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3年目医師を蝕む激務…意欲的だった彼がまさか

 はじめまして。産業医・元産婦人科医の平野翔大です。

 専門医取得への道半ばでキャリアチェンジをした、専門医資格なし・学位なしの医師6年目ですが、臨床で気付いた課題を解決すべく、産業医・社会事業家・ヘルスケア事業のアドバイザー・医療ジャーナリストと幅広く活動しています。狙って進んだキャリアではなく、計画性もあれば偶発性もあったキャリアですが、今は充実した日々を過ごしています。

 2023年12月までは医師のキャリアイベント「医師100人カイギ」の司会も務めており、さまざまな先生のキャリアに触れてきました。この度の連載では「医師の臨床外でのキャリア」の一例として、私がどのようにキャリアを構築していったか、ご紹介させていただこうと思います。

医師免許は「必要ではない」が
「なければできない」仕事ばかり

 最初に自己紹介を兼ねて、今の働き方を紹介したいと思います。
 私は現在、臨床業務には携わっておらず、産業医・社会事業家・事業アドバイザー・医療ジャーナリストとして次のようなスタイルで活動しています。

 (1)産業医(週2~3日)
 嘱託産業医として、東証プライム上場企業の本社産業医からベンチャー企業まで約20社を担当しています。産業医として選任されている企業以外でも、「女性の健康経営」をテーマとした講演や研修、コンサルティングを多数しています。

 (2)社会事業家(週2~3日)
 一般社団法人 Daddy Support協会を創設し、代表理事として、昨今話題の「男性の育児・育休」の社会課題に取り組んでいます。東京都区部の行政と組み、公民連携での育児支援や調査研究活動、企業の従業員向け支援や制度構築の支援を行っており、さまざまなメディアでも活動を取り上げていただいています。

 (3)ヘルスケア事業のアドバイザー(週1日)
 大企業やベンチャー企業で、ヘルスケアに関する新規事業のアドバイザーをしています。医師がいないと分からないことも多いのがヘルスケア業界なので、自分自身も事業をする立場として、真に社会に有益、かつ現状のエビデンスにも反せず、ビジネスとしても成立し顧客に使われるプロダクトを開発しています。

 (4)医療ジャーナリスト(すきま時間)
 m3.comでも実は以前より連載(「脳筋"ギネ男"ひっきー」名義、「FPドクター」名義)していましたが、研修医時代より物書きをしていました。2023年4月には中公新書より新書「ポストイクメンの男性育児」を出版、男性の産後のメンタルヘルス不調や育児問題について書いています。また最近では、医師の働き方改革についてもwebメディアや専門誌で連載しています。

 これらは一見雑多で関わりの薄い活動に見えますが、それぞれが有機的に作用しあって仕事になっています。産業医としての企業内での知見と、産婦人科で感じた現場感から取り組んでいるのが、男性育児の社会事業。そしてこれらを世に伝えるため、自らジャーナリストとして調査報道もしています。
 そして、幅広い医療業界とビジネスに関する知見は、事業アドバイザーに活きています。

 それぞれにおいて医師としての基礎知識や、現場で得た感覚が活きているので、「医師免許」が必要な仕事は産業医だけですが、なければできない仕事ばかりだと感じています。

臨床医としてのキャリアを
歩み始めた研修医時代

 そんな私も、医学部時代や研修医時代からこのような働き方をしようと思っていたわけではありません。

 2018年に医学部を卒業し、卒後は長野で初期研修を行いました。大学の卒業生は多くが大学の系列病院に行くなかで、大学とは全く関係なく、自分の出身地でもない長野を選んだことが1つの転機になります。

 研修医2年目の10月、働いていた長野市を、台風19号が襲いました。多くの施設や病院が被害を受けましたが、無傷だった勤務先は多くの患者を引き受け、避難所の検診なども行いました。この経験を機に書かせていただいたのが、私が初めてm3.comで掲載した記事です。

 大学時代にも出版コンペなどでファイナリストに残った経験はあったのですが、ライティングを始めたきっかけはまさにこの災害でした。

 研修医時代は臨床医学や日々患者と向き合うことを楽しむ一方、院内の医療安全委員会や感染対策委員会(ICT)などにも所属し、院内横断的な活動にも携わりました。各科での経験を軸に「安全・感染」という横串を刺した動きに携わることは、改めて院内を俯瞰的に見ることにもつながり、個々の診療と病院全体の運営という双方の視点を得ました。

 その当時興味深いと感じたのが、各科の知識をある程度持ちながら全身管理を担う集中治療と緩和ケアだったところは、もしかしたらジェネラリスト向きだったのかもしれません。さまざまな委員会による「組織管理」に興味を示していたのは今の産業医や事業コンサルティングにもつながりますが、振り返れば当時から今のような境界領域の仕事を志していたのだと思います。

 もちろん先ほどご紹介した執筆活動や、医療以外の勉強も1割くらいは行うようにしていました。ビジネス書など他分野の書籍を読んだり、社会人になったのもあり資産運用の勉強などもしたりしていました。学生時代から常に多分野にアンテナを張って情報収集・学習をしていましたが、それを研修医時代も続けていました。

 進路は初期研修に入る前から産婦人科にほぼ決めていました。臨床研修中に少し麻酔科と心が揺れたものの、初期研修に行く前に決めていた通り、母校の産婦人科医局に入局、1年目は地方の関連病院派遣になりました。

医師3年目、多忙な日々に心が蝕まれ…

 その私にとって、3年目からの産婦人科の専攻医研修は面白さも、つらさもあったものでした。

 産婦人科自体への興味は非常に強く、日々の臨床での学びは多くありました。しかし、地方の産婦人科という性質上、医師は不足し緊急も多く、このために労働時間は長く、当直回数も多い状況でした。早期から外来・妊婦健診や当直も担当しなければ回らない状況で、多くが初の経験となる3年目の私にとっては学ぶ時間が十分に取れず、日々、目の前の業務に振り回されていたような気がします。

 初年度で専門医取得のための症例が余裕をもって集まるくらいの経験をし、学ぶことが多かったのは事実ですが、同時に、研修医時代に心がけていた系統的・多分野の学びはあまりできず、目の前の症例に対して必要な学びをしていく、という流れになっていました。

 業務も「パターン化して回す」ということを早期にせざるを得ない環境で、考えるより先に手を動かすほかない状況に、少し怖さを感じていたというのもあります。指導医の先生は非常に良い方だったのですが、その先生も忙しく、振り返る間もなく日々が過ぎ去っていきました。

 当然、執筆活動も止まっていましたし、産婦人科臨床以外に触れる機会はなくなっていきました。なんとか時間を捻出して学会発表の資料作成をするのがやっと。しかも当時は2020年でコロナ禍の初期段階。ワクチンも未開発の中、周産期医療センターとしてCOVID-19妊婦の対応にもあたっていました。もちろんお産など通常業務は続いており、外勤の医師も感染対策で減らされる中、多忙さはさらに増していきました。

 「多忙」と「興味あることができない」という日々は、少しずつ心を蝕んでいきます。
 冬くらいには勤務を終えた夜、帰路の車中でセンチメンタルな曲が流れると、意味もなくほろり涙を流すことがあったり、朝、ベッドからなかなか出られなかったりしていました。「寒くなったせいかな」とその時は気付いていませんでしたが、今産業医として振り返れば、明らかにメンタルヘルス不調の状態だったと言えます。

クロージング

 自己紹介からいきなりメンタルヘルス不調、と落差がすごい記事になってしまいましたが、今は臨床業務に携わっていない私も、当時は普通に学生→研修医→専攻医と、臨床医のキャリアを歩んでいました。しかしその中にも、今の働き方につながる学びは多くありました。初期研修病院は特殊なところを選んでいますが、自ら望んで入り、ローテーションにとどまらない学びをしていたことが、その後の医療観に大きな影響を与えています。

 次回はいよいよ、このメンタルヘルス不調が顕在化します。メンタルヘルスのみならず、身体にも影響が出る始末。そこから時間はかかりますが回復していきます。なぜ自らの不調に気付いたのか、そしてどうやって臨床を離れる選択を取ったのか、その理由や悩みを書いていきますので、お読みいただければ幸いです。

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