映画、記憶のノコリ方
昨日は9月11日。(執筆開始時)
アメリカで9.11があってから22年の月日が経ちました。
あの日の当日は今でも覚えています。
出版社のビルにいた自分は、編集部のあちこちにあるTVが一斉に点けられていて、刻一刻と起こる異常な事態を報じている。現場から遠い日本でも、あまりに想定外な事が次から次へと起こる事にみな、動揺してニュースを見つめていました。
さて…今年の9/11日。
TVで映画が放送されていまし「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(原題: Extremely Loud and Incredibly Close/2011)」。
公開当時に劇場で観ています。
自分の記憶の中では良い映画であったこと、完成度が高い、少年が自閉症であった事、祖父との交流場面の手の平の刺青「YES/NO」が色濃く記憶に残っていました。
逆に言うと他が思い出せない。
映画ではよくある事です。
むしろ、残る部分に自分の感受性を発見したり、再見した時に違う感想を持つ事で出会うタイミングの意味や、世相と自分の変容や成長を知る事が多々あります。
今回もそんなイメージで、ついつい見始めて、ラストまで観てしまいました。
ビックリしたのは9.11が主題にある映画なのに、まるっきり覚えて居なかった事。
映画全体の主題は理不尽な理由で家族を失った者が、どう需要していくか、そんな話でした。
良い映画なので、勧めたくもあるのですが、思いの外…というか記憶の外、重たいテーマの作品でした。
この日記的駄文で語りたいのは、主題についてではありません。
覚えて居た事の狭さです。
何度か既に書いて居ますが男色家で老年の男性に恋をしてしまいがちな自分。
この映画でいえばマックスフォン・シドー演じるお爺さんのキャラクターをかなり好感度高く記憶して居たのですが、待てど暮らせど、なかなか登場しない。
たしかに登場してから、しばらくは良いムードもあるのですが、どちらかと言えば家族から逃げた、父親としてはダメな人物として描かれています。
罪滅ぼし的に行動を起こしますが、それも決して機能して作品全体では一部として添えられていますが、主軸というほどの存在ではありません。
12年ぶりの鑑賞は、その記憶の残り方に自分に対してガッカリするものを感じました。
言うなればアイドル映画で〇〇ちゃんカワイイ!と観てる感覚と、大差ない嗜好で記憶に残していた。そんな自分にガッカリです。
いや、根源的に考えればそういうモノが人間なのかもしれません。
作品が素晴らしい生と死の物語だっただけに、その記憶とのギャップにガッカリだった訳です。
マックス・フォンシドー、既に2020年に90歳で亡くなっています。良い役者さんだと思います。
ええと、こういう告白はアレですが、使った事があります…(不謹慎)
※この作品ではありません…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?