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人生に疲れる私には"生きる理由"よりも"死なない理由"

私と希死念慮


私はほぼ毎日、
「生きるの疲れた」「生きるのやめたい」
「生きるのやだ」「しにたい」
のいずれかをポツリと呟きます。
頭の中では1日に何度も何度も考えます。

「いきていたらきっといいこともあるよ」
と言えるのは、
生きていていいことがあった人だと思うし、
きっとどんなにいいことがあって、
「生きててよかった」といつか思えても
多分私は数日後、
いつも通りしにたくなっている気がします。

そう、この希死念慮は
もはや癖になっているのです。

昔からずっとある癖。

何となく、
この事柄と向き合いたくないな、
現実逃避したいな、というときにも
「生きるの疲れたな」
と思ってしまいます。

多分、掘り下げたら
「全部投げ出してどこか遠くに行きたいな」
くらいの感覚でも使うことがあります。


生きる理由の為に生きれない


そんな私は、生きる理由よりも
死なない理由を持っていた方が
結果的に生きれるかも、と最近思います。

なぜなら、生きる理由があっても
その効果を発揮しないからです。


生きる理由というのは、例えば
・誰々の為にも生きよう
・自分の目標を叶えられるように頑張ろう
・自分の楽しみのために生きよう
みたいなのが多いと思います。

でも、これって
私には時々苦しくなってしまうんです。

友人や恋人に
「死んだら寂しいよ」
「生きててほしい」
「俺の為にも生きて」
って言ってくれる人が何人かいました。

でも、私が本当に気分が落ち込んだ時、
「全人類が私を要らないと思っている」
と思い込んでいる為、
「そう言いながら、心の中では
私のことどうでもいいんでしょ」
とめんどくさいことを考えます笑

「俺のために生きて」に関しては、
この人は私にしんどいことを強要してくる
と感じてしまうので苦しいです。

自分の目標や楽しみについては、
死んだらどうせ全部なくなるしな
と最早どうでもよくなってしまいます。


なので、生きる理由があったとしても、
その為に生きれないのです。


私が死なない理由


(数日後、この辺から有料にする予定です。
ご承知おきください🙇‍♀️)

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