負担、学生として勉強しなければならない負担に、主将としてチームの外的な困難に立ち向かわなければならない負担が加わった。
それでも清水は文句も言わず、黙々と‘やるべきこと’をやった。苦難のどん底に陥ってみて、清水は理念の意味を再認識していた。愚痴をこぼして怒りを周囲に撒き散らすことは簡単だった。だが、それでは理念の第一の体現者としては失格だ。主将として理念を立ち上げた義務感が、中高時代に練習場所さえなかった辛い経験が、清水を支えていた。
チームはギリギリのところで何とかモチベーションを保っていた。そのために清水はこれまで以上に鼓舞し続け、一層愚直に行動することにこだわった。しかし、ナニワに勝ったときに手に入れたはずの自信は、少しずつ影を潜めていった。

その年は例年になく冷えこんだ。暑い夏は永久に来ないのではないかとさえ思われた。しかし、時間は止まることなく現在を過去に変えていき、未来を現在に変えていった。チームの都合など誰も省みてはくれない、結果だけが求められる戦いが始まろうとしていた。
第16回関東学生リーグ戦。
全6チームで争う予選リーグ1部Bブロックに入った東大は、8月後半に2試合、10月に3試合が組まれた。準決勝への切符は2枚、汽車に乗り遅れれば、シーズンはそこで終わりだった。

8月20日、チームはリーグ緒戦となる成蹊大戦を迎えた。限られた時間の多くを戦術練習に費やさざるをえなかった東大には個人技のキレがなかった。それでもシーズン序盤から導入を始めたゾーンディフェンスが成蹊オフェンスを封じ込め、東大は勝利を拾った。
2戦目は8月26日。相手は昨年度関東学生リーグベスト4の東海大学。
リーグ戦最初にして、グラウンド問題が片づく9月を前にした最大の山場だった。

8月後半、チームは一つの転機を迎えていた。J・Pの来日である。
J・PはOBの援助を受けてその年初めて招致したミシガン大学ラクロス部のヘッドコーチだ。滞在期間は8月14日から29日までの約2週間、それは成蹊戦の直後であり東海戦の直前というタイミングだった。
J・Pは東大に新しいオフェンスシステムを導入した。そのシステムはあまりにも画期的でありながら申し分なく合理的であり、当時の日本のラクロスの一歩先を行く可能性を十分に感じさせるものだった。
しかし、J・Pが提唱したシステムは確実性を重視する遅攻型のものであり、速攻を重視する従来のチームスタイルからはあまりにもかけ離れていた。大幅な戦術の変更に、チームは戸惑いを覚えた。ぶっつけ本番に近い状態で新しいオフェンスが東海相手に通用するのか?東海戦は従来の戦い方を踏襲し、新戦術の導入は次の試合からでいいのではないか?思わぬ成蹊戦の苦戦もあって強気を失っていた。ついに選手のうちの一人が試合前日にJ・Pに胸のうちの不安を伝えた。
その時J・Pが教えてくれたのが、目先の勝利ではなく、大きな目標を見ることの大切さだった。眼前の障壁に怯えて、目標を見失ってしまうことの恐ろしさだった。
「お前達の目標は、明日の試合に勝つことではない。全日本選手権の決勝で勝つことだ。明日の試合で万が一敗れても、それを取り戻すチャンスはある。それならば、失敗を恐れずにチャレンジするべきだ」
その言葉には確固たる信念と、何よりもチームを「日本一」という高みへ上らせることへの強い使命感が感じられた。

8月26日、駒沢球戯場補助グラウンド。新しいオフェンスが完全に機能したとは言いがたかった。それでも成蹊戦に続くディフェンスの踏ん張りと、2年生エースの爆発によってチームは勝利を収めた。
その勝利は単なる1勝以上の意味を持っていた。グラウンド問題というラクロスとは直接関係のない苦難に遭遇し、ともすれば近視眼的な勝利を追及していまいそうになっていたチームは、本来目指すべき場所を見失わずにすんだ。
最も苦しい8月の2試合を、チームは最高の形で乗りきることができた。駒場での活動禁止処分は9月初旬に解け、練習環境の問題も解決されるはずだった。次の試合までの1ヶ月でJ・Pが導入したオフェンスシステムをじっくりと煮詰めることができるし、これまでは看過せざるを得なかった小さな課題にも一つ一つ対応することができるはずだった。
2つの勝利は清水に安堵感を与えた。だが、またしてもそれは束の間の安息に過ぎなかった。

5.
駒場での活動禁止処分が解けた直後、またも学生課に呼びだされた清水は予期せぬ通達を受けることになる。それはこれまで駒場第2グラウンドと併用してきた駒場ラグビー場の使用禁止処分だった。駒場での活動禁止処分解除に伴い、ラクロス部が使用していいのはフェンスが設置された第2グラウンドだけ、安全面で疑問が残るラグビー場の利用は禁止のまま、という通達だった。
ラクロス部の部員数は数年前から100人を超え、チームは、A、B、1年生の3つに分かれていた。第2グラウンドの広さはラクロスコート1面分にも満たないため、3チームが駒場キャンパスで同時に練習するためにはどうしてもグラウンドがもう1面必要だった。これまではラグビー場を併用することでそれを補ってきたラクロス部は、今回の処分によって再びグラウンド欠乏状態に追い込まれることになったのである。
清水はすぐさま抗議に走った。ラグビー場はキャンパスの外れにあり、ラクロス部が練習する早朝はめったに通行人もいない。さらに公道からはずいぶん離れているため、通行人に危害が及ぶ危険性も低い。そういった根拠を持ち出しては、何とかグラウンドの利用を認めてもらえるよう説いて回った。しかし、これまでラクロス部が与えてきた悪印象が清水から弁明の機会を奪った。説明はただの甘言としてしか聞き入れられず、学生課のみならず誰に懇願してみても返答は決まって「無理なものは無理」だった。
暗く長いトンネルをやっと抜けだしたと思っていた矢先だっただけに、今回の事件は精神的ダメージが大きかった。これまでどんな苦境に立たされても負けなかったという自負があった。ハンドボール部の時も、大学入学後も、ひたすら努力をすることで道を切り開いてきた。しかし、毎日徒労に思える努力を繰り返しながら、清水は自分の中の支えが折れてしまいそうになっているのを初めて実感した。生まれて初めて、清水は自分の力だけでは超えられない壁に直面した気がしていた。
問題はグラウンドを失ったことだけではなかった。再び練習環境が悪くなったことで、チーム内に鬱積していた不満がついに底を抜けた。誰もが無責任に不平を唱え始め、些細な問題が全て主将である清水のもとに持ち込まれるようになった。また、プレー面でもオフェンスは未だ迷走を続けており、上手くいかないオフェンスがチーム全体の歯車を狂わせ始めていた。
状況は日に日に悪くなっていく。そして、状況が苦しくなればなるほど清水を締めつけるのが理念だった。今年日本一を目指すだけなら、グラウンド問題に清水が奔走する必要などなかった。トップチームがフェンスのついた第二グラウンドで練習をし、Bチーム以下は空きスペースを使って練習していればそれでいいからだ。しかし、理念がそれを許さない。東大が常に日本一を覗えるチームになるためには、最高の練習環境を守ることは義務だからだ。
清水は走った。今年のチームだけのためではない、もっとずっと先の将来のために清水は戦った。しかし、そんな清水の態度が理解されることはなかった。何より一番落胆させられたのは、グラウンドがないことに不平を叫ぶ部員が理念のことなど微塵も考えていないように思えたことだった。身勝手な主張を聞かされる度に、今まで自分が伝えようとしてきたことが全て無駄だったような気がした。自分が信じているものが軽んじられ、自分自身がないがしろに扱われていると思わないではいられなかった。
誰も主将である自分の苦労を分かってくれない。グラウンドがないという現実と理念という理想絵図に挟まれた清水は、どうしようもない孤独を感じた。グラウンドさえあればすべての問題は解決するはずだ。にもかかわらず、そのために清水にできることあまりにもは限られていた。一生に一度のお願い、子供の頃よくふざけて使っていた言葉がアイロニカルに思い起こされた。これまで誰かに本気で頼みごとをしたことなどなかった。一生に一度というのなら、その一度を今使ってもいい。そう考えた清水は、夜、鏡の前で一人土下座の練習をした。しかし、鏡に映った自分の姿を見てこみ上げてくるのは自嘲的な笑みだった。自分が頭を地面にこすりつけることにどれだけの価値があるというのか。無理なものは無理、頭ごなしに幾度となく言われた言葉が頭の中で蘇った。
全てを捨ててしまえたらどれだけ楽だろう、清水はそう思うようになった。今まで一度たりとも揺らぐことのなかったラクロスそのものに対するモチベーションが、日に日に小さくなっていくのを感じていた。清水は自分の限界がすぐそこに来ていることを痛感した。

そんな中だった。九月のある日、駒場学生課からラグビー場使用禁止の通告を受けた清水は、本郷学生課に掛けあっていた。しかし、結果はいつもと同じだった。打ちのめされた清水は、安田講堂から正門に続く銀杏並木をぼんやりと歩いていた。
その時、ちょうど試験が終わった法学部の校舎からラクロス部の後輩が出てきた。後輩は清水を見つけると、満面の笑みを浮かべ大きく手を振った。
「これで明日からまたラクロスができます!」
ラクロスがしたい、それはどこまでも純粋な思いがさせた屈託のない笑顔だった。
それを見て、清水は自分が洗われていくのを感じていた。そして、気がついた。これまで自分がしてきた努力は、結局また独りよがりなものにすぎなかったということに。
日本一になるために、グラウンドを守るために、これまで清水を動かしてきたものは理念を守らなければならないという義務感だった。そして、その背後には常に目の前の逆境に屈服しそうになっている自分自身に対する罪悪感があった。それは結局、理念に叶ったチームを作りたいという祈願を成就させるための闘いであり、日本一になりたいという願望を成就させるための闘いだった。
これまでがむしゃらに目の前の壁にぶつかって来た清水は、このとき初めて足を止める余裕をもつことができた。視点を引いて考えてみることができた。理念は本来‘守らなければならない’ものではない。‘守りたい’と思うもののはずだった。そう考えた時、自分が初めて理念と同じ方向を向いたような気がした。そして、清水は改めて答えを探した。目の前の障壁に立ち向かう理由と、理念を全うすることの意味を、だ。
これまでは後ろを振り返っている余裕などなかった。そもそも、後ろを振り返ることに意味などないと考えていた。そんな清水が初めて後ろを振り返ったのである。
そこで清水は主将である自分の背中を頼りにしている多くの部員達の姿を見た。それは、今、現在ラクロス部に所属している部員だけではなかった。10年、大げさに言えば、100年後にこのチームを選んでくれる部員たちが今の主将である自分の後ろにいることを知った。そして、主将である自分の背中もまた、その多くの部員達に支えられていることを知った。
守りたい、清水はそう思った。自分を頼りにしてくれる百人の仲間を守りたい。百年後、同じようにラクロス部に入ってくる仲間を守りたい。何かを勝ち取るのではなく、何かを守るために戦うこともあることを清水は初めて知った。
これまでずっと理念に息苦しさを感じていた清水は、初めて理念を心地よいと感じることができた。自分が目指していた場所がどこにあるのかを知り、それを実現することに使命感でも焦燥感でもないやりがいを感じた。
大好きなラクロス部を発展させたい、素直にそう思っている自分がいることを清水は知り、そんな自分を初めて受け入れていた。

その日から清水の強さが変わった。
何事に対しても妥協をせず、愚直なまでに努力を続けるというスタイルは一貫していた。ただ、その背中からはこれまでのような危機感も焦燥感も影を潜め、どこか温かさが感じられるようになっていた。
清水は毎日スーツ姿で各所を駆け回り、ラグビー場を使わせてもらえるよう嘆願して回った。槍玉に挙げられた規律の不備を正すため、部の管理体制を徹底した。ラグビー場の安全性を立証するため、今までの事故の原因を徹底的に掘り下げて、数十枚にも及ぶ報告書を作成した。
もちろんラクロスにも全力を尽くした。制限された環境に不満を述べるのではなく、今ある環境の中でどうすれば最大限の効果が得られるかを考えた。
清水の変化を、部員は敏感に感じとった。何故、この人はこんなに頑張れるのだろう?泣き言一つ漏らさず、馬車馬のように走り回る背中を見てきた部員はその姿に驚き、考えさせられるようになった。
言葉ではなかった。清水の背中は、いつしか理念の意味を自然と語っていた。

少しずつ、しかし、確実に状況は変わっていった。グラウンド問題では、当初ラクロス部を目の敵にしていた人達が便宜を計ってくれるようになった。最初は及び腰だった人達が、本腰を入れて協力してくれるようになった。プレー面では混迷していたオフェンスが少しずつよい方向に向かっていった。

10月5日、リーグ戦第3戦の相手は、古豪早稲田。
想定になかった相手ゾーンディフェンスに、オフェンスは苦戦を強いられた。逆に研究しつくされていたディフェンスは序盤から崩され、第3クォーター終了時点で4点のビハインドを東大は背負っていた。
負けるかもしれない。そう思うのが必然の展開だった。しかし、チームの心は折れなかった。最終第4クォーター、怒涛の勢いで早稲田ゴールに押し寄せた東大は、ラスト3分でついに同点に追いついた。しかし、試合はそのままタイムアップ。東大は勝ち点1を早稲田と分けあうことになった。
残された2試合の相手は明治と千葉。明治は東大を除くリーグ戦全日程を消化しており、すでに全勝で予選リーグ通過を確定していた。千葉も明治に土をつけられた以外は危なげなく勝利を積み重ねており、実質的に東大と残る一つのファイナル4への切符を争う相手となっていた。
東大が勝ち取った勝ち点1は、1位での予選リーグ通過へ望みを繋ぐ貴重な勝ち点ではあったが、それはリーグ戦突破に黄信号を灯す痛恨の引き分けでもあった。あと一つでも負ければ予選リーグ敗退が決まる。チームは緊張感に包まれた。

だが、その緊張感がチームを奮い立たせる。
続く明治戦、相手エースを徹底的に封じこめる作戦が功奏し、最後は緊張が切れた相手から東大は大量得点を奪った。それはリーグ戦初の会心の勝利だった。
この勝利でチームは乗った。続く千葉戦。勝ったチームが準決勝進出という予断を許さない状況のもと、一進一退で進んだ試合は同点のまま最終クォーターを迎えた。
第4クォーター開始早々、先に点を取ったのは千葉だった。しかし、東大は焦らない。じっくりと形を作り、虎視眈々と千葉のゴールを狙い続ける。アタックを繰り返す東大のオフェンスを前に、千葉のディフェンスがついに綻びを見せる。1on1でゴール前に切り込んだ東大アタックに、千葉のカバーが一瞬遅れた。執念の同点ゴールは東大に勢いを与え、そしてその勢いが勝ち越しの1点を東大にもたらしたのである。
劇的な勝利だった。こうして東大は苦しみながらも予選Bブロックを1位で通過した。
来る準決勝は11月15日、舞台は大井第二球技場。相手は、昨年と同じ日本体育大学。
誰もが勝利を信じて疑わなかった。誰もが日本一になれると信じて疑わなかった。
しかし、そこで物語はフィナーレを迎えた。

6.
照明塔の明かりが消え、暗闇がすっぽりと周囲を包み込んだ。11月の風は芯から身体を凍えさせるほどに冷たかったが、それでも東大の選手は敗戦のショックに揺らぐ思いを静めることはできなかった。
試合後、今シーズン最後のミーティング。集まった選手にコーチが労いの言葉を順々にかけていく。誰もが悔しさに打ち震え、憚ることなく涙をこぼす。
ミーティングの最後、主将である清水が言葉を求められた。
静寂が辺りを包んだ。200個の部員の瞳が清水を見ていた。

清水は自分のなかで逡巡している思いに一つずつ言葉を与えていった。

誰よりも負けず嫌い、それゆえの情熱。
ラクロス部に入部したときの清水は、誰よりも勝利に対して貪欲であり、ラクロスに対して真摯に向き合っていた。主将になったときの清水が幹部に語ったこと、それは日本一になるためなら人殺し以外は全部やるという、頑ななまでの勝利に対する執着心だった。
清水にとって日本一になることは間違いなく夢だった。清水は誰よりもその夢に対して一生懸命であり、そこにすべてを賭けていた。
しかし、夢への道が断たれた直後、清水の口から出た言葉は無念を語るそれではなかった。清水は懐かしむような表情を浮かべながら、あの日、銀杏並木で清水が見た笑顔と、その笑顔に自分がどれほど救われたかを語った。あたかも一枚の写真がそこにあるかのような鮮明さで。
負けないために生きてきた男は、そこにはいなかった。そこにいたのは、誰よりもチームを愛する主将だった。清水は最後に、少しだけ申し訳なさそうな顔を浮かべて言った。
「日体戦に勝つことで、このチームでラクロスをやる時間がまた増える。ラクロスをやっているみんなの笑顔を守るために、もう少しみんなの笑顔を見るために、今日の試合を勝ちたかった。」

清水のプレーについて、少しだけ語ろうと思う。
球技ではニュートラル状態のボールを支配することが試合の命運を分ける。ラクロスの場合、グラウンドボールというプレーがそれに当たる。地面に転がったボールをクロスで拾い上げ、キープする。決して華のあるプレーではない。泥にまみれ、時に激しく当たられ、それでもがむしゃらにボールを拾いに行くプレーだ。
清水はそんなグラウンドボールの名手だった。
8月の東海戦、どうしても下がらない熱を抑えるため清水は点滴を撃って試合に出た。10月の早稲田戦ではアバラ骨を痛めていた。古傷を抱える膝の調子も思わしくなかった。しかし、清水はそのうちのどれも話そうとはしなかった。自分にできることがあるのであれば、ただ、それをやる。清水の態度はグラウンドの内外を問わず一貫していた。
結局、リーグ戦を通じて、清水のクリースプレーが爆発することはなかった。得点数は他の二人のアタックに遅れを取った。
それでも清水は痛みを抱えながら、誰よりも多くのグラウンドボールを拾い、チームの危機を幾度となく救った。誰かが犯したミスを誰よりも多くカバーした。そんな清水に冷やかし半分でつけられたあだ名は‘爆弾処理班’だった。しかし、清水は笑ってそれに答えた。
「チームが勝つならいいよ」
グラウンドの中での清水のプレーは誰よりも勝利に忠実で、だからこそ理念の意味を強く考えさせた。その姿は観ている者の心を撃ち、誰の胸にも感動を与えた。

理念の意味について真剣に考え、忠実であろうとした部員ほど口を揃えてこう言った。
「清水さんが頑張るから、自分も頑張ろうと思った」
理念を伝える物、それは言葉ではない。言葉は行動になったときに初めて意味を持つ。しかし理念を伝える物は行動ですらない。
理念を伝えるのは、行動する者の心なのだと思う。
泉が湧きあがるように純粋に溢れ出してくる思い。理念を守りたい。チームのために何かをしたい。そして、チームが好きだという思い。
どこまでも折れない、強くそして温かい心。それが貫道されたとき、そこにはじめて感動が生まれるような気がする。

後日、今回の文章を書くに当たって、どうしても聞いてみたかった質問を清水にぶつけた。一年間理念を掲げてきて、チームは変わったか、と。
「わからない」開口一番率直な感想を言った後で、清水はつけ加えた。
「でも、少しずつ変化は出てきている。ただ課題をこなすだけでなく、それをこなすことでどうなるかを考える奴が増えた」
日体戦の翌日、東大女子ラクロス部が2部リーグへの昇格を賭けた入れ替え試合を戦った。敗戦の傷はまだ癒えていなかった。しかし、1年生から4年生まで部員は一人残らず応援に駆けつけ、女子ラクロス部の勝利に心からの拍手を贈った。
それは自分の悔しさよりも‘チームの在り方’を考えた行動だったと言えるのではないだろうか。自分たちのためだけに戦っていた時にはできなかったはずのことが、いつしかチームは自然とできるようになっていた。

清水は引退した後も戦った。ラグビー場に関しては安全面の問題が解決されれば、使用が認められるという段階までこぎつけた。そして、そのためのフェンス購入資金に充てるべく、部員は冬休みを利用してアルバイトを行った。

日本一という目標が達成されなかった以上、理念もまた不達成だったと言わざるをえない。
2003年、日本に、貫く感動を巻き起こすことはできなかった。
しかし、礎は築かれた。本当に大切な物は、清水から後輩に伝えられた。
10年かかるかも知れない。100年かかるかも知れない。しかし、心が受け継がれていく限り、きっとチームは‘日本一’になれる。日本中に感動を巻き起こせる日が、必ず来る。
そう信じてやまない。

<引用ココまで>
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