見出し画像

やさしいひと

飲み会は好きじゃない。
から、どうにか避けられないものか、うまく断る方法はないかと誘われた瞬間から脳みそを無駄にフル稼働する。
だけど今日の飲み会はいつまでも帰りたくなかった。
この時間が永遠に続けば良いなって思えたほどに、楽しくてそして温かかった。
何故ならば一緒に居たその人は やさしいひと だから。

今日は辞めた職場の方々に、一応私の送別会チックな会を開いてもらった。
私含めて4人の本当に少数の送別会。
自己都合で契約期間を大幅に短縮して、さらには私一人が抜けた後を多くの人にカバーしてもらっている中なので大変に肩身が狭かったが、私はルンルンした気持ちで向かっていた。

私のことをいつも気にかけて声をかけてくれていた人が、『飯に連れていく約束を果たせていないから』と律儀に連れていってくれたからだ。

いろんな話をした。
自分の生い立ちや、トレーナーを目指すきっかけになった話、今回辞めることになった経緯、その人の過去の話など。
今回の一回じゃ足りないくらいもっともっと話したかったし、話を聞きたかった。

酒もご飯もいらないくらいだった。
その人がその場にいるだけで他には何もいらなかった。
最初から最後までずっと楽しかった。

帰宅してから止めどなく、涙が溢れた。
その人と出会えた喜び、その人にはもう会えない悲しみ、
そして今日まで関わってくれた感謝の気持ち。


あー、真に やさしいひと だったなー。って。




よく、特段褒めるところがない人に対しての印象を聞かれた際一番使われるワードが「やさしい」だと私は思っている。し、私自身割と意識して多用してしまう。
便利だよね。傷つけないし、悪より善のイメージがあるしで大抵は喜ばれる。
そして一般的な評価基準を求めている人に対して、一般的に分かりやすく表現する時に「やさしい」と言うようにしている。

でも、自分が思う真に やさしいひと というのはまた別のところに位置している。

真の やさしいひと は今完璧に定義しきれない、ふわっとかなり中途半端ではあるが、今のこの感情を残しておきたいから書き残していることを了承してほしい。


あくまで自分は自分の自由意志のもとに生きていて、他人がどうこうしようが自分には全く関係ないんだ。だからお前らも勝手に楽しく生きていってくれよな?というスタンスを貫いている人のイメージ。

そういう人たちって一人一人が持っている大事にしたい部分に対して、自分の生き方を持って自然に尊重してくれている気がする。
わざわざ言葉で示しているわけじゃないから、とてつもなく気付きにくいから、全然言葉にできないけど。

文字にすると、一見冷たいように見えるけどこう、肯定や受容と近い感覚というのかな。
相手の意見や考え方、価値観、人生観など全てにおいて「それもありだね」って感じ。

しかもこういう人たちって一人一人にある背景を想像しようとしている気がする。
自分の価値観や経験以外にも存在する背景を自分が持っている材料から、抽象と具体を用い理解しようと努力する感じ。

実際、その人自身もかなり努力や苦労してきている人も多いんだが、交友関係が広くて情報通だったり多くの人と関わる仕事だったりで得た材料を絶対自分の糧として自分の身に落とし込んでいる感じ。



全体的にふわっとして締め方全然分かんないけどまあいいや。
久しぶりに やさしいひと に会えたのが嬉しくて文字にしたくなった。
また大阪に遊びにきたら絶対にご飯に行きたい。
これだけでも大阪に来た甲斐があった。

さんきゅー、大阪。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?