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しょうもない話|顔

顔があって驚いた。前回のセキララ裸体告白に続き、またしても何をと思われるかもしれないが、めくるめく要介護の世界では自分の顔を見る機会がほとんどないのである。

そもそも私の生活は、ベッドルーム・トイレ・お風呂、この三地点における必要最低限の行為のみで構成されている。これを要介護のBTO(ベッドルーム・トイレ・お風呂)トライアングルと名付けてみるとして、私は一日中BとTの間を行ったり来たりしている。

Bで目覚めてBで食べ、Bで食べてはTで出し、Tで出してはBで食べ、Bで食べてはTで出し、Tで出してはBで食べ、そしてそのままBで寝るという生活を送っているのだ。そのため1日における移動距離はもちろん驚くほど短い。

B‐T間の往復以外に、なんだか数学の問題みたいになってきているが、O‐T間の移動もたまにではあるが発生する。朝食後と夕食後、滞った血行を循環させるためにお風呂に入るのが一日における最大のビックイベントなのだ。なお、入浴におけるお祭り騒ぎについては、前回の投稿を参照していただきたい。

 
さて、このBTOトライアングルであるが、我が家の場合、動線上に鏡が存在しない。正確に言うとB‐T‐O間に引かれた線から、鏡の設置された位置が5センチとか10センチとか、微妙すぎるラインで外れているのである。

トライアングル間の移動中は転んだりしないよう必死なため、ライン上から外れたものには目をやっている余裕がない。そのため、鏡というものの存在自体を近頃は忘れてしまっている。

とはいえ、つい2年ほど前までノー介護系女子だった習慣からか、ふと鏡の存在を思い出す時がある。お風呂上がりには素っ裸で椅子に腰掛けて涼むのが動作の一環となっているのだが、体調が良い時には斜め後ろにある鏡のほうを振り返り、「顔だ!」「顔がある!」などとはしゃいだりする。

ほとんどの人にとって顔があるのは当たり前だ。当然中の大当然だ。しかしながら要介護生活を送っていると、自分の目の前にあるものだけが世界と言うか、顔は視界の裏側にある物のような感じがして、その存在自体を忘れてしまう。だから自分の顔を見るのは新鮮なのだ。


そんなことを考えながら思い出した詩がある。まど・みちおさんの「くまさん」という作品だ。

はるがきて めがさめて 
くまさん ぼんやり かんがえた  
さいているのは たんぽぽだが  
ええと ぼくは  
だれだっけ だれだっけ 

はるがきて めがさめて  
くまさん ぼんやり かわに きた 
みずに うつった いいかお みて 
そうだ ぼくは くまだった  
よかったな



まさに「くまさん」の境地である。

 
この奇病の日々は一体なんのだろう。治るかも分からない、終わりの見えない生活はさながら人生における冬眠のようでもある。

鏡に映った私は、決して悪い顔をしていない。むしろ陽に当たっていないため肌は白く、栄養に人一倍気を遣っているためツヤも良く、一見すると健康そうにしか思えない。この奇病の苦悩は「健康そうに見える」ことから受ける様々な誤解にもあるのだが、かといっていざ自分の顔がやつれきってしまったら、それはそれでショックかもしれない。

それならばせめて、鏡に映ったいい顔を見て、これはこれでと満足しようではないか。

よかったな。

HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞