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千葉篤胤の転生記_16~治承・寿永の乱

平清盛ほか主だった平氏が集まる福原は騒然としていた。この福原はつい先日に高倉天皇など皇族も平安京から移っており、今や福原は平氏の本拠地だけでなく新しい都でもあった。

騒然としている理由は源氏の同時挙兵である。源信義率いる甲斐源氏により甲斐が堕ちようとしている。平氏としては以仁王の令旨が出回った折に甲斐源氏は動く可能性があったのでやむえないと思えても、残る2つが想定外であった。

1つは源義仲の元へ以仁王の遺児である北陸宮の合流である。これで以仁王の令旨の大きな旗印として北陸宮を源義仲が前面に出して反平氏を結集させてしまう事を危惧した。

そして残りの1つが一番の悩ましいことである、源頼朝の上総下総への合流である。せいぜい頼朝の養父となった北条一族が助太刀し一波乱くらいが関の山かと思いきや、いきなり上総下総を傘下に治めた。

これで全国66か国のうち、上総・下総・甲斐と3か国も源氏側となり、甲斐と下総は武蔵を挟んでほぼ隣国でもあるので2勢力が繋がる可能性も高かった。

近年の騒動はすべて平氏側の圧倒的な力でねじ伏せてきたものばかりであったが国という規模では長年なかったことである。これはもう戦という次元である。

福原の清盛館には平氏一門の重鎮たちが集い、追討軍編成の話より先ずはなぜこうなったのか議論をはじめてしまうものの遅々として進まない。源氏の棟梁であった源義朝の嫡男を伊豆に幽閉して見張らせていたにも関わらず何故この様な顛末になったしまったのかということをああでもないこうでもないと話し続けている。

(そんなの、こうなることを知ってたからだろ)

平教経は自分の中にいるもう一人であるスミレに呟いた。自分とおなじく未来人が意識下に同居している奴がいる。それはこの前の以仁王の騒動の時に園城寺近くにいた。園城寺は平氏に抗う勢力で、きっとそいつが今回の頼朝挙兵に絡んでいると考えている。

そうこうしているうちに、ようやく追討軍の話へと進んでくるも、だれが率いるべきかの話もすんなりとは決まらない状態が続いた。結局今回の追討軍は清盛の孫である平維盛が総大将として率いることで決まった。

追討軍の大枠は決まるも、そこから軍編成に時間がかかり、編成だけでなく、京まで着いた後でも出陣の吉日云々などと内部でも揉めたりなど、そうこうしているうちに3週間程かかってようやく京を出ることになった。

その間に上総・下総・甲斐が完全に源氏側に固められ、もはや武蔵でも幾つかの一族は源氏側に寄ろうとしていた。頼朝達が目指していた鎌倉までももうすぐたどり着くというところまできていた。更に甲斐源氏の一軍は駿河へも兵を進めていた。

平清盛が追討軍へ断を下してから1か月が経つ。平氏と源氏は遂に対峙する富士川へと迫っていた。

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